Tumbling Dice Pt.4
岩吉と呼ばれた中年男が割って入った。
「ちょっと待ちや、おサムライさん。せっかくツキが回ってきたのに、水差さんといてくれるか?」
「岩吉さんでしたっけ?あんたもグルだろ?」
仏生寺はズケズケと言って片膝を立てた。
数人の侠客たちがそれに反応して、岩吉をかばうように腰を浮かせた。
どうやらこの岩吉という常連が元締めというのは本当のようだ。
「つまみ出せ」
貸し元(鉄火場の責任者)が低い声で言うと、脇に控えていた大男が仏生寺に覆いかぶさるように立ち上がった。
天井からぶら下がった行灯の揺らめく光が、彫りの深い男の目元に影を落とし、その立ち姿はさながら仁王像のようだ。
その体格は、小柄でヒョロリとした仏生寺を圧倒している。
客たちはこの中年男をせいぜい「困った客」としか認識していなかったから、一様に気の毒そうな顔をした。
しかし。
次の瞬間、男は仰向けに倒れていた。
一同は何が起こったのか分からない。
が、琴の眼だけは、その一部始終を捕らえていた。
その瞬きするほどのあいだに、
仏生寺の膝が至近距離から男の肋骨にめり込み、
そこから蹴り上げたつま先がアゴを砕き、
更に返す踵が手の甲を粉々にしていたのだ。
「…まったく、なんて奴なの」
琴の唇が声にならない感嘆を漏らす。
その口元には、新しい玩具を与えられた子供のような笑みがあった。
仏生寺はのっそり立ち上がると入口ちかくに立て掛けられている刀の中から自分の差料を掴んで男たちに突きつけた。
「せっかく遊びに来たのに、野暮なことをさせないで欲しいなあ。さあさあ座った座った。続きをやりましょ」
「おまえ、鉄火場でこんな真似をしでかして、さっきまでと同じように扱ってもらえると本気で思ってんのか?」
用心棒は大の字に伸びている大男を一瞥して凄むと、長ドスに手をかけた。
仏生寺はニッコリと微笑みかけて、男の肩に手をおいた。
「だから、さっきまでと一緒じゃ困るんだ。次からズルはナシで頼むよ」
優しげなその声とは裏腹に、仏生寺の目は赤く充血している。
阿部はその眼に、ある記憶を重ねていた。
それは、辻君の薬に取り憑かれた薩摩藩士(柴山弥吉)や、長州藩士たちの狂気を孕んだ眼差しだった。
仏生寺は彼らと同じように鎖骨のあたりを掻きむしった。
「何たってわたしは、下関で砲弾に身をさらす立場なんだからさ。正義に殉ずる者に対してそれなりの敬意を払って欲しいもんだな」
「正義?正義ときたか。なるほど…興味ねえな」
用心棒はまるで哀れむように口元を歪めたが、
居合の要領で抜刀したのは、ほとんどそれと同時だった。
その切っ先が、
下からせり上がるように仏生寺を襲う。
しかし、
その刃は主の手首と共に、
芹沢の前へゴロリと落ちた。
「…そいつは奇遇だな、わたしもさ」
仏生寺は口元に飛び散った血飛沫をペロリと舐めて微笑み返した。
このとき、仏生寺の上段が放たれたのに気づいたものが何人いただろう。
琴と仙吉、芹沢をのぞくほとんどの客、そして侠客たちは、用心棒の男が二の腕を抑えてのたうち回るさまを、またしても不思議な顔でながめるしかなかった。
彼らの目には仏生寺がまるで恐ろしい呪術を使う祈祷師のように映ったことだろう。
この不可思議な状況を把握している数少ない人間のひとり、仙吉が一歩前に歩み出た。
彼は仏生寺の腕にそっと手を置き、柔らかな物腰で取りなした。
「旦那、ここは遊興の場でっから、そんなもん振り回したら皆さんの迷惑になります。
ひとつ、お友達をお連れしたわしの顔に免じて刀を収めてくれまへんか」
