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幕末カタナ・ガール  作者: 子父澤 緊
下坂之章
205/404

華の井戸

さて、そのころ。

その中沢琴なかざわことは、着流しの浪士姿に二尺八寸の刀を()び、沖田らに先んじて大坂に入っていた。

三十石船さんじっこくせんの船着場、八軒家はっけんやに降り立った琴のかたわららには、お忘れかもしれないが、この物語のもうひとりの重要人物、阿部慎蔵あべしんぞうの姿もある。


琴は、清河八郎にたくされた謎、伏見義挙ふしみぎきょ闇資金やみしきんを追ううち、偶然にも浪士組とほぼ時を同じくして大坂に行きついたのだった。

その軍資金は、おそらくこの上方かみがた何処どこかで、(きた)るべき回天かいてん(革命)の日をす何者かがやってくるまで、ひっそりと眠っている。

京では原田左之助と共に、土佐激派とさげきは首魁しゅかいおぼしき吉村寅太郎の棲家すみかまであと一歩のところに迫ったものの、彼女が追う巨額の資金がすでに吉村の手に流れているとすれば、近江屋などという商人相手にいつまでもケチなゆすりなどしていないだろう。

彼女はもともと政治的な対立の構図に首をつっこむつもりなどなかったから、そちらは山南敬介ら浪士組に任せて、北新地の紀伊国屋きのくにやという料亭にいる謎の薩摩人の探索たんさくに立ち返ることにしたのだった。


「チッ、相変わらずホコリっぽい街だぜ。大坂はどうも方角が悪いんだがな」

一方、行きかう荷車を憎々(にくにく)しげに睨んでボヤく阿部慎蔵もまた、彼なりの目的を持って大坂に来ていた。


彼は男装の中沢琴を“中沢九郎(くろう)”という浪人だと信じきっていて、“彼”を大坂まで連れてきた理由を、そのときようやく打ち明けた。


「実はあんたによ、南堀江にある道場まで付き合って欲しいんだ」

「道場?」

「道場っても、納屋なやに毛の生えたようなボロ屋だがな。俺の師匠ししょうにあたる谷万太郎って先生が、たちの悪い借金取りに悩まされててさ」

「数に頼んで借金を踏み倒そうってハラなら、私は力にはなれん」

自身も町道場の娘である琴は、その谷万太郎なる人物の労苦ろうくは察するに余りあったが、とはいえ借りた金は返さねばならない。

「言うと思った。おかたいねえ」

「…」

琴が無言でにらむと、阿部は少し後悔したように頭をかいた。

「いや、返済の算段さんだんは俺がなんとかするから、無茶な取り立てをしないよう、もう少し待ってくれってさ、穏便に話をつけたいんだ」

「なるほど穏便にね」

「そ、穏便に」

「どうだか。ま、事情は分かったし、師を気遣きづかうあなたの気持ちも理解できるが、気乗りしないな」

「水臭いなー、そんなこというなよー」

「分かったから触るな!」

琴は肩に置かれた手を振り払った。


とはいえ、これまでに慣れない京を探索たんさくする過程で、心ならずもこの阿部慎蔵には何度も借りを作っている。

結局、琴は渋々ながら同道どうどうするハメになってしまった。


八軒家から谷万太郎の道場に向かう道中、もう間もなく南堀江に入ろうというあたりに差し掛かったときである。

「せっかく小金もあるんだしちょっと遊んでいくか」

阿部が親指で指したのが、少し脇に入った新町橋の向こう、八木源之丞の話にも出てきた新町遊郭しんまちゆうかくだった。

ここは、江戸の吉原、京の島原に並ぶ幕府公認の巨大な歓楽街かんらくがいで、町の四方には堀が(めぐ)らされており、遊女たちを外界がいかいと切り離している。

二人の立つ新町橋を渡った先に、その東側の入口にあたる大門があった。


琴は欄干らんかんの親柱の脇にある井戸に腰掛こしかけて、ため息をついた。

「まず、賭場とばかせいだその金を返済へんさいてるのが筋だろ」

「い、言われなくてもそうするつもりだよ!でもちょっとだけ!ちょっとだけのぞいていこうぜ。九軒町にはよう、あの有名な夕霧太夫(ゆうぎりだゆう) (浄瑠璃(じょうるり)や歌舞伎の主人公)がいたっていう吉田屋が今でもまだあるんだとさ」


