約束 其之伍
「ひとつだけ、なぜか妙にはっきりした記憶があるんです。
…幼い頃、父と弟と筑波山の上からご来光を見に行ったときのこと。
私たちはまだ暗いうちに家を出て、夜も明けない時間に中腹の神社に着きました。
そこから東の空を振り返ると、朝靄にかすむ志筑の町のちょうど真上に、ひときわ明るい星が見えたんです。
淡い紫の空に、その星だけが光を放ってた。
わたしにはなぜか、初日の出より、それが印象に残っています。
どうしてだか分からないんですけど、里を思い出すたび、いつもその景色が浮かぶの」
「…明けの明星ですね」
「え?」
「星の名前です」
「…明けの明星」
山南は窓を開けて、宵闇の空に手をかざした。
二人の眼前には、夏の星座が姿を現そうとしている。
「なんて、鮮やかな。まるで花で埋め尽くされた庭園みたい」
琴は、はじめて昼と夜の境目にある色彩に気づいたように、感嘆を漏らした。
山南は、しばらく空に視線を漂わせたあと、ある一点を指さした。
「ほら、あそこに明るい星が見えるのが分かりますか?」
「あ、ええ」
「同じ星です」
「でも、今は明け方じゃありません」
「だから、宵の明星」
二人はしばし無言で、星空を仰ぎ見ていた。
山南の口から、感極まったように、憂いを帯びた言葉がこぼれ出た。
「…これから、この美しい国では、どれだけ沢山の血が流れるんだろう。
これから、この国の人々は、どれだけ辛く苦しい時間をやり過ごさなければならないんだろう。
この長い、とても長い災禍は、
志筑の人々や、私や、そしてあなたですら、きっと例外ではいさせてくれない。
だが、たぶん…その時代を乗り越えなければ、この国に未来はないんだ」
琴は山南の静かな声に黙って耳を傾けていた。
空を見上げていた山南は、ふと何か思いついたように琴へ向き直った。
「そうだ。この仕事が終わって江戸に帰ったら、一緒に向島の百花園に行きませんか」
山南がそんなことを言い出したのにはわけがあった。
琴と良之助が江戸に出て間もないころ、知り合ったばかりの山南は、あちこち名所を案内してくれた。
そのとき、琴は、佐原鞠塢という学者が向島に開いた百花園という庭園の話を聞かされたことがある。
一年中花が絶えることがないというその庭園は、琴の想像をかきたてたが、様々な事情が重なって、それを見ることは叶わなかった。
ただ、そのとき山南が教えてくれた佐原の辞世に、琴は強く惹かれた。
隅田川 梅のもとにてわれ死なば 春吹く風のこやしともなれ
―どうせなら、そういう風に死ねればいいのに。
「でも、良之助も剣術修行を終えて、江戸の割長屋を引き払ってしまいましたから、わたしにはもう利根しか帰る処がありません」
その頃の良之助は、新徴組としてもうしばらく江戸に残ることになっていたが、彼女はまだそのことを知らない。
「そうか…そうですね。残念だ」
山南は俯き加減に苦笑を漏らす。
「そのときは、江戸に出て行きます」
「え?」
「山南さんが百花園に連れて行ってくれるなら、江戸まで行きます」
「では、京を出たらその足で利根まで迎えにいきましょう」
山南は琴の頬に触れ、指先をそっと這わせた後、
その肩をもういちど抱き寄せた。
山南が触れた形の良い唇から淡い吐息が漏れる。
琴はただ身を任せて、山南の口づけを受け入れたが、
肩にまわされた手を握ると、そっと振り解いた。
「山南さん。もし、今わたしが…」
山南は、琴の唇にまた人差し指を触れて、静かに首を横に振った。
「もう遅い」
それは、もう時間が“遅い”という意味なのか、
二人がこの負の連鎖を抜け出すには、もう“遅い”という意味なのか、琴には聞けなかった。
「もう、遅い…わたし、ある人からも同じことを言われました。わたしはいつも…」
