上覧試合 其之参
というわけで、この物語では気になる勝負の行方を泣く泣く割愛することにして、
原田左之助小用を足すの行に紙幅を割きたいと思う。
さて、その原田左之助だが、持ち前の図々しさを発揮して、
金戒光明寺の広大な境内を案内も請わずうろつきはじめた。
「ボーズ丸儲けってな、けだし名言だな。
広すぎて迷っちまった」
境内に九つ(正午)の鐘が響き渡るころ、原田はようやく庫裏(僧侶の居住区)に迷い込んだことに気づいたが、
「なーるほど。さっすが、京都守護職ともなりゃ、いいとこに住んでやがんな」
と呑気に珍しがっている。
金戒光明寺の庫裏は、この頃、会津藩が宿舎として使っていた場所だった。
「お!」
原田が方丈(住職の居室)の裏手に面した枯山水(庭園の様式)に目を奪われ、吸い込まれるように脚を踏み出したとき。
黄色い花をつけた菩提樹の足元、低木の繁みに、小柄な男が身を潜めているのに気が付いた。
こちらから顔は見えないが、片膝をついて御影堂の方をジッとうかがっている。
原田は猫のような俊敏さでその背後に近づき、迷うことなく首すじに脇差しを突きつけた。
小男が一瞬身を硬くしたのが分かった。
「おーっと、動くなよ。あんた、ここで何してる」
原田が押し殺した声で尋ねると、その男はゆっくりと振り返った。
その横顔は、どこか人懐こい印象を与えたが、頬に残る大きな傷跡と、その隠しようもない鋭い目つきが堅気の人間でないことを物語っている。
「あっちゃ、油断しとった。待った待った!わしゃ別に怪しいもんやないさかい」
原田は、ほぼ同時に自分の脇腹に突きつけられた男の短刀に目をやり、片方の眉を吊り上げてニヤリと笑った。
「はーん。そうは見えねえな」
原田の見立ては間違っていなかった。
それは芹沢鴨と洛北の賭場で遭遇した博徒、仙吉だった。
仙吉は短刀をスッと引くと、喉元に突きつけられた切っ先を指でつまんだ。
「かなんなあ。この通り、ただの中間(武家の雑役夫)でんがな」
「ただの中間が、なぜ裏庭の茂みに隠れてるのか聞いてんだよ」
原田はまだ警戒を解いていない。
「なにね、野良猫が入って来よったから、台所で悪させんうちに、捕まえたろ思てなあ」
「は!ネズミが猫を捕まえるって?笑えねえ冗談だ。いいか?俺は気の長い方じゃねえ。言葉の選び方によっちゃあ、首が跳ぶぜ」
仙吉は不敵に笑って、原田の鼻先まで顔を近づけた。
「ふふ、あんた、浪士組の原田はんか。なんか誤解があるようやの。わしゃ、これからここで、広沢はんと話があるだけやがな。今日はお客さんがぎょうさん見えとんなはるさかい、この向う傷だらけのツラぁ見せんのは、皆さんのお目汚しになる思て遠慮しとったんや」
原田は会津藩公用方、広沢富次郎の名を聞いて少し驚いたが、まだ腑に落ちない。
「なぜ俺の名を知ってる?まあいい。じゃあ、俺が"死に損ない"って呼ばれてるのも知ってるよな?しらばっくれんなら、ここで刺しちがえてみるか?」
「のう原田はん、よう見てみい。わしの身体なんぞ、刀傷だらけや。くたばり損ねた回数やったら負けへんで」
「ちっ…口の減らねえ野郎だ」
「わしゃこの、立派な寺に墓をおっ建てると決めとるさかい、手間が省けるちゅうもんじゃ」
そこへ件の広沢富次郎が、
庫裏の開け放たれた座敷を一跨ぎして、濡れ縁までやってきた。
「お前たち、そこでなにをしている!」
原田は悪びれる様子もなく、抜き身の脇差を振ってみせた。
「なあに、便所を探してウロついてたら、お屋敷が広くて迷っちまいましてね。そしたら、アニハカランヤ、こんなとこにでかいネズミが潜んでるのを見つけちまった次第で」
広沢は、すっと手を上げ、
