Trouble Sleeping Pt.3
さて、ここに至る経緯を説明するために少しだけ時間を遡る。
爪哇咬吧を締め上げてほどなく、二人は二条新地の大文字町に辿り着いた。
そして、上坂仙吉という侠客が確かに実在することを突き止めた。
「だが、問題はここからだ。この町でどうやってあの男を探し出したものかな」
大文字町の四つ辻に立った琴はため息をついた。
しかし癪なことに、こういう時の阿部は滅法頼りになった。
「ヤツらの表稼業なんざ、おおよそ相場が決まってらあ。的屋だろ、岡っ引き、旅籠に人夫出し、あと、そうそう、あれあれ」
阿部が指差したのは「口入れ屋」(職業の斡旋所)の袖看板が上がる京ではありふれた町屋の一つだった。
と、そのとき、
暖簾をかき分けてそこから姿を現したのが、まさしくその上坂仙吉だったのである。
爪哇咬吧から散々脅されたものの、仏生寺と対峙した時に放ったあの凄まじい殺気は、完全になりを潜めている。
仙吉が幕府の操練場の方角へ歩き出すのを見て、二人は慌てて路地に身を隠した。
ともかく、そうした経緯で、彼らの追跡行は始まったのだ。
それからまだ四半刻も経っていない。
仙吉は、聖護院門跡の脇を抜け、現在の平安神宮辺り(平安神宮は明治に入ってから建てられた)の北側、丸太町通りを山手に向かっていく。
岡崎と呼ばれるこの土地は、のどかな田園風景が続き、すれ違う人もまばらだ。
それだけに尾行には気も使う。
やがて…
「ていうか、あの野郎、黒谷まで来ちまったぞ…」
そこまで言って、阿部は急になにかに思い当たったように琴の顔を見た。
「おいおい。てことはだぞ、あいつが会津のために働いてるってのは、ホントだったのか!」
「そうらしいな」
琴は意外でもなんでもないという風に応えた。
浄土宗大本山、金戒光明寺。
言うまでもなく、京における会津藩の前線基地だ。
「それにしても、まさか、今日ここに来ることになるとはな」
琴は、金戒光明寺の門前へと続く石段を見上げて苦笑した。
高台にある二重門の両脇を、荘厳な寺院に相応しからぬ無骨な門兵が固めている。
まさにいま、この中では山南敬介ら浪士組が、京都守護職 松平容保の御前で剣技を披露しているはずだった。
仙吉は正面の石段を登らず、小さな太鼓橋の横を通り過ぎて、直接、寺の裏手へと続く道を登っていった。
無論、こちらにも境内への侵入者を阻む会津兵が待ち構えている。
しかし、仙吉は彼らと顔馴染みらしく、軽く会釈をしただけですんなり通された。
「なるほど。やはり会津は地場の闇組織を使って都の裏情報を仕入れていたわけか」
「江戸から出てきたばかりの田舎浪士なんぞアテにできんからな」
琴は、阿部の皮肉を無視して境内の雑木を見上げた。
彼らの立っている道の片方は十尺(約3m)ほどの高さの石垣に面していて、その上が金戒光明寺の境内にあたる。
琴は不意に阿部を振り返って、めずらしく微笑んでみせた。
「ふん、いよいよ役に立つ時がきたな」 「え?」
「背中を貸せ」
「せ、せな…は?何言ってんの、おまえ」
「いいから、そこに立て!」
琴はそう言って、阿部を突き飛ばし、無理やり石垣の際に立たせた。
「かがめ」
「だから、なんなんだよ!」
阿部が分けもわからぬまま言う通りにすると、
ほんの一瞬、背中に羽根ほどの軽い圧力を感じた。
「え?」
だが、問いかけようとした九郎(琴)の姿は、目の前から消えている。
ふと頭上の陽が翳った。
反射的に空を仰ぎ見ると、
ヒラリと舞う九郎の影が見えて、
そのまま石垣のうえに消えてしまった。
阿部の背中には、先ほどの感覚だけが残っている。
その身軽さには呆気にとられるばかりだ。
