月籠りの夜 其之弐
以蔵はすぐには答えず、背後に回りこむと、疲れたようにしゃがみこんだ。
それから、男の首にゆっくり腕をまわして、自分の方に引き寄せた。
「じゃち言いゆうろう?わしもおんしを信じたいちや」
彼は小刻みに震える背中越しに顔を寄せ、耳元に前歯の突き出た唇をあてた。
「のう、教えとおせ」
囁いた声が生暖かい息となって、男の頬を掠めた。
「今までおんしが挙げた男たちゃあ、最期にどがな命乞いをしたがか」
「そやから、ワシが殺したわけやない!」
「そりゃあ…いかんちや。答えになっとらん」
以蔵は、頸に廻した腕に力を入れる。
「い、息が…!」
「おんしがしょっ引くちゅうがは、殺すんと同しことじゃいか。のう、そげえ屁理屈はもうええき、正直なとこを教えとおせ。奴らは、おんしに見逃してくれち懇願しつろう」
「ワシにそんな権限はない。わかっとるやろう?」
男は搾り出すようにかすれた声で答えた。
以蔵は、さらに力を込めた。
だが、おだやかな口調は変わらない。
「ほがなことは聞いちょらん」
「わ、わかった。奴らは黙って縛につきよった。たいがいはそうやった」
「なるほどの」
首の圧迫をすこし緩め、以蔵は微笑んだ。
「お互い信念を掛けて戦っちゅうわけじゃき。最期くらい、そがい潔うありたいもんぜ。の?」
「まて、まてまて。まってくれ!そうや、ええことを教えたる!」
以蔵は軽くため息をついて、意見を求めるように隣の男を見やる。
隣の男が、かすかにうなずいた。
「めんどくさいねや。ゆうてみい」
「これはな、多分あんたら、土佐の人間も知らんはなしや」
男はかすれた声で、一息にまくし立てた。
「わしゃな、京洛の攘夷派を探っとって、面白い噂を耳に挟んだんや。
ちょっと前、関白を襲う相談しとった薩摩の跳ね返りどもが、寺田屋で鎮圧された事件があったやろが?
あいつら、ホンマなら根回しのために、有力な公家連中に大金をばら撒くつもりやったんじゃ。
ところが知ってのとおり、あの計画は不発に終わった。
ほんでな、この京のどっかに、その時の資金がまだ手つかずで残っとるちゅう話なんや。
わしゃ今、それを探っとる。あんたらかて、国に報いるために働いとるゆうても、活動資金が藩から出とるわけやないやろ?
いくら志があったかて、霞を食うて生きて行くわけにもいかんがな。
どや?一枚かまへんか?」
話し終わった男は、懇願するように以蔵の顔色をうかがっている。
以蔵はしばらくその顔をじっと見つめていたが、やがて目を閉じて首を振った。
「はあ…つまらん。おんしの話はつまらんのう」
彼が軽く顎をしゃくると、ようやく物言わぬ周囲の影たちが動き出した。
彼らは縛っていた縄を解き、それぞれが男の両腕を別々の方向に引っ張って、大の字の姿勢で彼を立たせた。
両腕を押さえつけられて、身動きができない男の頸に、以蔵がゆっくり麻の細引きを巻いていく。
「まて、まて、まってくれ!」
しかし以蔵は、淡々と首を締めあげていった。
男の息が細くなっているのが判る。
その顔には徐々に赤みが差し、眼は充血していった。
「怖じるこたあないき。ええかい?わしの眼を見いや」
以蔵は手を止めて、男の目にたまった涙を指で拭き取り、そしてまた微笑んだ。
「まんだ時間はあるきねや。そんときまで、おんしが野辺送りにしちゃった連中の顔を、ゆうっくり、一人ひとり思い浮かべちゃり」
「ガ…カ…」
うめきにならない、呼吸音。
「おういおい、まんだ死なれんちや。がんばり」
「…ヵ…」
男の顔はとうとう土気色に変わっていた。
「おい!人が来る前に早う終わらせろ」
影の一人が、しびれを切らしたように言葉を発した。
「まあ、待ちや。こいつには最期に一つ言うておいちゃることがあるき」
以蔵は細引きの縄を少し緩めて、男の顔に生気が戻るのを待った。
「おまんの娘、島田左近の妾らしいねや」
男の目の奥に、感情のカケラのようなものが蠢いた。
「可哀想にのう、旦那と親父を立て続けに失くするゆうがは、まっことづつのうてたまらんねや」
初老の男は、怒りとも絶望ともつかない表情を浮かべて、何か必死に訴えようとしている。
「けんど娘のことは、なあんも心配せんでええき」
「…スメハカンケイナイ」
彼は最後の力で、かすれた声をしぼり出した。
「猿猴に犯された女は猿猴を産むらしいわえ。ほいでの、その猿猴ちゅうがは女に化けて、男をたぶらかす」
「ムスメハ、チガウ」
「じゃとええがの、猿猴が生まれてきたら焼き殺すしかないがぜ」
以蔵は途方に暮れた表情をしてみせ、それから、満面の笑みを浮かべた。
細引きを握ったその両手には、青い筋が浮かんでいる。
鈍い音がして、
その男は、
目明し「猿の文吉」は、
こと切れた。
影たちが、シカバネをむさぼる餓鬼のように、文吉の身体に群がった。
文久二年の京とは、そういう町だった。