華の井戸
さて、そのころ。
その中沢琴は、着流しの浪士姿に二尺八寸の刀を帯び、沖田らに先んじて大坂に入っていた。
三十石船の船着場、八軒家に降り立った琴の傍らには、お忘れかもしれないが、この物語のもうひとりの重要人物、阿部慎蔵の姿もある。
琴は、清河八郎に託された謎、伏見義挙の闇資金を追ううち、偶然にも浪士組とほぼ時を同じくして大坂に行きついたのだった。
その軍資金は、おそらくこの上方の何処かで、来るべき回天(革命)の日を期す何者かがやってくるまで、ひっそりと眠っている。
京では原田左之助と共に、土佐激派の首魁と思しき吉村寅太郎の棲家まであと一歩のところに迫ったものの、彼女が追う巨額の資金がすでに吉村の手に流れているとすれば、近江屋などという商人相手にいつまでもケチなゆすりなどしていないだろう。
彼女はもともと政治的な対立の構図に首をつっこむつもりなどなかったから、そちらは山南敬介ら浪士組に任せて、北新地の紀伊国屋という料亭にいる謎の薩摩人の探索に立ち返ることにしたのだった。
「チッ、相変わらず埃っぽい街だぜ。大坂はどうも方角が悪いんだがな」
一方、行きかう荷車を憎々しげに睨んでボヤく阿部慎蔵もまた、彼なりの目的を持って大坂に来ていた。
彼は男装の中沢琴を“中沢九郎”という浪人だと信じきっていて、“彼”を大坂まで連れてきた理由を、そのときようやく打ち明けた。
「実はあんたによ、南堀江にある道場まで付き合って欲しいんだ」
「道場?」
「道場っても、納屋に毛の生えたようなボロ屋だがな。俺の師匠にあたる谷万太郎って先生が、たちの悪い借金取りに悩まされててさ」
「数に頼んで借金を踏み倒そうって腹なら、私は力にはなれん」
自身も町道場の娘である琴は、その谷万太郎なる人物の労苦は察するに余りあったが、とはいえ借りた金は返さねばならない。
「言うと思った。お堅いねえ」
「…」
琴が無言で睨むと、阿部は少し後悔したように頭をかいた。
「いや、返済の算段は俺がなんとかするから、無茶な取り立てをしないよう、もう少し待ってくれってさ、穏便に話をつけたいんだ」
「なるほど穏便にね」
「そ、穏便に」
「どうだか。ま、事情は分かったし、師を気遣うあなたの気持ちも理解できるが、気乗りしないな」
「水臭いなー、そんなこというなよー」
「分かったから触るな!」
琴は肩に置かれた手を振り払った。
とはいえ、これまでに慣れない京を探索する過程で、心ならずもこの阿部慎蔵には何度も借りを作っている。
結局、琴は渋々ながら同道するハメになってしまった。
八軒家から谷万太郎の道場に向かう道中、もう間もなく南堀江に入ろうというあたりに差し掛かったときである。
「せっかく小金もあるんだしちょっと遊んでいくか」
阿部が親指で指したのが、少し脇に入った新町橋の向こう、八木源之丞の話にも出てきた新町遊郭だった。
ここは、江戸の吉原、京の島原に並ぶ幕府公認の巨大な歓楽街で、町の四方には堀が巡らされており、遊女たちを外界と切り離している。
二人の立つ新町橋を渡った先に、その東側の入口にあたる大門があった。
琴は欄干の親柱の脇にある井戸に腰掛けて、ため息をついた。
「まず、賭場で稼いだその金を返済に充てるのが筋だろ」
「い、言われなくてもそうするつもりだよ!でもちょっとだけ!ちょっとだけ覗いていこうぜ。九軒町にはよう、あの有名な夕霧太夫 (浄瑠璃や歌舞伎の主人公)がいたっていう吉田屋が今でもまだあるんだとさ」
「なんだか、どんどん脇道にそれていく気がするんだが」
