ソープオペラ 前篇
時は遡り、文久元年。
芹沢鴨が赤沼牢獄に囚われていた、その同じ頃。
檻のなかで浮世を諦観していた芹沢とは対照的に、
逃亡を続けながらも、まだ悪あがきを止めようとしないお尋ね者がいた。
清河八郎である。
実はこの年の一月下旬から二月頭にかけて、清河は浪士組にも参加した村上俊五郎を頼って、水戸に潜入している。
まさに芹沢らが悪行の限りを尽くしていた頃のことだ。
これは偶然ではない。
天狗党の噂を耳にした清河は、彼らが攘夷のために決起するのであれば、同志と共に合流することを見据えていたのだった。
しかし、佐原や潮来における騒動の現場に居合わせた彼は、そのあまりの無軌道ぶりを目の当たりにして、共同戦線の構想に見切りをつけている。
やがて、後。
その“急務三策”の二項で、清河は“天下に大赦す”と提唱している。
皮肉なことに、この起死回生の策が芹沢の命をも永らえさせることになった。
その年の十一月、江戸城。
「その二に曰く」
浪士組の創設にも関わったあの山岡鉄太郎が、背筋をピンと伸ばし、当時まだ政治総裁職にあった松平春嶽に上奏していた。
「ここ数年来頻繁に起きる非常事態は、官民の交流が乏しい現状に起因しております。
いまや既に朝廷と幕府は大方針において合意し、
上層部では大赦が行われ、
多くの知識人は、すべて相応しい地位に戻りました。
ですが、こうした措置が、在野の志ある者たち全てに行き渡っているとは言い難い。
それが、幕府の公平性に対する疑念を呼び、誹謗中傷をもたらしているのです。
そのせいで、今なお世情は騒がしく、不穏な兆候が燻っております。
果たして、このような風聞が、徳川の治世に資すると言えるでしょうか。
彼ら草莽の士が身命を投げ打ち、家族をも顧みず、東奔西走しているのは、決して私欲に突き動かされてのことではなく、この国に忠誠を捧げるためなのであります。
彼らの動勢が、今日にいたる天下の大きな流れを作ったのであるならば、
すなわち、今後も彼らの助けなくして、この国の繁栄はあり得ないでしょう。
恩赦の措置が、上流階級のみに止まり、いまだこうした者たちに救いの手が及ばないのは、何とも遺憾であります。
一刻も早く大赦の令が天下に布告されることを、切に望みます」
聞き終えた松平春嶽は顎をさすった。
「興味深い考察だ。それは君の意見かね」
「いえ。これは清河という一介の浪士による献策にございます。彼もまた、草莽の志士の1人であります」
「その男を呼びなさい。一度話がしてみたい」
その年の十一月十八日、朝廷は大赦の令を発し、師走十二日には幕府がこれを実行に移した。
長岡での決起や天狗党の騒ぎに関わった政治犯たちの多くはこの時解放された。
だが、恩赦の大盤振舞いも、芹沢の罪科を洗い流すには充分でなかった。
芹沢はこの大赦の発布を赤沼の牢屋敷で獄吏から聞かされている。
「引き廻しの上、斬罪のところ、御大赦につき、牢屋屋敷において斬罪梟首のこととする」
「ハ、笑わせんな!高輪で異人が斬られたと言っちゃ、量刑を上乗せし、大赦が布告されたと聞きゃあ、今度は減刑くださるってかい?俺は牢屋の中にいて、指一本動かしちゃいねえのに、勝手に罪だけが増えたり減ったりしやがる。お奉行も忙しいこった。大赦が聞いて呆れるな!」
鉄格子ごしに、芹沢は牢番に悪態をついた。
芹沢の悪運も、尽きたかに思われた。
だが、玉造勢の釈放に尽力していた武田耕雲斉、吉成勇太郎らの献身的な周旋活動が、ギリギリのところでようやく実を結んだ。
まさに危機一髪で、芹沢の首は繋がったのだ。
そして、文久三年の京。
二条木屋町樋之口下ルにある、
吉成勇太郎宅を芹沢鴨と新見錦が訪ねた。
「京にいらっしゃるのを存じ上げていながら、ご挨拶が遅れました」
新見錦が柄にもなくあらたまって口上を述べた。
薄暗い部屋には書簡や本がうず高く積まれ、
その山に埋もれるようにして体格の良い男が背中を丸めて書き物をしていた。
懐かしい後姿だ。
隣には、茶色い麻の半被に梵天帯と、この場には不釣り合いな風体の先客がいる。
最初、二人は、彼のことを、ここで落ち合う約束をしている仏生寺弥助だと思い込んでいた。
しかし、すぐに仏生寺の特徴的な撫肩を思い出し、この男が別人であると悟った。
新見は吉成と思しき背に向かって頭を下げた。
「まずもって、吉成様におかれましては、ますますご活躍の由、同じ水戸出身の拙者らも鼻が高うございます」
男はゆっくりと振り返り、笑顔を見せた。
頰は痩け、顔色は良くなかったが、この魅力的な笑顔はかつての精力を忍ばせた。
「そりゃ皮肉かい?あいにく持病で歩くのも難儀する始末でね。水戸が攘夷の先鋒たらんと息巻いてた時代も、今は昔さ。大獄騒ぎからこっち、宗家からは疎まれ、長州薩摩会津には出し抜かれ、寄る辺なき我が水戸藩の禄を食む身としては、目立たぬよう息を潜めておるのが精一杯のご奉公ってとこさ」
「ご謙遜を。尊王攘夷は、吉成様抜きには成されないでしょう」
吉成は肩をすくめおどけて見せた。
「尊王攘夷!は!結局のところ、帝と水戸の関係は安っぽい世話物(恋愛劇)みたいなもんさ。水戸は勝手に恋い焦がれた挙句、袖にされて、独りで怒り狂ってるバカな女だ」
「その例えは、いささか不謹慎では?」
顔色を変える新見を無視して吉成は剛毅に笑った。
「まったく、昔はよかった。世の中もっと単純だった。近頃ときたら、いったい誰の顔色を伺えばいいのかすら分かりゃしねえ。ま、結果的にこうなって、なんかこう肩のあたりが軽くなった気もするんだよ。お前たちも、まだ身体と首が繋がっていて何よりだぜ」




