世間話、楢崎龍のこと 其之壱
このところ、鬱陶しい梅雨空が続いている。
八木邸の庭に建設中の道場は、浪士組の晴れ舞台である徳川将軍の摂海巡視(大阪湾の海防視察)随行にも、雨の季節にも間に合わず、彼らは向かいにある前川邸の表長屋に仮の稽古場を作って急場を凌いでいたが、隊士も20人を越えるようになっては、素振りをしていても少し踏み込めば誰かのかかとを踏む有り様で、とても道場としての用を成さなかった。
一方、八木家の当主源之丞は、浪士組の大坂行きが決まってからというもの、その日を指折り数えていた。
久々にこの騒がしい居候連中から解放され、少なくとも浪士たちが帰ってくるまでの間は家族と静かに暮らせるのだ。
「まあまあ、みなさん稽古にご精が出ますなあ」
上機嫌で勤め先の青蓮院から帰ってきた源之丞は、自宅の門前で向かいの格子窓から漏れる気合いの声に相づちを打ちながら、沖田総司と立ち話に興じていた。
「まあ、いよいよ将軍様の警護という当初の目的が果たせるわけですからね。隊士たちというより近藤さん、もとい近藤先生が張り切っちゃって」
「せんせと言えば、浜崎先生が怪我人が多すぎて、なんぼ手当てしても追いつかんゆうて愚痴ってはりましたで」
源之丞が言ったのは、浜崎新三郎という壬生村の開業医のことである。
浪士組が京にやってきた際、この浜崎家の屋敷を浪士たちの宿所として提供した縁もあって、以来、浪士組の掛かり付け医院のような関係になっている。
「そういや、お秩さんも毎日遅くまで帰ってこないってお雪ちゃんが泣いてたな」
沖田は浜崎診療所の助手、いわば看護師である秩には常々申し訳ない事をしていると思っていたので、彼女のひとり娘、雪の面倒をよくみていた。
「稽古も結構どすけど、ほどほどにしとかな大坂に行くまでに皆ヘバって、頭数が足らんようなってしもたらコトどすえ」
「そうなんですけど、ご存知の通り手加減てもんを知らないからなあ、試衛館の連中は。庭の道場もまだできないでしょ?あそこ狭いからアッチコッチぶつけるんですよねえ。このままじゃ隊士だけじゃなくて医者も足りなくなりますよ」
どこまで本気なのか、沖田はノホホンと応えた。
腕組みした源之丞は建てかけの道場が見える門の中を覗き込んで、
「あの瓦屋も五郎兵衛さんが隠居してからは仕事がパッとせんなあ。ほんま、惜しい人はどんどん居らんようになってもうて。わたしの勤めとる青蓮院にも楢崎先生いう腕のええお医者さんがいやはったんどすけどな、去年のあたまに突然お亡くなりになりはって。元気やったら紹介して差し上げることもできたのに、残念なことどすわ」
と嘆いてみせた。
「医者の筆不精ゆうやっちゃね」
何処からか割り込んできたこの家の通い女中祐を、沖田が睨みつけた。
「またでたよ!こんなとこで油売ってないで、さっさと買い物にいけば?…あと、さっきの例えは惜しいけど違う」
「惜しいてなにが?暇そうに道端で世間話しとる人に言われとないわ!だいたい言い方がいちいちムカつくねん」
源之丞は若い二人の微笑ましいケンカに目を細めた。
「そういうたら、楢崎先生のとこにも、こないなお転婆の娘さんがおらはったなあ」
「何ですかいきなり」
沖田と祐は同時に源之丞を振り返った。
「いやいや、なかなか器量良しでお祐ちゃんと何処とのう似てたから、元気にしたはるかなあ思て。ときに大坂ではどちらにお泊りです?」
「なんでそんなこと聞くんです?」
「京屋って船宿です」
何故か、部外者である祐が淀みなく答えた。
「ほほう!そりゃまた、偶然どすなあ」
源之丞がポンと手を打ったので、沖田はまた懐手に小首を傾げた。
先ほどからさっぱり話が見えない。
「だから何が?…ていうかなんでお前が知ってんだよ!」
「あんたらがシッカリしてへんから、うちがわざわざ下調べして、源さんに色々教示したってんのや。田舎もんの坂東武者が向こうで恥かかんようにな」
土地勘に欠く浪士組の内部事情はさておき、源之丞は訳を話し始めた。
「というのも、楢崎先生の家は奥さんのほか、娘さん三人とまだ小さい男の子だけの所帯どしたさかい、先生が亡うなったあとえらい困窮してしもたんどす。お屋敷も売って、それでも足らんからゆうて女の子はみんな奉公に出ることになったんどすけど」
「はあ」
話が戻ってしまったので沖田は間の抜けた返事をした。




