祈り 其之肆
拝殿に上がる頃にはすでに芹沢は酩酊しており、鎮座する大太鼓を見上げながら戯れに祝詞を唱え始めた。
「天の益人等が過ち犯しけむ
種種の罪事は
天津罪国津罪
許許太久の罪出む」
彼はここで大きく息を吸い込み、力一杯大太鼓の銀面に大鉄扇を打ちつけた。
「此く出ば、天津宮事以ちて!」
太鼓は歪んだ音を立てて破れた。
「ハッハァ!天津金木を本打ち切り末打ち断ちて!
千座の置座に置足はして!
天津菅麻を本刈り!
断ち末刈り切りて!」
芹沢は気が触れたように、一節、一節、祝詞を叩きつける。
「八針に取裂きて!
天津祝詞の!
太祝詞事を宣れ!」
銀面の皮はボロボロに引き裂かれていた。
芹沢の唐突な行動に、新見は目をすがめ、その訳を問いかけるように首を傾げて見せた。
芹沢は肩で大きく息をしながら、おどけた様子で目を見開き、両手を広げた。
「俺ぁ、こう見えて神に仕える身でな。今のは大祓詞の一節にござい。憤懣やるかたないってお前のために、愚かな民草を導き給えってな、祈りを捧げてやったぜ?」
新見の口角が吊り上がった。
「それで?神は何と?」
芹沢はニヤリと笑い返し、大鉄扇の先を小刻みに震わせながら大太鼓を指した。
「ああ。天からご神託が降りてきたぜ。曰く、『言うことを聞いてやってもいいが、ただし、ロハってわけにゃいかねえ。コイツ(大太鼓)が邪魔で、前を通る女のケツが見えねえから、何とかしろ』とさ」
駆け付けた宮司や巫女たちは蒼い顔をして立ち尽くしている。
他の参拝客らは、恐れて皆どこかへ行ってしまった。
「いい加減にしねえか!お前ら正気かよ!」
耐えかねた阿部が割って入った。
芹沢は赤く血走った眼で阿部を見返した。
「勘違いするな。俺は別にお前の甘ったれた戯言に納得したわけじゃねえんだ。いちいち俺のやることに口を挟むんなら、お前の首も刎ねてやっていいんだぜ?それが嫌なら付いてくるな」
「ああ!そうさせてもらわぁ!野盗の仲間なんざこっちから願い下げだ!」
こうして、阿部慎蔵は袂を別ち、水戸を離れた。
もっとも彼は、この下村嗣次こそ、後の浪士組筆頭局長、芹沢鴨であることをつい最近まで知らなかった。
なぜなら、風の噂では、下村嗣次はこの頃の悪行をとがめられ、捕らわれて死罪になったと聴いていたからだ。
阿倍は、その経緯を掻い摘んで仏生寺に話した。
「なるほどねえ」
どこまで伝わったのか、昔語りに付き合った仏生寺は、目を閉じて深くうなずいた。
「俺ぁな、口先だけの攘夷にゃウンザリだ。あんたも馬関で戦うって立派な目標があるんなら、誰かれ構わず斬りつけるような安っぽい売り込みはやめるんだな」
「こりゃまた、買いかぶられたもんですね」
「バカ言え。俺にはあんたなんぞただの酔っ払いにしか見えねえよ。だが、俺の知り合いは、あんたの腕をたいそう買ってる。見たこともねえすげえ剣客だってな」
「やめてくださいよ、生まれてからこの方、そんなに褒めてもらったことは一度もない。誰です?そんなことを言ってるのは」
仏生寺は怖気だったように両肩を抱いて震えてみせた。
阿部は、頭に浮かんだ中沢琴の顔を振り払うように首を振った。
「誰でもいいだろ、そんなの。言っとくがな、俺だって今すぐ下関に乗り込んで、毛唐どもを根絶やしにしてやりてえさ!けど、その為だとしても、もう二度とあんな野盗みてえな真似はしたくねえんだよ!」
一端のことを言ってはいるが、吉成勇太郎に昔の誼で長州にとりなしてもらおう、あわよくば金の無心もできるかもしれないなどと都合のいい算段を練っている。
阿倍の説得に心を打たれたわけでもなかろうが、仏生寺は何ごとか考え直したらしく、身体中から漂っていた殺気を解いた。
阿倍の話に出てきた下村嗣次が芹沢鴨その人であると気づいて気が削がれたのだろうか。
「まあまあ、そう急きなさんな。わたしも、ここはあなたの顔を立てて引き下がりましょう。なあに、家茂公は攘夷をやり遂げますよ。だが、おそらくこの戦いの先は長い。後に続くのは我々が討ち死にしてからでも遅くないでしょう?」
と、逆に阿部をなだめるようなことを言って、その胸元にユニコーンの根付を押し付けた。
「おい、これ…」
「御守りですよ。元々あなたのもんだ。後を託すあなたにもご武運がありますように」




