マイルストーン 後篇
局長近藤勇が土方の肩に手を置き、苦笑いした。
「やれやれ、すまんな歳。すまじきものは宮仕えとはよく言ったもんだ」
だがその近藤にしても、土方の悩みを他人事と笑ってばかりもいられなくなった。
淀川を下ること六里(約25km)。
大坂に到る全行程の中ほど、枚方の船着場には、停泊する客船に漕ぎ寄せ、酒や食べ物を売りつけるその名も「喰らわんか舟」というのがあって、土地の名物になっていた。
「喰らわんかー、餡餅喰らわんかー」
「酒喰らわんかー、牛蒡汁喰らわんかー」
「煮売茶船」とも呼ばれて、船頭がいきなり不躾な売り声に節をつけて船客の気を引く。
江戸の啖呵売とはまた違った風情があった。
「おもしれえな!舟で売りに来んのかよ。おおい、モチ喰らう!酒も喰らう!よー!こっちこっち!」
原田左之助が大はしゃぎで船縁から身を乗り出し、手招きすると、船よりも先に近藤勇が飛んで来て、ゲンコツを落とした。
「このバカ!お役目の最中だ!呼ぶな!」
だが、物売りの舟は、すでに原田めがけて殺到している。
近藤は慌てて両手をひろげ、追い払う仕草をして怒鳴った。
「いい!いい!呼んでない!こっち来んな!…馬鹿野郎、てめえの大声であっちこっちから寄って来ちまったじゃねえか!こら!来んなってば!」
もう原田と船頭、どちらを叱りつけているやら分からない。
だが、大坂の商人たちは、原田左之助のさらに上を行っていて、
「餡餅喰らわんかー」
と、こともあろうか14代将軍にまで、いつもの調子で舟を漕ぎ寄せ始めたのである。
天下の統治者にすら物怖じしない様は、独立自尊の精神に富む大坂人の気質が、まだ健在だったことをうかがわせる。
なにしろ明治の時代に入った後、銀行でも大学でも鉄道でも、大坂にないものは全部民間で作ってしまったくらいだから、この町のヴァイタリティーはズバ抜けていた。
だが将軍にとっては物騒この上ない土地で、素性の知れない民間人と接触させるなど、セキュリティ上あり得ない事態だ。
さすがに水戸の武田耕雲斎ら周囲を慌てさせたが、家茂公は喰らわんか舟の売り声を面白がり、甘いもの好きも手伝って、彼らから餅を買わせ、ぺろりと平らげてしまった。
この辺りは、一代の英雄たる風格と評すべきか、あるいは、ようやく窮屈な京と、小うるさい一橋慶喜から開放された気分がそうさせたのか、いずれにせよ奇観と言える光景だろう。
「ハハ!見ましたか広沢様、大樹公はまことに腹が座っておられる」
近藤は少しでも広沢の気を晴らそうと、手を打って痛快そうに笑ってみせた。
だが、それにいち早く反応したのは、ほかならぬ原田左之助だった。
「なんで俺はダメで、あっちは腹が座ってるって事になんだよ?!ああ?!」
「てめえは腹が座ってるんじゃなくて、単に腹を空かしてるだけだからだ!この大バカヤローが!」
広沢富次郎が、騒がしい部下たちをたしなめた。
「まあまあ近藤さん。そんくらいで」
「いや、お騒がせして申し訳ありません」
近藤が決まり悪そうに頭を下げると。広沢はようやく少し表情を和らげた。
「さすけねて。お互いこっだどこさ来て、毎日気を張ってるんだがら、多少は羽目を外したくなる気持ちも分からんではね。ただ、」
広沢はそこで言葉を区切り、分乗している藩主の船を顧みた。
「明後日、天保山の港に大樹公を無事お届けするまでは我が殿のお役目だがら、万が一にも不始末があってはなんね。頑張ってくなんしょ」
「ええ、命に替えても」
近藤が力強くうなずいたのを見て、広沢は安心したように前方に視線を戻した。
船は淀川に沿ってゆるやかに蛇行して、唐崎を過ぎる。
その広沢の後ろ姿を見ながら、原田がボソリと呟いた。
「ちぇ、近藤さんよ。人の良さそうな会津弁に騙されて、あの広沢って男を信用し過ぎんな。腹を割って喋ってるように見えて、ちゃーんと俺らに喋っていい言葉を選んでんだからよ?」
「…そりゃどういう意味だよ?」
「べぇーつにーぃ」
眼を細め訝しむ近藤に、原田は惚けてみせた。