「なるほど、すっかり白けちまったようだな。しょうがない、今日は帰るとするか」
仏生寺は怯えたギャラリーを見渡し、ため息をつくと、踵を返した。
「おっと旦那、お金はおいて行ってもらわなあきまへん」
さすがの強面たちも、あの修羅場を見た後では、仙吉の言葉に耳を疑った。
振り返った仏生寺は仙吉と睨み合う。
一触即発の気配だ。
そのとき、芹沢鴨が降参のポーズをとった。
「いいよ。わかったよ。無粋はナシにしようぜ、先生」
芹沢は懐から一両を取り出して、仙吉に差し出し、その場を収めた。
「芹沢先生、借りができましたな」
仙吉の言葉に芹沢が眼を細めた。
「…名乗った覚えはないぜ」
仙吉はただ笑って、その言葉を受け流した。
「ま、いいや。いこうぜ」
芹沢は旧友に目配せした。
「ちょっと待ってくれ。大切な用事を忘れていた」
仏生寺はそう言って、懐に手を突っ込むと、盆ゴザの上に二通の手紙を投げた。
「岩吉さんに届けもんだ」
偶然のいたずらか、二通の手紙は、転がった手首の掌にひらひらと舞い落ちた。
岩吉と呼ばれた男は、平然とその手紙を拾い上げて、ザッと目を通すと、戸口で草履を履く二人に声をかけた。
「ちょっと、待ち」
手にした書状を仏生寺に振って見せる。
彼は仏生寺に歩み寄ると耳元に囁いた。
「桂はんには、よう言うとき。わしゃ、こんな乗るか反るかの目ぇに賭けるつもりはないから心配せんでええてなあ。そやけどもや。これを書いた男も、目の付けどころは悪うない。道を急ご思たら、まずは駿馬を手に入れるのが先決やからな。けど、馬を御するには手綱を捌く道具が要るちゅうこっちゃ。桂はんに、その馬のハミをとる気があるんやったら、大坂の北新地にある紀の国屋ゆう料亭を訪ねて、わしの名前を出してみいと伝えい」
仏生寺は、岩吉の吐く息を嫌うようにスッと身を引いて、顔をしかめた。
「何を言ってるのかサッパリ分からんが、桂さんが戻って来たらその通り伝えましょ」
「一両じゃ安い買いもんや思うはずや」
謎めいた予言を口にした異相の男、
この岩吉こそ、
明治維新の立役者のひとり、
岩倉具視だった。
岩倉は、前に述べた「廷臣八十八卿列参事件」に加担した強硬な開国反対派の公家である。
いわゆる下級貴族に過ぎなかった岩倉は、この騒ぎで禁裏を追われたが、一躍、攘夷派の雄としてその名を知られることになった。
蟄居中の身ながら、いまや隠然たる影響力を持ち、政界に頭角を現す機会を虎視眈々と狙っている。
都の隅に追いやられたこの貧乏貴族を警戒した会津藩は、仙吉を送りこみ、その動きをつぶさに報告させていたのだった。
琴は、岩吉の唇を注意深く読んでいた。
「…ハミをとる道具って?」
前を見据えたまま、阿部に問いかける。
阿部は唐突な言葉に戸惑った。
「え?」
「ハミをとるとは、何かの隠語か?」
「…さあ?なんだそれ。それより、約束は忘れてねえだろうな。ここまで協力したんだから俺といっしょに…」
「大坂だろ。わかった、行くよ」
「なんだよ。妙にものわかりがいいな。俺はまたてっきり…」
「わたしも大坂に用事が出来たからな」
「よっしゃ。そんじゃ小金も稼いだことだし、飲み屋で作戦会議と行こうぜ」
阿部が調子良く肩においた手を撥ね退け、琴は立ち上がった。
「…悪いが祝杯は一人で挙げてくれ。わたしは寺田屋に宿をとってる。大坂に立つときは、女将に伝言を残してくれればいい」
そう言い捨てると、まだ怯えた様子の三下からひったくるように例の長刀を受け取って出て行った。
「…ホント。愛想のねえヤツだな」




