落ちた偶像 其之弐
2年前、万延二年二月。
常陸国佐原村。
下村嗣次と新家粂太郎、つまり芹沢鴨と新見錦は、玉造勢の仲間を引き連れ、村の大惣代(村役人の代表)高橋善左衛門を訪ねた。
座敷に通され、差し向かいに座った初老の男、高橋善左衛門は、苦り切った顔に滝のような汗を流している。
「そりゃねえよ惣代さん!いくらなんでも値切りすぎってもんだ!」
芹沢は外に聞こえるくらいの大声を張り上げた。
「しかし、皆とも相談したのですが、都合できるのは200両が精一杯なのです」
大惣代は汗を拭きながら訴えた。
「そいつは組頭(村役人)の山崎ナントカ左衛門ておっさんからもう聴いてる。だが俺は、いたって慎重な質でね。どこかで行き違いがあったんじゃないか、それとも俺の方に問題があって何か聞き違いをしたんじゃないか、とか色々勘ぐっちまう。そこで、もっと上の人間にもう一度確認しとこうと思ってね。んで、此処に来た」
「は、はあ…」
「新家ぇ!」
「はい」
芹沢のすぐ隣に座っていた新見が静かに応えた。
「我々天狗党は佐原の商家の方々にいくら用立てを申し入れた?」
「きっかり千両です」
「だよな?俺もそう記憶してる。てことはだ、大惣代。計算ではあと800両も足らん。俺は三百人の部下たちに、棒切れで黒船の大砲と戦えと言うべきか?こりゃ困ったことになったなあ」
芹沢は、お気に入りの大鉄扇で脇にある火鉢の縁をバンと打った。
小さな火の粉と灰が舞い上がる。
高橋善左衛門は言葉もなく、縮こめた身体をビクッと震わせた。
「おっと、高橋殿、すごい汗だ。どこかお具合でも悪いのでは?確かにこの部屋は暑いな。よお、兜、チョコっと風を入れてくれ」
「なんだよ。俺に命令すんのか?」
声を掛けられた男は、角ばった顔をしかめて自分の胸元に手をやった。
「頼むよ」
「チェ、しょうがねえなあ!」
不承不承立ち上がった男の手には、鳶口(先の尖った解体道具)が握られている。
兜と呼ばれたその男は、いきなり床の間の掛け軸にそれを突き立てた。
「な、何をなさいます!」
高橋善左衛門は驚いて腰を浮かした。
「何って、こっちが風通し良さそうだろ?」
この兜左右助というのは玉造勢の中でも特に血の気が多い男で、のち、芹沢が京に上った同じ頃に、大阪の四天王寺で坂本龍馬と決闘騒ぎまで起こしている。
「バカ、風向きを考えろ。こっちだよ」
今度は梅原斤五郎という大男が、座敷の土壁に掛矢(大型のハンマー)を振り降ろした。
芹沢は目をつぶり、顔の前で手を払って咳き込んだ。
「おい!そこら中埃まみれじゃねえか!これじゃとても腰を落ち着けて話ができる雰囲気じゃねえぞ」
新見は顔色一つ変えず、穴だらけの部屋を見渡した。
壁に開いた大穴越しに蕾をつけた梅の木がのぞいている。
「たしかに。一旦、この家ごときれいに浚えてしまいますか」
玉造勢、通称天狗党による数々の蛮行が、幕府の代官の目に留まるのに時間はかからなかった。
ただちに芹沢らの捕縛令が下り、
そして、
元号が三月に改められ、文久元年三月廿八日。
芹沢は松本屋という妓楼の遊女、色八を、実家である芹沢外記宅に連れ込み、同衾していたところを踏み込まれた。
「いいところだってえのに、気の利かない連中だね」
後ろ手に縄を打たれながら、芹沢は嘯いた。
引っ立てられ、門を出ると、まだ梅が咲いていた。
この時、水戸藩で芹沢らから佐原の一件の口述書を取ったのが、件の吉成勇太郎でる。
