上覧試合 其之壱
「とうとう幕府の頭越しにそのような話を。それは本当に帝の思し召しなのでしょうか?」
壬生浪士組局長、近藤勇は例の大きな口を引き結んで唸った。
「さて…」
そう答えたきり眉を曇らせたのは、前の会津藩主にして京都守護職を司る松平容保その人である。
齢27歳、時の天皇から賜ったという陣羽織姿の写真が今も残るこの美しい青年の双肩に、都の命運が重くのしかかっていようなど、一見して信じがたい。
文久3年4月16日
会津藩が本陣を敷く黒谷、金戒光明寺、御影堂。
紅白の幕がかすかにたなびいている。
この日、近藤勇ら壬生浪士組は、松平容保の御前で試合を披露した。
見物席に着座した容保は、冒頭ふと思い出したように、脇に控える芹沢鴨、新見錦、そして近藤の顔を見わたして、つい昨日朝廷で起こったという出来事を語りきかせた。
「…朝廷を牛耳る三条実美卿・姉小路公知卿が、備前岡山藩主池田茂政公、水戸の昭訓公(藩主徳川慶篤の弟)といった面々を学習院まで呼びつけ、なにごとかお尋ねになられたらしい」
この面々が顔をつき合わせて謀を巡らすとなれば、それは攘夷実行の策略に他ならず、すなわち、この京に遠からず嵐が吹き荒れることを意味している。
水戸の名が挙がったとたん、新見錦が含み笑いをもらした。
「クックック、近習にかしずかれてヌクヌクと育った公卿を御するなど、容易かろう。…なにを入れ知恵したのやら」
聞こえよがしの独り言に、芹沢もニヤリと微笑み返す。
「自分たちの方が操られているとも知らず、盟主気取りのお公家さんたちも憐れなもんさ。今ごろはさだめし…鼻息も荒かろうぜ」
曲がりなりにも「学問の都」水戸出身の二人は、雲の上で行われたこの諮問会議が、やがて自身の運命に直結することを知っている。
が、二人の胸中には、それぞれ故郷に対する複雑な想いが渦巻いているように見えた。
一方、近藤は、言葉を切ったままいつまでも口を開こうとしない容保に焦れていた。
「…我らは、いずれそうした朝臣をも敵に回すことになるのでしょうか?」
松平容保は、物憂げに顎をさすり、つぶやくように応えた。
「わからんが、おそらく、幕府へのあてつけの意図もあろう。しかし、芹沢の申すとおり、かの若き二卿(三条、姉小路)を操っているのは、真木和泉や長州の桂小五郎だという噂もあってな…」
そう言うと、容保はまた押し黙って、宙空の一点を見つめた。
実直な近藤には、会津の陥ったジレンマが、どうにも理不尽に思えてならなかった。
「納得がいきませぬ。殿は帝から直々に都の守護を仰せつかったのでしょう?」
「ふむ。しかし…やはり分からん…」
近藤は容保の漏らした言葉に耳を疑って、思わず腰を浮かした。
「お待ちください!殿があえて火中の栗を拾うご覚悟であれば、我ら身命を賭して付き従いましょう。しかし、分からぬとは如何に?」
「…ん」
少しうわずった近藤の声で、容保は我に返ったように面を上げた。
無言のままマジマジと見返された近藤は、居心地の悪さにモゾモゾ身をよじる。
「あ、いや、ですから」
「…あの、右側の男の流派はなにか?」
出し抜けの質問に、近藤はしばらくキョトンとしたのち、
容保が目の前の試合を指して、流派が“わからん”と言ったのだとようやく理解した。
「右?あ、ああ」
「あれは、わが天然理心流の構えです」
垂れ幕で仕切られた前庭の中央で構える副長、土方歳三を見て答える。
その土方が、近藤を横目で睨みつけた。
『しっかりしろよ、噛み合ってねえだろが』
『うるせ!おまえは黙ってろ』
二人はアイコンタクトと口の動きで互いを牽制する。