琴はグイグイ腕を引かれながら、「浄瑠璃云々はともかく、遊里が情報の宝庫であることには違いない」と自分を納得させて東大門をくぐった。
暮れの六つ(6:00pm)、新町の西にある光禅寺の鐘が聴こえた。
廓のぐるりを取り巻く石垣の上は、桜堤になっていて、季節が春であればさぞ見事な眺めだろうと思わせる。
事と次第によっては、目と鼻の先の海に黒船が攻め込んでくるかもしれないというこのご時勢に、赤い雪洞の灯に照らされ道行く男たちは、みな一様に鼻の下を伸ばして浮かれている。
と、その中に、琴は見覚えのある顔を見つけた。
「あれは…」
羽二重の羽織に仙台平の袴、嫌でも目立つその姿は、浪士組の主導権争いに敗れた末、都から逃げ出した家里次郎という男だった。
逃亡中にも関わらず、京で石井秩にちょっかいを出した頃と同じ伊達男ぶりだ。
「やれやれ、どうあってもあの連中との腐れ縁は切れないらしい」
軽く首を振り、後を追おうと小走りに駆け出したとき、
琴は、二人の禿(幼い遊女見習い)に先導された、“太夫道中”に行き当たった。
太夫道中とは、揚屋に招かれた太夫が取り巻きを従えてお座敷に向かう小さなパレードだ。
江戸の吉原でいう花魁道中である。
遊女には格付けがあり、“太夫”は上方の遊里において最高位の称号で、太夫道中はその女王にのみ許された特権だった。
「失礼」
すれ違いざま、軽く会釈した琴を艶やかな衣を纏った一行の中央に立つ遊女が引きとめた。
「ちょっと、待っとくなはれ」
様々な色彩の華に彩られた打掛を羽織り、兵庫髷に結った髪には、きらびやかな簪や櫛、長い笄(髪結いの道具)を挿している。
まさしく太夫その女だった。
後ろからは妓夫(客引き)が大きな紅い傘をかざし、両脇には遣手と呼ばれる中堅の女郎、さらには引舟女郎(鹿子位女郎)などお付きを従えている。
「そこからあんさん方が新町橋のたもとで話してはるのが見えましたんやけど」
圧倒的な存在感を放つ遊女は、門の外で琴が腰掛けていた井戸を優雅に指さした。
琴はただ黙って彼女が先を続けるのを待った。
「あんさんが腰掛けてはった井戸、あれは、“足洗いの井戸”言いましてなあ。ここにおる女たちが身請けされたり、年季明けで苦界の外に出られるようになったとき、足を洗って穢れを清めるところですのや。せやから、座ったりしたらあきまへん」
琴は突然のことに少し面食らった顔をしたが、やがて深々と頭を下げた。
「それは…申し訳ないことをしました」
「おや。おサムライはんは、随分素直に謝りはるんやねえ。こちらこそ身分もわきまえず失礼な口を利いてしもて、すんまへんなあ。うちは若鶴いいます。良かったらお座敷にお声をかけてください」
若鶴は太夫に相応しいたおやかな礼をして身をひるがえすと、作法通り三枚歯の下駄を八の字に摺りながら悠然と去っていった。
「うひょー。ありゃ太夫だぜ。一度はあんないい女と付き合ってみたいもんだね!」
阿部慎蔵は両手でこめかみを押さえ、いたく感動して一行を見送っている。
太夫と顔つなぎが出来て、お座敷に呼んでくれなどと声をかけられるのは、確かに名誉なことだった。
そして、我に返った琴が夕闇の迫る通りを見渡したとき、家里次郎の姿はすでになかった。
「足洗いの井戸…か。そんなものでこれまでの人生が消せれば、苦労はないのに…」
それは浪士組を脱走した家里のことを揶揄したのかもしれなかったが、阿部にはなぜか、そこに自嘲の響きが混じっているように聴こえた。
※身請け:パトロンがついて妻や妾として置屋から金で買い取られること。
※年季明け:決められた期間廓での奉公を勤め上げること。




