蜘蛛の網 其之参
まもなく、二人は漆喰の白壁も眩しい商家に行き着いた。
「油問屋」と書かれた大きな看板が屋根に鎮座している。
「それで?今度はどういう口実で入るの?」
「どうもこうも、俺たちゃお上公認の見廻り部隊だぜ。正面切って入るさ」
「もうさっきのことを忘れたの?相手は攘夷派の支援者かもしれない。それじゃあ口を割るものも割らなくなるでしょ」
琴は四国屋での失態を思い返して、原田をにらんだ。
「道理だが。お察しの通り、駆け引きは性に合わなくてね。はい、ごめんなさいよ」
原田は琴の心配をよそに勢いよく暖簾をくぐった。
「あ、へえ。おこしやす」
あまりの勢いに、面食らった番頭らしき人物が間の抜けた応対をしている。
琴は仕方なく後に続いた。
屋内に一歩足を踏み入れると、水油(菜種油)の香りがした。
「会津藩お預かり壬生浪士組のもんだ。ちょっと中をのぞかせてもらうぜ」
原田は言い終わるや、土足のまま框を上がり、ズカズカと板間へ踏み込んで行く。
「あ、あ、まっとくれやす!」
番頭はあわてて、ドタバタと後を追った。
ちょっとした騒ぎに、奥からガマガエルのような相貌の壮年の男が顔を出した。
見るからに上等な縮緬羽織を着て、小洒落た本多髷を結っている。
この店の主人、八幡屋卯兵衛に違いなかった。
「ちょ、ちょっとちょっと!ほんまに会津はんどすか」
「んー、だから、正確には会津藩お預かりどすってば」
口調とは裏腹に、
原田は蒼い顔をしている卯兵衛の脇をさっさと通り過ぎて、
店内に鋭い視線を走らせ、
さらに帳場の奥にある衝立の向こうを覗き込んだ。
「こ、これは、なんのお取り調べどすか」
卯兵衛はさも心外だという風にたずねた。
「なあに、通り一遍の見廻りさ」
「こ、こ、これが?」
「ああ。だから、いつも通り仕事を続けててくれ。どーぞどーぞ」
「い、いつも通りて…」
「勝手に調べて、怪しい連中がいなきゃ勝手に出てくからさ、おかまいなく」
卯兵衛は店の外を気にする素振りをみせ、歪んだ笑みを浮かべると、胸の前で手のひらをこすり合わせた。
「世間体もありますよって、堪忍しとくれやす」
原田は、八幡屋の弛んだあごを親指と人差し指で持ち上げた。
「ふうん。怪しいな、やましいとこがないなら、なんで俺らを怖がる」
とたんに八幡屋卯兵衛の顔がこわばった。
「それはその…」
「この人を不逞浪士だと思ったんでしょ」
琴がニヤリと笑って口をはさんだ。
八幡屋はどう答えていいか分からず、口ごもったていたが、二人に見つめられて、とうとう本音を漏らした。
「へえ…まあ」
原田の口元に物騒な笑みが浮かぶ。
「とっても失礼な奴だな。俺のどこがどう不逞だって?言ってみろよ」
「原田さん、わざわざ答えづらいこと聴かなくても」
「てめーが言わせたんだろーが!」
少し場が和んだ頃合いを見計らって、琴が鎌をかけた。
「…ところでご主人、先ほどの様子から察するに、なにか不逞の輩に悩まされていることがおありでは」
「あ、へえ、まあ」
案の定、卯兵衛には思いあたるところがあるらしい。
しかし、それを口に出していいものか、考えあぐねているようだ。
「煮え切らねえ奴だなあ」
原田はあからさまに苛立った様子でこめかみを掻きだした。
「他言はしません」
琴が唇の前で人差し指を立ててみせる。
その一言が、卯兵衛の背中を押したようだ。
「…うちとこは外国へも油を卸ろさせてもろてます。そやさかい、草莽の志士と仰せのお侍さまからイケズ(嫌がらせ)されることは多おすなあ」
「ははあ。そいつはカンカできない話だ。くわしく聴かせてもらおう。なあ?中沢くん」
中沢琴は答える代わりに、目を閉じて呆れたように小さくかぶりを振った。
とにもかくにも、八幡屋卯兵衛から話を引き出すことには成功したようだ。
琴はさらに踏み込んでみた。
「そういえば、お店に土州人が出入りしてるとか」
「ご存知どしたか。出入りゆうか…」
「つまり、そいつらがあんたを脅してるわけだな」
気の短い原田は答えを聞く前に結論に飛びついた。
「へえ、まあ。そおゆうことどす。うちとこの取引先の件で度々押しかけてきやはって、たいそうお叱りを受けてます。なんとも答えようがおへんさかい、番頭に相手してもろて、私は居留守を使てますけど」
「なるほど。ときにご主人、それは」
琴は上がり框に腰掛け、その細い指で、帳場箪笥の上に飾ってある菖蒲の一輪挿しの花瓶を指した。
それは、精巧な細工を施されたボヘミアグラスで、
不思議なことに、透明なガラスにはエキゾチックな模様を彫り込んだ金箔が封じ込められていた。
花の紫が、優雅な曲線を描く金色に映える。
「たいそう美しいものですね」
「舶来もんだろ。さあすが、変なやつらに絡まれるだけあって、いっぱしのカブレっぷりだな」
原田の皮肉は身も蓋もない。
「はあ。長崎からおこしやしたお客様からのいただきものどす」
卯兵衛はしぶしぶ認めた。
琴はつぎに、帳場の脇に置いてあった薄手の本を手にとった。
「この本は?」
明らかに外国のものとわかる文字が表紙に踊っている。
卯兵衛は、なぜ隠しておかなかったのかという目で番頭を睨みつける。
「それは…ジャパン・パンチやいう、まあゆうたら絵入りの瓦版(江戸時代の新聞)みたいなもんどす。
そやけど、向こうの言葉で書いてあるさかい、何のことやら分からしまへん。それも出入りの仲買人から貰た横浜のお土産どすわ」
「ジャパン・パンチ」はチャールズ・ワーグマンというイギリス人記者が書いた挿絵入りのニュース雑誌で、ポンチ絵、つまり現在の漫画の語源になったとも言われている。
日本で刊行された最初の漫画雑誌というべきものだ。
もっとも、当時の日本人が読めば噴飯物の記事も少なくなかったから、原田と琴に英語が理解できなかったのは幸いだった。
「横浜…か」
弟、良之助は今ごろ、横浜の海に浮かぶ黒船を見ているのだろうか。
琴はそんなことを考えながら、表紙に描かれている能天気なサムライの笑顔を指でなぞった。
八幡屋は、琴の手からやんわりとその雑誌を取り上げると、パラパラとページを繰り、上目遣いで彼女の表情を伺った。
「いまや、横浜で陸揚げされる品も抜け荷(密輸品のこと)とは呼びまへんさかいな」