「ふん」
近藤の隣に座る新見錦が、小馬鹿にしたように鼻を鳴らす。
左手を腰においた土方は、不敵な笑みを浮かべて器用にクルリと竹刀を回した。
「殿、御尊顔に拝し、恐悦至極にございます。…んじゃま、天然理心流の真髄ってやつをご覧いれましょうかね」
近藤は、またしても腰を浮かせた。
「なに言ってやがる!調子ん乗んな、万年目録が!…あ、いや、これは失敬」
「嫌だねえ、なにも極意をご覧入れようって訳じゃねえ。俺はな、真髄つったんだよ。小さな町道場なりの剣法ってやつをご披露しましょうってな?」
土方は小さな声でつぶやいて、
いきなり荒っぽく竹刀を構えなおした。
容保はまた顎をさすりながら、愉快そうにつぶやいた。
「天然理心流。なるほど見たことのない型だ」
「でしょうな。なにせあんな型などありませんから!」
容保は少しびっくりしたように、近藤を顧みた。
「あ、いや、如何せんあの男の剣は我流でして。汗顔の至りにございます」
思わず口を滑らした近藤は、苦い顔で言い訳した。
「やれやれ、うちの若先生の過ぎたご謙遜にも困ったもんだね」
土方は不敵に笑い、対戦相手の藤堂平助に向けて、人差し指をクイと手前に曲げてみせた。
「来な。北辰一刀流」
頭に血の上りやすい藤堂は、この見え透いた挑発に、いとも容易くのせられた。
「この…舐めんなよ!」
”魁先生”と綽名される突進力で、
一気に土方との間を詰める。
そこへ土方の切っ先が、
ヒョイと突き出された。
危うく罠に突っ込みそうになった藤堂は、
急ブレーキをかけて、
その切っ先を弾いた。
「あ、あっぶね!だがなあ、そんな子供騙しに引っかかるかよ!」
「そこまで甘いとは思っちゃいねえさ」
土方はそう言って、
体勢を崩した藤堂に襲いかかった。
しかし藤堂も、一流の剣客であることに変わりはない。
左から右から叩きつける嵐のような打撃を、
持ち前のスピードで次々といなす。
「どうした副長さん、それで終わりか?」
初夏の日差しが、二人の額にじんわりと汗をにじませた。
「どうも、口の悪いやつらで…」
天を仰ぎしどろもどろの近藤を後目に、芹沢鴨が肩を震わせて嗤いをこらえる。
その様子を少し離れた席から見ていた会津藩の公用方秋月悌次郎は、同僚の広沢富次郎の耳元で何やら囁いた。
どうやら彼らは、二人の浪士組局長の間に横たわる溝を、すでに気取っているようだ。
しかし松平容保は、次々と繰り出される攻撃をすべて逸らしてゆく藤堂のしなやかな剣さばきに、夢中で目を凝らしている。
「は、これは見事な」
一方の土方はといえば、一見、あたり構わずメチャクチャに刀を振り回すばかり。
「ほらほら、休んでる暇ぁねえぞ、魁先生!」
「なんなんだチクショウ!なにか企んでやがるようだが、クソ!これじゃ考えるヒマもねえ!」
藤堂は素早い足運びでその動きについていきながらも、攻撃に転じるタイミングをつかめず、焦りを見せ始めた。
二人の竹刀が激しくぶつかりあう音が、なおも御影堂の前庭に響きわたる。
その、左右の動きに、
藤堂の目がすっかり慣らされた頃合いだった。
土方はスッと身体を引くと、
ふたたび、藤堂の胴めがけて、
切っ先を突き出した。
その突きは、
実に軽く、
さりげなかった。
さりげなかったという表現が適当かどうかはさておき、
少なくとも観衆の目には、
さほど強い力を加えたように映らなかったことは確かだ。
が、いずれにせよ、
藤堂は両足を宙に投げ出した格好で、
見事なほどストンと地面に尻を着いた。
その効果は絶大だった。
「一本!」




