大津宿の密会 其之弐
夜だというのに、街道はたいへんな賑わいだった。
後をつけるには好都合である。
男は特に急ぐわけでもなく、道行く人を眺めながら、表通りをそぞろ歩く風だ。
原田左之助などは早くも退屈して、茶屋の看板に気をとられたりしている。
「おい、あの『走井餅』ってなんだよ?」
わけも分からずついてきた沖田総司が、気楽な調子で応じる。
「誰かが美味そうに食べてるのを見ましたよ。餡が入ってたなあ」
藤堂平助があきれて原田の腕を引っぱった。
「いま、餅の話はいいでしょ?明日買えば!…ていうかさ、あの人、なんなの?」
「さあ?なんかもう、別に、どうでもよくなってきちゃってさ」
北へ五町(約550M)ほども歩いただろうか。
男は瓦屋根の黒塀にかこまれた建物の前で足を止めると、脇道に入って行った。
山南敬介が、黒塀を見上げて土方歳三を振り返る。
「ここは…」
「ああ」
土方歳三が相槌を打った。
そこは「浪士取扱い」、つまり浪士組を率いる首領である、鵜殿鳩翁らが宿泊する本陣だった。
路地を覗いたが、すでに男の姿はない。
裏手に回ったらしい。
土方が塀の角からそっと窺うと、少し離れた桜の木の下に、二つの人影があった。
裏通りにはほとんど人工の光が届かないうえに、花をつけた枝が月の光を遮っているせいで、人相風体までは確認できないが、一人は先ほどの木綿絣の浪士に違いない。
どうやら密談の最中らしい。
それ見ろという顔で土方が笑った。
「な?」
山南は険しい顔で、二人の様子を見つめている。
土方は薄闇に眼をこらし、誰にともなく呟いた。
「相手の男…長州か?」
「よしじゃあ、二人とも斬りましょ!」
間髪入れず飛び出そうとする藤堂の首根っこを、土方が押さえつける。
「なにが、『じゃあ』だ。このバカ」
そのとき、山南が、なにかに気がついた。
「いやあれは…」
まだ確信が持てず、言いよどむ山南の後を永倉新八が引き取る。
「清河だよ」
「なに?」
「ありゃ、清河八郎だ」
永倉はもう一度そう言って、黒塀の影に引っ込むと、壁を背にして腕組みをした。
気の短い原田は、すぐにも納得のいく答えを欲しがった。
「なんで浪士組の頭領が、こんなとこでコソコソ人と会ってる?」
永倉はそれには応えず、山南を横目でにらんだ。
「山南さんよお?清河は例の寺田屋の一件に絡んでた、なぁんて黒い噂もある男だ。あんな奴と組んで、ほんとに大丈夫なのかい?」
彼には、どこか組織の色に染められることを嫌うところがあった。
常に自らの信じるところに従って生き、何者にも縛られないのが彼の矜恃であり、ずっと後の話になるが、「血の掟」といわれた新選組の局中法度すら、ついに永倉新八という人間を変えることは出来なかった。
山南は、ただ無言で永倉の横顔を見つめ返すしかなかった。
「ち、言わんこっちゃねえ」
土方が吐き捨てた。
一方、桜の木の下では。
清河八郎が、着流しの浪士にニコリと愛想のいい笑顔で問いかけた。
「気づかれずに、隊列へ復帰できたかい」
「さあ、たぶん。彼らは他人のことなど、だれも興味ないようだから」
浪士は、愛想のない声で応えた。
しかしそれは、女のような、いや、女の声だった。
中沢琴 ―ナカザワコト―
姿を消していた隊士、
中沢良之助が追い返したという姉である。
中沢琴について、はっきりと語れることは、そう多くない。
記録では、先に登場した中沢良之助の二つばかり年下の妹で、武芸に秀でていたという。
故郷の利根では求婚者が後を断たなかったほどの美女だが、自分より弱い男とは結婚しないと宣言して、そのことごとくを打ち負かしたという勇ましい逸話が残っている。
しかし、さきの中沢良之助の話が本当であれば、彼女は姉である。
だとすれば、年の頃でいうと山南や土方とそう変わらないはずだが、奇妙なことに、どう見ても二十歳前にしか見えなかった。
いずれにせよ、彼女はどこにいても男たちの注目を集めたので、中沢良之助は、ことあるごとにこの「美しい妹」について質問責めにされたが、ある頃から面倒になって訂正するのをやめてしまった。
たしかに今、桜の木の下に立つ中沢琴は、眉目秀麗の少年にしか見えない。
しかしその美しさは、どこか背徳的というか、一種の禍々しさを湛えていた。
それは、いわゆる毒婦や艶婦の色香の類ではなく、もっと根源的な、死のイメージと直結するような何かだった。