「その男は、うちの中間頭だ。怪しい者じゃない」
と、取りなした。
「だがねえ、旦那。こいつは!」
「さすけねて!いいがら早ぐ行げ!」
急ぐ用事でもあるのか、広沢は苛立ちをのぞかせ、お国言葉で一喝した。
原田は渋々引き下がる。
「…あ~あ~、原田はんのせいで野良猫も見失ってもうたわ」
仙吉は聞こえよがしに言うと、さも親しげに広沢の耳元へ口を寄せた。
蚊帳の外におかれた原田は、肩をすくめて降参のポーズをとってみせる。
「わかったよ、帰りますよ。帰りゃあいいんでしょ」
原田の背後では、さっそく仙吉が何事か報告をはじめた。
「せやせや。大阪に張った網に外道が引っかかりましてねえ。まあ、雑魚 にゃちがいないが、これが、ちょっとおもろい雑魚で」
「まあず、にしゃごせやげる(お前は腹が立つ)なや。勿体つげねえでしゃべれ」
この男特有の人を食った態度が、さらに広沢の神経を逆なでしたらしい。
「調子のいい野郎だ。いけ好かねえ」
原田は庭園の真っ白い砂利にツバを吐いた。
しかし、仙吉の発したある言葉が、その場を立ち去ろうとした足を、ふと止めさせた。
「それが実は、おもてに来とる浪士組の…」
仙吉は、たしかにそう言って御影堂の方をクイとアゴでしゃくったのだ。
原田は庫裏の角を曲がったところから、わずかに漏れ聞こえる二人の密談に聞き耳をたてた。
「…広沢はん、ケツまくった残党どもが、なんぞ悪さでもせんかちゅーて気がかりにしたはったやろ…ありゃ、ほとんど江戸へ逃げ帰りよったみたいですけど……ほれ、橋の上でくたばった殿内の取り巻きで家里次郎たらいう若いのが、大坂に潜伏しとるよし…」
ところが、広沢の煩わしげな声が、その話を遮ってしまった。
「くだらん。そんな小者など放っておけ。それより、清河八郎が去ったあとの攘夷派に何か変わった動きは」
仙吉はしたりと頷く。
「最近、土佐の吉村寅太郎が入京して、木屋町にある旅館の離れ座敷、ゆうたら料亭みたいなとこへ頻繁に出入りしとるらしいです」
「ちっ、いいところで」
原田は裏切り者の居所を聞き逃して小さく舌打ちしたが、この話はこの話で面白そうだと、もう少しその場所に留まることにした。
ところが。
「原田とやら!まだ何か用か?」
広沢富次郎が大声で呼ばわると、
ズカズカと歩み寄って来て、原田の目の前に仁王立ちした。
先ほどの舌打ちを聞きつけられたらしい。
「…あ~、いや、えっとその~、便所はどこでしたっけ?」
わざとらしく空惚けてみせたものの、当然、ごまかしおおせるものではない。
「あっちだ!さっさと行け!」
「へーいへい」
雇われ浪士にあるまじき御座なりな返事をして、原田は来た時と同じようにブラブラと戻っていった。
原田が会場に帰り着いたとき、御前では、隻眼の剣士平山五郎と、佐伯又三郎が対峙していた。
「おーお、ヘタクソどもが、いつまでもチンタラやってやがら」
気だるげにノロノロ席へと戻る原田を、
腕組みした土方歳三が横目でジロリとにらむ。
「遅い。どこほっつき歩いてた」
「うるっせえな。クソしてたんだよ!クソ!」
悪態をつく原田に、会津藩士たちの見下したような視線が注がれる。
そんなことなどまるで意に介さず、原田はドカリとあぐらをかくと、親指の爪をかみながら、つぶやいた。
「気に入らねえ…気に入らなねえな。あの野郎、どう見ても堅気じゃねえが、いったいなにもんだ。会津ってな、どうにも得体の知れねえとこがあるぜ」
上座では京都守護職松平容保が、平山五郎の剣技に手を打って喜んでいる。
その様子を見つめながら不機嫌に親指の爪を噛む原田に、沖田総司が例の悪戯っぽい笑みを浮かべて声をかけた。
「ねえ原田さん。手、洗った?」