「なんだか、どんどん脇道わきみちにそれていく気がするんだが」

琴はグイグイ腕を引かれながら、「浄瑠璃云々(じょうるりうんぬん)はともかく、遊里ゆうりが情報の宝庫であることには違いない」と自分を納得させて東大門をくぐった。


暮れの六つ(6:00pm)、新町の西にある光禅寺の鐘が聴こえた。

くるわのぐるりを取り巻く石垣の上は、桜堤さくらづつみになっていて、季節が春であればさぞ見事なながめだろうと思わせる。

事と次第によっては、目と鼻の先の海に黒船クロフネが攻め込んでくるかもしれないというこのご時勢じせいに、赤い雪洞ぼんぼりに照らされ道行く男たちは、みな一様いちように鼻の下を伸ばして浮かれている。

と、その中に、琴は見覚えのある顔を見つけた。

「あれは…」

羽二重はぶたえの羽織に仙台平せんだいだいら(はかま)、嫌でも目立つその姿は、浪士組の主導権(しゅどうけん)争いに敗れたすえ、都から逃げ出した家里次郎(いえさとつぐお)という男だった。

逃亡中にも関わらず、京で石井秩(いしいいち)にちょっかいを出した頃と同じ伊達だて男ぶりだ。


「やれやれ、どうあってもあの連中との腐れ縁(クサレえん)は切れないらしい」

軽く首を振り、後を追おうと小走りに駆け出したとき、

琴は、二人の禿(かむろ)(幼い遊女見習い)に先導された、“太夫道中たゆうどうちゅう”に行き当たった。

太夫道中たゆうどうちゅうとは、揚屋あげやに招かれた太夫が取り巻きを従えてお座敷に向かう小さなパレードだ。

江戸の吉原でいう花魁道中おいらんどうちゅうである。

遊女には格付けがあり、“太夫”は上方の遊里において最高位の称号で、太夫道中はその女王にのみ許された特権だった。


「失礼」

すれ違いざま、軽く会釈えしゃくした琴をあでやかな衣をまとった一行の中央に立つ遊女が引きとめた。

「ちょっと、待っとくなはれ」


様々な色彩の華にいろどられた打掛うちかけを羽織り、兵庫髷ひょうごまげに結った髪には、きらびやかな(かんざし)(くし)、長い(こうがい)(髪結いの道具)をしている。

まさしく太夫そのひとだった。

後ろからは妓夫ぎゆう(客引き)が大きな紅い傘をかざし、両脇には遣手やりてと呼ばれる中堅ちゅうけんの女郎、さらには引舟女郎ひきふねじょろう(鹿子位女郎かこいじょろう)などお付きを従えている。


「そこからあんさん方が新町橋のたもとで話してはるのが見えましたんやけど」

圧倒的な存在感を放つ遊女は、門の外で琴が腰掛こしかけていた井戸を優雅に指さした。


琴はただ黙って彼女が先を続けるのを待った。


「あんさんが腰掛こしかけてはった井戸、あれは、“足洗いの井戸”言いましてなあ。ここにおる女たちが身請みうけされたり、年季明ねんきあけで苦界くがいの外に出られるようになったとき、足を洗ってけがれを清めるところですのや。せやから、座ったりしたらあきまへん」

琴は突然のことに少し面食めんくらった顔をしたが、やがて深々と頭を下げた。

「それは…申し訳ないことをしました」

「おや。おサムライはんは、随分ずいぶん素直にあやまりはるんやねえ。こちらこそ身分もわきまえず失礼な口を利いてしもて、すんまへんなあ。うちは若鶴わかづるいいます。良かったらお座敷にお声をかけてください」

若鶴は太夫に相応ふさわしいたおやかな礼をして身をひるがえすと、作法通り三枚歯の下駄を八の字にりながら悠然ゆうぜんと去っていった。


「うひょー。ありゃ太夫たゆうだぜ。一度はあんないい女と付き合ってみたいもんだね!」

阿部慎蔵は両手でこめかみを押さえ、いたく感動して一行を見送っている。

太夫と顔つなぎが出来て、お座敷に呼んでくれなどと声をかけられるのは、確かに名誉なことだった。


そして、我に返った琴が夕闇ゆうやみの迫る通りを見渡したとき、家里次郎の姿はすでになかった。

「足洗いの井戸…か。そんなものでこれまでの人生が消せれば、苦労はないのに…」

それは浪士組を脱走した家里のことを揶揄やゆしたのかもしれなかったが、阿部にはなぜか、そこに自嘲じちょうの響きが混じっているように聴こえた。


※身請け:パトロンがついて妻や妾として置屋から金で買い取られること。

※年季明け:決められた期間廓での奉公を勤め上げること。

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