蜘蛛の網 其之肆
原田は、鼻の頭を掻きながら、ニヤニヤと笑った。
「長崎と横浜ね。確かに、どっちも外国に開いてる港町だ。あんた、どうやらずいぶん手広く商売をしてるようだな。物騒な輩から資金調達の的にされるのもうなずけるぜ」
「こ、この取り引きはお上のお墨付きを得た真っ当なもんどす。いまどき、商いをやっとる者なら、みーんなやったはることどすわ」
八幡屋は商売人らしい図太さを垣間見せて、ついに開き直った。
「油は江戸の問屋を通して取り引きするのが決まりのはずでしょう?」
琴が口を挟んだ。
「となると、どうしてここに横浜や長崎の商人が直接出入りしているのか、解せねえな」
原田がたたみかける。
八幡屋はダラダラと脂汗を垂らし始めた。
「さしずめ、ガマの油ってとこだな。油は売りもんだろ?えらく気前がいいな」
初代駐日領事タウンゼント・ハリスが無理やりこじ開けた横浜港の扉は、油商人たちの世界を一変させた。
輸出量の増加に伴って、菜種油などは、10年足らずで5倍以上の値段に跳ね上がったというから、彼らは一種の開港バブルの恩恵にあずかったわけだが、
そこまで相場が高騰してしまっては、順調な輸出が長く続くわけもなかった。
さらに、幕府の威信が失墜したせいで、
これまで存在した問屋仲間と言われる一種の商業ギルドは崩壊し、
幕府が定めた流通ルートは有名無実化してしまう。
この物語の舞台である文久3年という時期は、
ビジネスの世界でも生き残りを賭けたルール無用のサバイバルレースが今まさに始まろうとしていた頃である。
「おおかた、土州人たちも、その闇取引をタネにゆすってきたんでしょう」
もはや八幡屋はグウの音も出ないといった様子で押し黙っている。
原田はまたニヤリと笑って、人差し指で自分のこめかみをつついて見せた。
「ま、俺自身の考えはともかくとして、そこら辺を咎めだてする気はねえんだ。だがよ、聞かせてくれ。その、因縁をつけてきてる奴らてなぁどこのどいつだい」
「…と、ときどきで違いますけど、ようお名前が出るんは藤本鉄石様、松本封壁様…」
この藤本鉄石なる男、じつはこの物語にもすでに一度その名が登場している。
本業は画家でありながら、あるきっかけから攘夷思想に傾倒し、政治活動に手を染めるようになった人物で、
あの人斬り以蔵を使って、僧侶二人を殺させた黒幕である。
そして、中沢琴は知る由もなかったが、
この男を内省的な芸術の世界から血で血を洗う政治の世界に引きずり出した張本人こそ、誰あろう、あの清河八郎だった。
清河の精神は、死してなお京洛に息づいている。
「あと吉村寅太郎ゆうお方は、大層お怖いみたいどすなあ…」
八幡屋はあれこれ思い出すように、たるんだアゴを撫でた。
「吉村…寅太郎」
原田は噛みしめるようにその名を呼んだ。
まさに彼こそが、清河八郎の後継者に違いない。
「…いいことを教えといてやるよ、八幡屋さん。じき、この店に可愛い子ちゃんがやってくる。その、吉村寅太郎の慇懃無礼な脅迫状を携えてな。あんたがお上の頭越しに外国と商売を続ける気なら、そのとき、俺たちはあんたを護る口実をなくしちまうんだぜ」
「どう思います」
八幡屋を出るなり、琴が切り出した。
「さあね。ただ、ずいぶん派手に儲けてやがる。ああして外国とよろしくやってる連中が、結局いい目にあってるのを見てるとよお、あっちにもこっちにも嫌われながら、斬り合いをやんなきゃならねえ俺たちがアホらしく思えてくるぜ」
原田は吐き捨てるように言った。
琴は力なく笑う。
「最後に勝ち残るのは、ああいう強かな人たちなのかも」
「そう上手くはいかないだろうぜ。今はノラリクラリと立ち回ってるようだが、いつまでその手が通用するかね」
原田の分析は、柄にもなく冷徹で的を得たものだった。
「…じゃなきゃ、会津がその男を探ってるわけがねえ」
琴は、原田のいう“その男”を思って唇を引き結んだ。
いまだ表舞台に姿を現さない吉村寅太郎は、まるで蜘蛛が網を張るように市中の闇を支配し、その中心で息を潜めている。
岩吉という男がほのめかした、北新地の料亭にいる薩摩人と、吉村はすでに通じているのだろうか。
「さぁてと。引っ返す前にそこいらの正月屋(甘味処の俗称)で汁粉でも奢ろうか?」
原田が伸びをして言った。
「え?」
自分の考えに耽っていた琴は、我に返ったように顔を上げた。
「なんか甘いもんでもいかがですかって、聞いてんだよ!」
琴は戸惑って眉をひそめる。
「…どうしたんです?急に」
「そう警戒すんなよ。永倉じゃあるまいし、変な下心はねえさ。ま、結果的に手伝わせちまったから、ちょっと埋め合わせをな」
「そんなこと…どうぞおかまいなく」
琴の返事はまだどこか上の空だった。
と、そのとき。
「あれ、原田さん」
通りの向こうから浅葱色の羽織を着た2人組が近づいてきた。
いずれも四月に入隊したばかりの新入り隊士で、
屯所に居残りを命じられた馬詰柳太郎と中村金吾である。
市中見廻りの最中だったらしい。
「黒谷で上覧試合をやってるはずでしょう?こんなとこで何やってるんですか!」
新入りの中ではなかなか活きがいいと評判の中村が、子供のいたずらを見咎めた大人のように腰に手をやって立っている。
「おっと、残念。見つかっちまった。そろそろ行かなきゃ、まーた近藤さんにどやされる」
おどけてみせる原田。
「じゃあまた、次の機会に」
琴は陰鬱な顔でこたえた。
「冴えねえ面だな。こういう時のオレの勘は当たるんだぜ?」
原田は自分の推論に琴が納得していないと勘違いしたらしい。
「なあに、近々、その寅太郎とやらの首根っこを抑えてやるさ…さっきは言いそびれたが、俺さまの槍がありゃ、虎の尻尾を奉行所の門に打ち付けとくくらい、訳ねえんだからな」
琴はようやく微笑み、そして小さく頷いた。
「じゃーな、お嬢ちゃん」
ニヤリと笑った原田左之助の頭上には、
不知夜の月が薄く姿を現していた。




