Trouble Sleeping Pt.1
暗雲立ち込める幕末という時代も、
各地から馳せ参じた浪士から言わせれば未曾有の国難という局面も、
千年の歴史を誇る都の人々にとっては、幾度か経験した動乱の一つに過ぎない。
ここが、天子のおわす唯一の都であるという事実は依然として変わらなかったし、
京町屋と呼ばれる家々が軒を連ねる独特の街並みや、
その、通りを吹き渡る風や、
街角を行き交う人々は、
いまだ雅やかな色彩を損なってはいない。
しかしこれは、どの国の、
いかなる都にあってもいえることながら、
光の差す場所には必ず影ができるものだ。
六条河原の東岸をすこし南に下った辺りに位置する貧民窟は、まさにそうした都の暗部だった。
だが、ここで断っておかなければならない。
封建社会における貧困とは、ほとんどの場合、本人の資質や、行動や、あるいは意思とは、およそ無関係の産物だということを。
この土地に生を受けた人々のほとんどは、その日その日を真面目に、精一杯生きている。
それでも彼らにとって、貧困は避けられない運命であり、受け入れるしかない現実なのだ。
だから、彼らが仮に罪を犯すことがあるとすれば、それは食べるために、死なないために必要な行為だった。
例えば―
上覧試合が行われた同じ日の早朝、
鴨川の河原で、畑とすら言えないちっぽけな菜園をお上の許しなしに耕す背中の曲がった老人もその一人だった。
「よう、爺さん。この辺りに爪哇咬吧って名の賭場荒らしが住んでると聞いて来たんだが」
その善良な老人は、いきなり声のした土手の方を、やぶにらみに振り返った。
川べりの道から浪士風の二人連れが急な坂をこちらに降りてくるのが見える。
一人は、着流し姿のスラリとした細身のサムライで、
声をかけてきた中肉中背の方は、ひどく貧相な身なりをしていた。
浪士、九郎に身を窶した中沢琴、
そして、出羽浪人、というより放浪者の阿部慎蔵である。
老人は、すぐに二人から視線をそらすと、何事もなかったように、また黙々と鍬を振るい始めた。
「このじいさん、耳が遠いのかな?」
阿部は琴に耳打ちしてから、もう一度老人の方を向いて声を張り上げた。
「俺たちはさあ、爪哇咬吧ってヤツのヤサが、この辺りにあるって聞いてきたんだが!あんた、知らねえかなあ?」
老人はもう一度いぶかしげに二人をジロジロ眺めまわした後、黙って上流の方を指さした。
彼らが立っているすぐ先に、強面の大柄な男が、どこかぎこちない動作で川に網を投げているのが見える。
阿部は得意げに琴の顔をのぞきこんだ。
「ホ!こんなに簡単に見つかるとは!な?言った通りだろ?裏家業の人間を見つけたきゃ、ここに限る」
「だがここから先はそう簡単に行きそうもないぞ」
琴は男の横顔を見ながら憂鬱そうに呟いた。
好きこのんでこの無法地帯に住み着く者はいない。
とは言え、なにごとにも例外はあるものだ。
その男はまさしくそうしたタイプに見えた。
が、阿部は構わずズカズカと歩み寄ると、持ち前の図々しさで声をかけた。
「なにが捕れるんだい?」
男は、前屈みのまま、気の弱い人間ならすくみ上がるような目つきで二人を睨めつけた。
阿部は友好的な接触を諦めて、肩をすくめた。
「爪哇咬吧とか言うのはあんたかい」
「ああん?誰じゃい、おまえら」
阿部は琴の顔を横目で見ながらおどけて口笛を吹いてみせた。
「ひゅー、おっかない顔で睨んでやがるぜ。こいつに間違いねえな」
その男は、かつて都中の博徒から恐れられた賭場あらしで、
裏社会では爪哇咬吧の通り名で知られていた。
本名も、なぜそう呼ばれるようになったかも定かではない。
琴が無表情のまま、用件を切り出した。
「仙吉という侠客を捜してる。知ってることがあれば教えてくれ」
「…ワシに向こうて、その名を口にするとは、命が惜しゅうないらしいのう」
爪哇咬吧は上半身をムクリと起こした。
その体躯は、ゆうに小さな熊ほどもある。
「ああ、あんた、以前賭場を荒らしに入って、奴にこっぴどい目にあわされたんだってなあ」
阿部慎蔵は天気の話でもするようにサラリと言ってのけた。
どうやら琴と一緒にいるという心強さから、いつもよりさらに気が大きくなっているようだ。
「まったく、ロクなもんじゃねえよな。そいつは、あのいかがわしい岩倉村の賭場だろ?」
「野郎!」
こめかみに青筋をたて、
やおら掴みかかろうとする爪哇咬吧の腕を、
琴が掌底で軽くいなした。
爪哇咬吧は大きく軌道を逸れ、
もんどりうって倒れた。
無様に這いつくばった爪哇咬吧は、
砂利をつかんだその手のすぐ脇に、
節くれだった流木が転がっているのに気づいた。
彼は大きな身体に似つかわしくない敏捷さでそれを掴むと、
すぐさま攻撃に転じた。
が、
琴はその目の動きで反撃を察知すると、
爪哇咬吧が行動に移る前にはすでに抜刀していた。
爪哇咬吧が、その流木を振り下ろそうとした時には、
すでにそれは彼の親指スレスレのところでスッパリ切られていた。
「ぐ…」
「おっと、言うのが遅れたが、この男を力ずくでなんとかしようとしても無駄だぜ」
阿部が自分の手柄のように胸を張った。
爪哇咬吧は、流木の切り口をマジマジと眺めてから、もう一度琴に視線を戻した。
「なにもんじゃ、おまえ」
「そういうことは殴りかかる前に尋ねるものだ。いいから質問に答えろ」




