マイルストーン 前篇
そして、徳川家茂公が大坂へ立つまさにその当日、
文久三年四月廿一日。
この日、ついに攘夷の期限が公表された。
五月十日。
つまり、これから半月ほどしかない。
しかし奇妙なことに、いったい「攘夷」というのが具体的にどういう行動を指すのか、浪士組にはいっこう伝わってこなかった。
その日がくれば、日本は列強各国との通商条約を破棄し、
そして…?
それから?
ひょっとすると、会津藩にもそれからのことは明確に分かっていないのかもしれないし、
それどころか、朝廷や、幕府や、長州、薩摩にすら、「攘夷」が何であるかと言う意思統一は、されていないのかもしれなかった。
これが国家の外交方針の大転換であることを思えば、驚くべき事態である。
ともあれ、ようやく京を離れることになった若き将軍のために、この日、船が仕立てられた。
二条城から船着場のある伏見までは、通常ならおよそ一刻(約2時間)の道程ながら、今回は一旦岩清水八幡宮に寄り道してから淀川を下るため、伏見を素通りして竹田街道(現在の国道24号線)を抜け、川下の船着場がある橋本まで向かわねばならない。
倍以上の時間がかかったせいで、大阪城へ向かう葵の御紋(徳川)の行列は南北にダラダラと延び、都のど真ん中を分断したから、あちこちで渋滞を引き起こして、またもや京の人々の不評を買った。
岩清水八幡宮の参拝は、前回、孝明天皇の行幸をすっぽかした穴埋めというか、朝廷へのポーズも含んでいるのであろう。
側近の一橋慶喜は、此処で別れ、明日にも善後策を講じるため江戸へ向かうという。
船は淀川を下り、はるか北摂山系の山々が後方に流れてゆく。
心配していた天気は快晴で、舳先から波立った水面がキラキラと輝き、その上を二羽の青鷺が船と併走するように飛んでいた。
というのに。
会津藩公用方広沢富次郎は終始不機嫌な顔を崩さなかった。
「あーあ、切れ目なぐ山さ連なるこの地形はどうも窮屈でうまぐね。磐梯山の勇壮な景色が懐かしい」
彼がホームシックになるのも無理はなかった。
藩が京都守護職などというお役目を引き受けたばかりに、不慣れな業務に忙殺される毎日。
そのうえ、なし崩しに押し付けられた浪士組は絶えず厄介ごとを引き起こし、毎度その尻拭いまで引き受ける羽目になったのだ。
「なに、大坂に着けば摂海が望めますよ」
橋本までの道中、後ろを歩く浪士組副長土方歳三はなんとかこの公用方のご機嫌をとろうと腐心していた。
なにせ会津藩士たちになかば無理やりくっついてきた格好の浪士組は肩身が狭い。
整然と将軍家茂に付き従う正装した隊列の中、広沢の率いる浅葱色のダンダラを羽織った、みすぼらしいナリの約二十名だけが妙に浮いていた。
広沢は局長の芹沢鴨や近藤勇らと比較的歳も近く、同じ公用方の秋月悌次郎などとは違って、浪士組の面々ともお互い気安かったが、その分遠慮のない口をきいた。
船上でも広沢の愚痴は止まらない。
「今回は、会津兵がこだほど随伴するんだがら、無理について来ることもねがったのだ」
「つれないことを。そもそも我々は将軍様の警護の為にはるばる江戸からやって来たんです。今は会津の末席に加えて頂いているのですから、お供くらいさせて下さい」
「だども、おめんとこの奴らはまるで物見遊山でねが!」
広沢はウンザリした顔で船の後方に陣取った一団を振り返った。
「いやまさか、そんな…」
冗談めかして土方が手を振ったそのときを狙いすましたように、
「おいおいおい、さっきの見たかよ?家茂公は総髪だったぜ」
後方から原田左之助のガサツな声が、
「見た見た見た見た!船着場んとこでチラッと見えた!なんか、やっとお上のために働いてるって実感が湧いてきましたね!ね?」
藤堂平助の粗野な声が、
「あの船着場の川べりに遊郭があったろ?帰りに寄ってみっか」
永倉新八の好色そうな声が、
立て続けに聴こえてきた。
土方はすぐ脇にいた沖田総司の肩を小突き、連中を黙らせろと目配せした。
もちろん、そのように遠回しな意思表示を、沖田に察せられるはずもなく、
「ああ、土方さん。やっぱお雪ちゃんには、なんかお土産を買って帰った方がいいですよねえ?そうすると、浜崎先生にも。いや、それで八木家のご主人や奥さんに何も買ってかないってわけにはいかないよなあ。すると、今度はあのお祐のヤツが黙ってるはずもないし…」
と、頭をかきむしっている。
「…お前の悩み事は、こんな時ですら、ご近所付き合いの域を一歩も出ねえんだからな…なんかもう感銘すら覚えるぜ」
土方は、最後の頼みの綱にすがるような視線を送ったが、井上源三郎は「自分の手には負えない」と残念そうに首を振り、目を逸らした。
もはや言い訳はあきらめるしかないようだ。
土方は肩を落とした。
「ま…まあ、アレでもいざと言うときには、それなりに役に立ちますから」
「…だどいいげんともな」
西側の岸には、一里塚の小さな築山に植えられた榎が見える。
広沢は船上の風に吹かれながら、その脇にある水茶屋がゆっくり通り過ぎていくのを目で追って、ため息をついた。
そもそも松平容保が京都守護などという重職を拝命することに消極的、というより反対だった大部分の会津藩士たちからすれば、自ら進んで死地に赴こうなどという物好きが貴重な存在であることに違いはない。
会津藩はもう、この船のように川の流れに逆らうことはできず、今まさに区切りとなる一里塚を通過してしまったのだ。