その後、芹沢は江戸城和田倉門外竜ノ口 の評定所に送られて取り調べを受け、水戸の桜川縁にある赤沼の牢屋敷に繋がれた。
しかし、時代の潮流は止まらない。
囚われてちょうど二月のちの五月廿八日、
今度は天狗党の残党が、高輪の東禅寺に宿泊していたイギリス公使を襲撃する事件を引き起こした。
すでに拘禁中の芹沢も、その計画の一味と見なされ、死刑判決を言い渡された。
‐だが今、なぜか自分は生きて京にいる。
芹沢鴨の瞳に暗い影が差した。
「ふん、尽忠報国ねえ…なあ、新見。俺はな、万が一にもこの国難を乗り切って、夷敵を退けることができるとすれば、それは俺たちが負けた時だと思ってる」
「な、なにを言い出すかと思えば」
「たしかに長州や薩摩の奴らにこの国を好きにさせるのは面白くねえ。そんな有り様を黙って見過ごせるかと問われれば、答えは否だ。だがな。徳川の命脈がもう尽きてるのも本当さ。あの神輿は無駄にデカすぎてもう担げる代物じゃねえよ…」
「あなたともあろう人が、早々に白旗を揚げるなど!」
芹沢は降参のポーズをとって見せた。
「ハイハイわかったよ。俺も一緒に吉成に会いに行きゃいいんだろ?
まあいいさ。俺は死ぬまでにもう一花咲かせりゃあ充分だ。俺が死んだ後のことなんざ知ったことか。あの下らねえお上と心中するも一興だ」
「やはり貴方は、死に場所を求めてこの浪士組に入ったのですか。あのとき、吉成さんは私たちに今少し生きる時間をくれた。
わたしは、その時間を彼の人の理想のために捧げたい。我が天狗党が中央に返り咲くためにも」
「よせよ今さら。新見錦は、青臭い新家粂太郎に戻っちまったのか?」
新見はふと、永倉新八に浴びせられた言葉を思い出した。
-あんた方の小っちぇえ派閥争いに加わる気はねえ
「…そうかもしれません」
思えば、自分は常に組織に属し、その権威に守られてきた。
水戸藩、
長岡勢、
天狗党、
そして浪士組。
だが今や、自分の脚で立つべきときが来たのかもしれない。
「ま、お前のやりたいようにやるさ。だが局長がひとり欠けたんじゃカッコがつかねえな」
言葉とは裏腹に薄笑いを浮かべながら、芹沢は筆頭局長という建前を形ばかり演じてみせた。
「降格という扱いにすればよろしいでしょう」
「では俺と近藤が留守の間、誰が京に残る?」
「いいのがいます。五番組に谷右京って発明家の爺さんがいたでしょう?
学問を続けるため京に残ったらしいが、研究費どころか食うにも事欠いてると聞くから、アレを私の代わりに据えればよろしい。
歳を食ってる分、押し出しも効けば、外からはそれらしくも見える。何より、毒にも薬にもならん御仁です。
丹波の産で、我々とも近藤ともシガラミがないから、どちらからも不満は出んでしょう」
「おめえって奴ぁ、相変わらずソツがないねえ。ま、やるだけやってみるがいいさ。どうせ俺たちはあのとき一度死んだんだ」
それは、芹沢鴨の精一杯のはげましだった。
「芹沢さん、きっと戻ります。
見届けたら、取って返して、今度は二人で御親兵を率いて一戦やらかしましょう」
新見が思いつめた表情で金打 (刀を少し抜いてさやに戻す約束の作法) した。
鍔鳴りの音が小さく響く。
「やめろよ、こっ恥ずかしい。さあ、今度こそ飯にしようぜ?急がねえと地獄から這い出してきたあの餓鬼どもが食い尽くしちまう」
芹沢は、そそくさと部屋を出て行った。




