祈り 其之弐
阿部がバツの悪い顔で男の後姿を見送っていると、
「いまのはお知り合いですか?」
後ろから声をかける者があった。
ギョッとして振り向けば、”あの”仏生寺弥助がひょろりと立っていた。
「あ、あんたか…」
仏生寺は、懐に手を入れると、
「これ、あなたの大事なもんじゃないですか?」
根付の紐を摘んで、阿部の鼻先にぶら下げた。
阿部は再び手元に戻ってきた根付を気味悪そうに指差した。
「…それをどこで?」
「さあ?どこでしたっけねえ。道端で拾ったんですよ」
仏生寺は答えをはぐらかしたが、阿部は、彼がまた「例の薬」を目当てに近づいてきたのだと思った。
「残念だが、あんたのお目当てのブツはねえよ」
「そうですか…そりゃ残念」
気のない返事をしながら、仏生寺は屋敷の門をくぐる厩番の背にチラリと目をやった。
「なんだよ、その目つきは。ありゃ別に知り合いってわけじゃねえぞ。会津の馬番とかで、さっき黒谷で会ったばかりだ」
「ほお。にしちゃあ、馬に乗っけてもらったりして、親密そうに見えましたが」
「あんたの知ったことか!」
「あの男の生業が本当に馬の世話だけなら、まあそうですな。けど男が入っていったあの家は、どうもワケアリでねえ。水戸の荒くれどもを束ねる頭領のヤサって噂で、最近人の出入りが多い」
「つまり、どういうことだ?」
「実はあの厩番とかいう男も、ここのところ2、3日に一回姿を見せるんですよ。水戸とあまり仲がいいとは言えない会津の厩番がそんな処になんの用だろう。ねえ、なんかこう想像を掻き立てられませんか?なにやらキナ臭い匂いがするでしょう」
仏生寺は面白そうに顎に生えた無精髭をさすりながら笑ってみせた。
「あんたもヒマを持て余してるらしいな。そういやあんた長州方だっけ?下関に行くとか。水戸の荒くれどもは、攘夷の同志じゃねえの」
仏生寺は、阿部の皮肉にやんわりと微笑み返した。
「ところが、そう簡単に割り切れるもんでもないんで。わたしゃね、あの厩番は会津の間者だと踏んでるんです。どうもわたしゃ長州の偉いさん方から覚えがめでたいとは言い難くてね。ここらで小物でも斬って点数を稼いどこうと思ったんだが、アレもなかなか勘のいい奴で、つけられてるのに気づいた途端、貴方を乗せた。要するにあなた、盾にされたんですよ」
「だが、あいつが攘夷方に寝返って、水戸に会津の情報を売ってるって事だってあり得る。味方だったらどうするんだ?」
「爪弾き者のわたしに、その質問は酷だなあ。確かに、それについちゃ悩ましいところですよ。しかし、実はねえ、わたし、例の浪士組に、天狗党崩れの古い知り合いがいまして、そっちからもお声が掛かってるもんで。あの男を吐かせて斬っちまえば、どっちに付くにせよ、その首は手土産になるわけです」
つまり、あの厩番が会津の間者なら水戸に、水戸の間者なら会津に首を持って行って、売り込みを掛けるつもりらしい。
「呆れた奴だな!しかも天狗党だと?あんた、連中がどんな人種だか知ってて言ってんのか!?」
「荒っぽい連中だってことくらいは」
「ああそうとも!あんたの言ってた水戸の荒くれどもがまさにソレさ!尊王攘夷なんて言葉を作り出したのも奴らの親玉だ」
「ともかく、どっちにお世話になるか、決めるのは首級を上げてからにしますよ」
「ちょ、ちょ、ちょ、落ち着け!物騒なこと言い出しやがって。よく考えろ。あの中には水戸藩士がいるんだぞ!」
阿部は今にも単身屋敷に乗り込みそうな仏生寺の腕を慌てて掴んだ。
この男は危険だ。
琴の言ったことが今なら理解できるような気がした。
「一体何が言いたいんです?何だかこんがらがってきた」
仏生寺は片目をつぶって頸の後ろをボリボリと掻いた。
「あの厩番がどっちの間者にせよ、その天狗党の兄貴分の目の前で斬っちまったら、あんたの立場が悪くなるんじゃねえのかって言ってんだよ!」
「もうね、あれこれ考えるのも面倒くさくなってきましたよ。その吉成って男も一緒クタに斬っちまえば分かりゃしない」
阿部は、その名を聞いて、目を丸くした。
「え?吉成って言ったか?おいおい、そりゃあ水戸の吉成勇太郎のことか?」
この時代には表札というものがないから、外観だけでは屋敷の主人はわからない。
「おや、ご存知で?」
阿部は思わず口を滑らせたことを後悔した。
知っているも何も、水戸の吉成勇太郎には若い頃ちょっとした恩があった。
だが、ここでそれを肯定するのは賢明でないと弁えるくらいの分別はある。
「い、いや…ひところ水戸に居たことがあるから、名前くらいは知ってる」
ということは、あの厩番の話が本当なら、彼は吉成のコネを利用して長州に近づくつもりなのだ。
「…そういえばあいつ、水戸にくっついて下関へ行くとか言ってたぜ」
ならば自分も。阿部は、胸に期するように口元をひき結んだ。
「それが何かの証明になるんですか」
「そうじゃなくて!つまり、今や挙国一致で敵も味方もないのかもしれん。そんなのを斬ったらあんただって寝覚めが悪かろ」
「いいじゃないですか、奴が死ねば長州行きの席が一つ空くってわけだ」
「それだきゃ見上げた心意気だがな。じゃあ、なおさら天狗党なんぞに関わんのはやめとけ!」
激しい嫌悪を込めて阿部はその名を吐き捨てた。
「昔、天狗党となにか因縁でもあったらしいですな」
「あんたは奴らのヤバさを、志を持たねえ人間の危うさを、全然わかっちゃいねえ。俺は見たんだ」




