約束 其之参
その頃、
山南は押し黙ったまま、前川邸の自室へ引き上げていた。
その後ろには、やはり無言の琴が続く。
「…もうこういう悪ふざけはやめにしませんか」
玄関の前で立ち止まった山南は、前を見たままため息をついた。
「…まだ怒ってる」
琴は少し悪戯っぽい上目遣いでつぶやいた。
「怒ってない」
山南は乱暴に草履をぬぐと、框の上から琴を見下ろした。
「…これ」
琴は指先で自分の眉と眉のあいだを縦になぞってみせる。
山南が自らの眉間のしわに軽く触れたとき、琴は唐突に切り出した。
「あの、ありがとうございました。寺田屋まで来て頂いたんでしょう?」
山南は苦笑して、少し表情を和らげた。
「やはり、バレましたか。ものすごい剣幕で追い返されましたよ。が、おかげでひとまず無事が知れた。あの女将はあなたを親身になって守ってくれているようで安心しました」
あえて中村半次郎のことには触れず、山南は琴を部屋に招き入れた。
「とにかく、どうぞ」
二人の間には話さなければならないことが山ほどあったが、差し向かいに座ったとたん、それらは霧散して、互いになにから話して良いのか分からなくなってしまった。
「明日、上覧試合があるとか?」
やがて琴が手近な話題を持ち出して、沈黙を破った。
「誰から聞いたんです?」
「…」
「そう、つまり浪士組はある程度軌道に乗ったんです。もうあなたが心配する必要はない」
浪士組の行末を懸念する琴に、山南は見え見えの強がりを言って、ぎこちなく微笑んだ。
またしても気まずい沈黙が流れたあと、琴が口を開いた。
「脱いで下さい」
「え?」
「だって、明日は本陣に行くんでしょう?袖に穴が開いたままじゃ格好がつかないわ。繕います」
「案外、目ざとい」
山南は困った顔で、着古した袷の袖を見つめた。
琴は懐から裁縫道具を出してみせた。
「ほら、女らしいところもあるでしょ?」
「いやしかし、そこまでさせるわけには…向こうで道着に着替えますから」
「それでも駄目です。だって、浪士組にとっては初めての晴れ舞台じゃないですか。その副長がみすぼらしい格好で金戒光明寺の門をくぐるなんて」
山南は渋々服を脱ぎ、申し訳なさそうに頭を掻いた。
「…すみません」
「いえ、今も弟の着物を繕っているので、別に苦になりませんから」
琴の声からも、ようやく少し固さが取れていた。
「お琴さん、それでもやはり、私はあなたを独りにしておくのは心配だ」
山南は琴の細い指が流れるように動くのを思案げに目で追いながら、浴衣を羽織った。
「この都がどういったところか、私だってある程度理解してるつもりです」
琴は手を動かしたまま、その言葉をさらりと交わす。
「清河さんから都についてどれだけのことを聞いたのか知らないが、彼がいた頃とはまた事情が違ってきている」
「どういう意味ですか」
「上手く説明できないが…吉村(寅太郎)の噂を聞いてからというもの、私には何かこう、攘夷派のタガが外れたように感じられるんだ。少なくとも武市瑞山は、殺す相手を選んだ」
幕府の思惑をよそに、武力による列強との決別への期待は日を追うごとに高まるばかりだ。
山南は縫い物を待つ間、無粋を知りつつ時勢を語った。
「このあいだ、斎藤くんが見たという僧侶の一件だって、吉村の入京と無関係ではない気がする」
二人の僧侶が三条河原で惨殺された事件はもちろん琴も耳にしている。
「…と、いうと?」
「いや、直接的な関連はないのかもしれんが、そのやり口が吉村の過激さに通じるというか…」
尊皇攘夷派にある種の共感を持つ山南は、自分の言葉を認めたくないように言葉を濁した。
「彼らのやり口なんて、前から一緒です」
琴の辛辣な意見を、山南は苦々しい想いで受け止めた。
「この国はいま、『攘夷』という熱病に浮かされている。彼らはただ闇雲に、異なる思想をもつ人々を排除すべしという妄執に取り憑かれて、そもそもそれが同胞を護るためであったという根本を忘れているんだ」
偏執的な攘夷思想に取り憑かれていたのは、なにも市井の人々だけではなかった。
むしろ、もっとも客観的な視野を持たねばならないはずの支配者層の妄信(むやみに信じること)こそが、その元凶だったと言える。
この日、朝廷では二人の若き指導者、三条実美と姉小路公知が、長州や水戸といった抗戦派の雄藩に対して、実際的な戦術を諮問している。
そして、都の外に目を向ければ、政治総裁職を辞した松平春獄も、独自に来るべき攘夷に備えていた。
摂海(現在の大阪湾)に外国船が侵入した事態を想定して、加賀(ちなみに仏生寺弥助はこの藩の出身だった)、小浜に使者を送り、有事には共に兵を挙げて京を護るべしと協力を申し出たのだ。
「それでも私は攘夷派のすべてがそうだとは思わない。だが、だんだん見境がなくなって来ているのも確かです。このところの天誅騒ぎは、どこか狂気をはらんでいる」
琴は静かな、しかし確信に満ちた声で山南の希望的観測に反証を挙げた。
「ある雑掌(貴族に仕える雑役)は、幼いわが子の目の前で斬り殺されたと聞きました。そんなことをする人間が振りかざす大義なんて、わたしは信じない」
その瞳に宿る強い意思に、山南はたじろいだ。
「もの言えばくちびる寒しという。例えそうであっても、それを人前で口にすることは賢明とはいえない」
琴は苦笑した。
「山南さんの言ってること、わたしには半分以上ちんぷんかんぷんです」
「そんな筈ないでしょう。じゃあ清河さんとはどんな話をしていたのです」
「あの人は、ただ、一方的に自分のしゃべりたいことを押し付けるだけで」
「でもあなたは彼の語る理想に共鳴した」
「そんなのじゃありません。あれは…私たちの間にあったのは、ただの契約です」
琴は針の先に視線を落としたまま、どこか寂しげに応えた。
「失礼します」
そのとき、障子の向こうから女の声がした。
女中の祐である。
山南は慌てて浴衣の帯を締めて、
「どうぞ」
と、返事をした。