「てめ!踏み台にしやがったな!おい!いいか!牛若丸もどき!おまえは俺と一緒に大坂に行くんだからな!忘れんなよ!」
叫んでみたものの、こたえる者もない。
阿部にはもはやどうすることも出来なかった。
一方、
金戒光明寺の庭に降り立った琴は、大胆にも会津公らが起居しているであろう大方丈をまっすぐ目指した。
この寺院の顔である御影堂では、浪士組が派手なイベントを行っているから、仙吉が何か人目をはばかる話をしたいなら、庫裏(寺院の住居スペース)に向かうはずだ。
読み通り、主だった者はほとんど御影堂の上覧試合に立ち会っていて、警備は手薄だった。
琴は庭の木から木へ身を隠すように進んで行った。
そして、大方丈の屋根瓦が琴の視界に姿を現したそのとき。
琴のすぐ脇の菩提樹の幹に、
どこからか飛んできた短刀が突き刺さった。
ちょうど額ほどの高さで、
短刀の柄が小刻みに震えるのを見て、
琴は息を飲んだ。
「今のは外したんやのうて、警告や」
庭の低木の陰から仙吉の声がした。
声のトーンで、それがハッタリでないことがわかる。
「…」
琴は答えず、
さらに姿勢を低くして、
仙吉の正確な位置を探るように、
鋭い視線を走らせた。
「おいおい、塀の中までつけてくるとは、正気かえ?ここにはおっかない会津の兵隊がぎょうさんおるんやで」
仙吉が例の人を食った口調で言った。
「こんなに早く気づかれるなんて。さすが、会津が直々に雇っているだけのことはあるな」
「は、冗談やろ。あんたはともかく、あの騒がしいお連れさんに気づかん方がおかしいわ」
仙吉は呆れて言った。
「ち、あのバカ」
琴が忌々しげに毒づく。
「まあいい。あなたがここで私を仕留める気なら答えてくれ。
会津が長州を警戒するのはわかる。
だが、一介の雇われ浪士風情に、わざわざ間諜を張り付かせるほどの、どんな理由があるのか」
「雇われ…ああ、仏生寺のことかい。えらいズバリ核心を突いてくるんやな」
「冥土の土産に聞かせてくれてもよかろう」
「ぬかせ。わしも仏閣で殺生するほど無粋やないさけな。ましてや、あんたが敵か味方か、正直、いまだ判じ兼ねとる。けどな、いずれにせよ、これだけは確かや。この件に深入りすんのは利口者のするこっちゃないで」
「私が誰だか知ってる口ぶりだな」
「ククク、えらいベッピンさんやからな。ま、名前くらいは。利根法神流師範中沢良之助の妹、お琴」
「!」
「せやけど、名前なんぞ記号みたいなもんや。あんたが何者であるか、わしが知っとることにはならん」
「素性はお察しのとおりだ。別にそれ以外の何者でもない」
「そうかなあ」
仙吉はふざけた口調ではぐらかした。
その思わせぶりな態度が琴の気に障ったらしい。
「腕前のほどが知りたいなら、ここでやり合ってもいいが」
「ほらほら、それや」
仙吉は眼を怒らせる琴を小さく指差した。
「?」
琴はそのとき初めて見られていることに気づき、茂みから顔をのぞかせる仙吉と視線を交錯させた。
「その眼や、ゾクゾクするのう」
琴が醸す密やかな殺気。
それを身に纏う人間が、
これまでどんなことをして、
どんなものを見てきたのか、
仙吉は嫌というほど分かっていた。
「…推察するに…」
そのとき、刻を知らせる九つ(正午)の鐘が鳴った。
仙吉がその音に思わず耳を奪われた刹那。
琴の投げ返した短刀が、
鋭い音を立てて、仙吉の半纏の袖を雑木の幹に縫い付けた。
琴の押し殺した低い声が響く。
「…今日のところは引き揚げる。その推察はまた今度聞かせてもらおう」
「せっかくやから境内を案内しよう思てんけどなぁ」
時間稼ぎの台詞も虚しく、
鐘の余韻が消える頃には、
琴の姿はすでになかった。
「ふん…可愛いらしいが、扱いの難しい小猫やな」




