ある道場主の苦悩 其之弐
その話題が出た途端、中沢は急に歯切れが悪くなった。
「…ああ、アレなら本庄宿で追い返した」
「追い返した?なぜです?」
「いまや国家危急のときだ。浮ついた気持ちでついて来られても迷惑なだけさ」
不機嫌にそう吐き捨て、そっぽを向く。
沖田は、ワケ知り顏で、その肩をつついた。
「ははあ、またさっきの調子で叱ったんでしょう?さては逃げられましたね。中沢さんは、体がデカいから、自分で思ってる以上に威圧的に見えるんですよ」
「…まあ、そんなとこだ」
中沢は、これ以上その件に触れられたくないというように、無理に話を反らせた。
「しかし山南さん。うちみたいな田舎剣法の秘伝なんて話、どこで聞いたんです?」
山南は、意味深な笑みを浮かべた。
「ちょっとね」
中沢は、怪訝な面持ちでしばらくその微笑を見つめていたが、ハッと腑に落ちた様子で、
「わかったぞ…姉ですね?」
と、またすぐ険しい表情でうつむいた。
「まったく、普段はいるのかいないのか分からんくらい無口なくせに、山南さんにだけは何でも話すんだな。いったいどうやって、あの無愛想な女を手懐けたんです?」
山南は、肩をすくめてみせた。
「それはお姉さんに失礼だろう。ただの世間話さ。なにせ、あの人と共通の話題と言ったら、剣の話しかないんだから」
中沢良之助の姉、中沢琴は、この時代には珍しく武道を好んだ女性だった。
良之助が剣術修行で江戸に仮住まいしていた頃、世話を焼くためについてきて、山南や、沖田とも面識ができた。
殊に山南とは親密で、当時、沖田などは、二人がいずれ一緒になると信じていたほどだ。
「そう言えば、お琴さん、見送りに来てなかったじゃないですか」
沖田が冷やかすように中沢の腕を小突いた。
中沢良之助は浮かない表情で、
「ああ、まあね」
と短くこたえた。
そこへ、耳ざとく割って入ったのは、山南と同じく試衛館の食客である永倉新八である。
「おう、誰だよ?お琴ちゃんて」
ブラブラ後ろを歩きながら、三人の話を聞くともなしに聞いていたが、女の名前が出た途端、スイッチが入ったらしい。
沖田は、なぜか身内を自慢するように説明した。
「中沢さんのお姉さん。あの人綺麗だし、永倉さんが見たら食いつくだろうなあ」
永倉は、身を乗り出して中沢のそでをつかんだ。
「おいおい、聞き捨てならねえなあ。そのお琴ちゃんは、アレかい?独り身かい?」
中沢はその手を振り払いながら、
「ええまあ」
と曖昧に返して、このいかにも胡乱げな浪士に、疑いの眼を向けている。
沖田は、なにかピンときた様子で、ニンマリと笑った。
「中沢さんて、ひょっとしてお姉ちゃん子でしょう?」
「は?まさか」
中沢は、また顔をそむけた。
先ほどまでの意気は、すっかり失せており、
沖田は、それを照れ隠しだと解釈した。
「わたしもちょっとそんなとこがあるから、分かるんですよ」
余談ながら、沖田総司の姉ミツは、試衛館の一員として今回の上洛にも参加している沖田林太郎の妻である。
林太郎は、のち江戸へもどり、市中の治安部隊「新徴組」の一員となるのだが、このとき同志として一緒に活躍したのが、ほかならぬこの中沢良之助だった。
山南には、彼の消沈ぶりが解せなかった。
「なにか気がかりなことでも?」
中沢は言い出しづらそうに唇を噛み、やがて意を決したように顔を上げた。
「実は…あそこにいたんですよ」
それをどう解釈すればよのか、山南は少し顔をしかめた。
「…誰が?」
「姉です。伝通院を出るとき、あの中にいたんですよ」
なぜかその事実に一番ショックを受けたのは永倉新八だった。
「マ、マジで?ちっくしょう、見逃したなあ!」
沖田も少し意外に感じたらしく、
「わたしも気付かなかったなあ。お琴さんが見送りの列にいたら、けっこう目立つはずなのに」
と唇を尖らせる。
「…いや、そうじゃないんだ」
中沢の渋い顔を見て、山南はなにごとか察したらしい。
「まさか…」
「ええ、浪士組に紛れ込んでいたんです」
それを聞いて、沖田は手を打って喜んだ。
「アハハハハ、お琴さんならやりそうですね!あ、そういうことか!あのお弟子さんがそうなの?」
中沢は苦々しげに、腹を抱えて笑う沖田を睨んだ。
しかし、中沢琴という女性をよく知る山南の方は、不安を募らせた。
「で、彼女、本庄で帰ったのかい?おとなしく引き返すとは思えないが…」
中沢良之助は、分からないという風に首を振った。
「そう願いますよ。ただ、ちょっと気になることが」
置いてけぼりにされた永倉が、思わず口をはさむ。
「おいおい、ちょっと待て。どういう女なんだそれは?」
沖田は、目に涙を浮かべて永倉の肩に捕まった。
「中沢さんの前じゃちょっと言いづらいけど、あまりお勧めはできないかも。永倉さんとじゃ、助六と揚巻(歌舞伎の演目で有名なカップル)っていうより、武蔵と小次郎になっちゃう」
「他人の姉をつかまえて、失礼な奴だな」
仏頂面をくずさなかった中沢も、どうやらその例えが可笑かったらしく、思わず吹き出してしまった。
沖田は、永倉の肩をポンと叩いて笑った。
「ガッカリしなくても、もうすぐお淑やか京女に会えますよ」
彼らの前を行く、土方、原田、藤堂らが、けたたましい笑い声に振りかえって怪訝な顔をしている。
江戸の小さな町道場試衛館からやって来たこの一団は、それぞれひとクセあって、道中なにかと騒動も絶えなかったが、その実、道場主近藤勇がもっとも頼りにする精鋭中の精鋭だった。
文久三年二月廿二日。
このとき、世間ではまだ凡百の田舎剣法の一つにすぎなかった天然理心流は、
まもなく、その実力を京洛に知らしめることになる。
史実の中沢琴は、中沢良之介の「妹」です。
あと、サボるとか言わせちゃってますが、これ、英語ですね。




