蜘蛛の網 其之弐
「えれえ剣幕だな、クワバラクワバラ…。早々に退散したいとこだが、と、その前に手に持っている書状を見せてもらおう」
原田は言い終えないうちに、娘の手からヒョイと手紙を取り上げた。
「返して!」
娘が叫んだときには、すでに勢いよく手紙を開いている。
娘は鬼気迫る表情で原田の腕にしがみつき、その手紙をクシャクシャに握りつぶした。
「お嬢ちゃん、それじゃあ後ろめたいことがあるって白状してるようなもんだぜ?」
原田は強引に娘の手を引きはがそうと、その手首を掴んだ。
「いきなり押しかけてきて、他人様の手紙を盗み見しようやなんて、後ろめたい思いをせんならんのはあんたの方や!これ以上乱暴するなら、舌を噛み切ります!」
娘は目に涙をいっぱい溜めながらも、気丈に原田を睨み返した。
「おもしれえな。やってもらおうじゃねえか」
母親が泣きながら叫んだ。
「お国!」
「…原田さん。この子、本気ですよ」
琴はそう言って止めたが、
男装している彼女自身も、同じ浪士組の人間として見られていることに違いはなかった。
「…ちぇ!バカバカしい」
原田が渋々力を緩めると、娘は手紙ごとその手を振りほどいた。
その脇では、ガクガクと足を震わせて女将が立ち尽くしている。
娘は床にへたり込みながらも、手紙を懐に抱き、赤く充血した眼でまだ原田を睨み据えていた。
中居女中や下男ら使用人、そして居合わせた宿泊客などの眼には、浪士組が罪のない人々に狼藉を働いているとしか映らなかっただろう。
「…いきましょう。お邪魔しました」
澱んだ雰囲気のなか、琴が原田の肩に手をおいて促した。
二人は木屋町通りの喧騒に出た。
原田はやるせない表情で吐き捨てた。
「おクニっていったか…お役目とはいえ、年端もいかない小娘にあんな思いをさせなきゃならんとはな」
「ここは天子の統べる都。幕府の手先であるあなた方にとっては敵地よ?こうなることは、江戸を出る前から分かってたはず」
琴は、冷めた口調で原田を突き放した。
それはむしろ、山南敬介に対する苛立ちのすり替えだったかもしれない。
「手厳しいな」
原田は責められていっそサバサバしたらしく、気を取り直したように背筋を伸ばした。
「そんなことより、見た?」
「ああ」
二人が文面を目にしたのは、ほんの一瞬ではあったが、
手紙は八幡屋という屋号の店に宛てられており、
そこには確かに吉村拝との署名があった。
「吉村、それがあの娘の想い人の名か…誰だ?」
原田は、吉村寅太郎の名を知らない。
だが、娘にとって手紙を書いた人間が大切な人であることだけは確かだった。
「誰であれ、あの旅籠のすぐ傍に潜んでる。あの子が一瞬通りの先に目をやったのを見たでしょ?」
実のところ、吉村寅太郎が都における活動の拠点としたのは、料亭丹虎、つまり武市半平太の住まいからたった二軒先の家だった。
琴は敢えて大事な部分、すなわち吉村の素性をはぐらかして、
そのかわり、なにか諳んじる風に、歌を口にした。
「永らえて 変わらぬ月を見るよりも
死して払わん 世々の浮雲」
「なんだそりゃ?」
「さあね。さっき、壁に落書きがあったの。あの子の想い人が書いたのかも」
二人には、吉村がわざわざ幕府から目をつけられている武市半平太の近所に居を構えた訳がなんとなく分かる気がした。
原田が鼻を鳴らす。
「ふん、誰だか知らねえが、それを詠んだ奴は、世の中気に入らないことだらけって感じだな。いずれにせよ、次に目指すのは、その八幡屋ってことだ」
「まだ続ける気?」
琴が飽きれ顔で尋ねる。
「別に付いてきてくれって頼んじゃいないぜ?」
「放っとけるわけないでしょ。行きます」
だが、その店の素性はすぐに分かった。
八幡屋は、外国との貿易で巨利を得ている有名な油商で、
以前、芹沢鴨が洛内で借金の相手を漁っていたときにも、佐伯又三郎の口から候補に挙がった大店である。
金をせびろうという人間が目をつける先はみな同じということだろうか。
その、八幡屋卯兵衛が店を構える仏光寺高倉は、
四国屋から15町(約1.6km)、今の感覚で言えば歩いて約20分くらいの距離である。
二人は鴨川沿いを南に下り、勝円寺という小さな寺の境内を突っ切って、仏光寺通りへ抜けた。
高瀬川にかかる小橋を渡ったところで、
原田は辺りを見回して眉を寄せた。
「なんだなんだ?妙に人が多いじゃねえか。みんな俺たちと同じ方向に歩いてくぜ」
気がつけば二人は群衆に取り囲まれていた。
夕暮れ時だというのに、女性や子供までが混じっている。
人の流れは酒を供する店に吸い込まれてゆくでもなく、みな一様に西に向っていた。
琴はふとあることを思い出した。
「そういえば、因幡薬師で虎の見世物をやってるそうよ」
因幡薬師は目的地のすぐ先にある。
人々はそこを目指しているのだ。
「ああ、為三郎が言ってたアレか。ハハ、なんせあの芹沢がビビったらしいから、ケッサクだぜ。しっかし、わざわざ並んでまでシマシマのでっかい猫を観たがるなんざ、物好きなヤツらだな」
原田は可笑しそうに小鼻をこすった。
「これから浪士組が相手にするのは、その虎の尻尾をすすんで踏もうなんていう連中よ?私に言わせれば、それこそ物好きな話ね」
琴が思い描いている原田たちの敵とは、おそらく清河八郎の幻影だった。
「違えねえな…」
原田は薄笑いを浮かべ、道行く人々を見渡しながら無言のまま先に立って歩いた。
雑踏を抜け、通りの名の由来になった仏光寺の手前を土塀に沿って左に折れる。
原田は琴に背を向けたまま唐突に口を開いた。
「なあ…曇り空ってのは、そんなに気がふさぐもんかね?
これまでと同じような暮らしが続くってのは、そんなに気鬱な話か?」
「え?」
「さっきの落書きの歌だよ。俺はさ、そういうのもぜんぶ引っくるめて、世の中捨てたもんじゃないって思うがね」
原田左之助は生粋の戦士でありながら、
その精神は市井の人々に寄り添っている。
この時代にしては奇妙な信条を持つ男だった。
琴は珍しく目を細めて笑った。
「そういう解釈って、原田さんらしい。でも、どうかしら。あれは、人も、この世界も、そのままであり続けることは許されないって意味かも…」