山南はもう一度、触れるような口づけをして琴の肩をかるく引き離した。
「宿へお帰りなさい」
「はい、これ」
琴はきれいにたたんだ着物を差し出すと、悲しげな眼で山南を見つめたあと、立ち上がった。
「百花園、楽しみにしています。忘れないでくださいね」
「貴女こそ」
山南は、そのまま黙って立ち去る琴を眼で追った。
琴の背中が闇の中消える直前、山南には彼女が一度振り返ったように見えた。
そして、彼女に届かぬことを知りつつ、静謐な闇に向って話しかけた。
「覚えておいて欲しい。
ひょっとしたら私は、道半ばで斃れるかもしれない。
それでも、この人生を選んだことに悔いはないことを。
そして、覚えていて欲しい。
私が愛したのは、生涯で貴女一人だったということを」
その、しばらくのちー
琴と山南が逢瀬を交わした縁側に面する板塀の影から姿を現した者があった。
八木家の通い女中、祐だ。
祐は、琴が消えて行った仏光寺通りに抜ける小扉をじっと見つめてため息をついた。
「盗み聞きか?いい趣味じゃねえな」
突然、後ろから声がかかって、祐は心臓が止まるほどドキリとした。
庭に面した三畳間の壁に寄りかかって座る影を見て、それが土方歳三だと分かると、祐はややホッとした様子で言い訳した。
「そ、掃除してたんや」
「こんな時間にか」
「悪い?うちかて色々忙しいねん。あんたかて、今の聴いてたんやろ」
「ここは俺の部屋だ。この蒸し暑いのにわざわざ縁側を締め切ることもなかろう。そうなりゃ風にのって話が耳に入ってくるのも自然の成りゆきだ」
「それやったら、壁際にはりついて聞き耳立てる必要なんかないやろ!そこ、掃除するから退いて」
引っ込みがつかなくなった祐は、苦しい言い訳を押し通そうとした。
「今は無理だ」
土方は、ただ素っ気なくそう答えた。
「なんでそんなイケズ言うん?」
「好きでこうしてるわけじゃねえ。俺にはここを動けない理由があるんだ」
土方は珍しく困った顔をして胡座をかいた足元に視線を落とした。
祐は、土方の膝の上で小さな黒い猫が気持ち良さそうに寝息を立てているのに気がついた。
「なんでやねん。その子、うちには全然懐かへんのに」
「知るか!」
祐は口元に人差し指を立てると、急に肩を落としてうなだれた。
「…うちな、山南はんのこと、よう分かってへんかったみたいや」
「そんな簡単に解ってたまるかよ。あいつはなあ、昔っっから!ほんっっと!わかりにくい奴なんだ」
土方はそう吐き捨てたあと、険しい表情で黙り込んだ。
祐はその沈黙を自分なりに解釈したらしい。
「…やめとき。土方はんはそうやって、近藤はんや、山南はんの気苦労を全部ひとりで背負い込む気ぃでおるんやろ?」
「フン、小娘が聴いたふうな口を…奴らにとっちゃ重荷でもな、俺には別にどうってことねえんだよ。なんせ、奴らみたいにお行儀よかねえからな」
祐は小さく笑って、土方の膝を指差した。
「あんたは分かり易うてええわ。悪ぶってもあかんで。その子はちゃんと知ってるから安心して寝てるんや」
「ちっ」
土方は小さく舌打ちして、仔猫の首の後ろをつまむと、少し乱暴に膝から降ろした。
…チリン…
沖田が首に巻いたものらしい鈴の音が響く。
猫は、一つ欠伸をして、たどたどしい足取りで庭の垣根の方へ歩いて行った。
「…なあ知ってる?南蛮では、猫は9回も生き返るって言われてるんやて」
「なぜ」
土方は短くたずねた。
「さあ」
「そんな話、誰から聴いた?」
「…そんなん、もう忘れたわ」
生暖かい風が一陣、虫の声が止んだ。
祐の呟きが、寂寥たる夜のしじまに溶けてゆく。
まもなく、関西でいう梅雨の季節がやってくる。
「梅雨」の読みは本来「ばいう」であり、「つゆ」というのは関西弁らしいです。




