ある道場主の苦悩 其之壱
文久三年二月下旬といえば、浪士組はまだ結成されてまもないころである。
つまり、彼らはひとところにまとめられると同時に、江戸を追い出された。
それが、今から十四日前のことだ。
近藤と土方が、隊士の失踪に気づいたその夜、京まで残り二日となった武佐宿では、旅の成功を祝して、隊士たちに酒がふるまわれた。
たしかに、ここまでの道中、色々といざこざはあったものの、行き当たりばったりの急造集団にしては、まずまず順調に旅程をこなしてきたと言える。
その「色々ないざこざ」に、ほとんどと言っていいほど巻き込まれた近藤勇にとっては、気の遠くなるほど長い旅路だったが。
翌日の早朝、浪士組一行は、武佐宿を無事出発した。
一路、西へ。
長い旅を続けてきた彼らも、今日の夜には大津宿に達するだろう。
最終目的地はもちろん、血の雨が降るという京の都だ。
行進する隊列の後方、六番組。
目下、近藤の頭痛の種である試衛館の門弟たちは、そんな道場主の気苦労などあずかり知らぬことで、街道沿いに咲きはじめた桜の風情を愉しみながら、下らない世間話などに興じている。
「いやしかし遠いなあ。今どきミカンでも船に乗っけて運ぶというのに、どうして将軍様のために働くわたしたちが徒歩なんですか」
なんとなく、このむさくるしい一団にはふさわしくない、涼やかな相貌の青年がグチをこぼした。
沖田総司 ―オキタソウジ―
のちの新選組一番組長。
若干二十一歳にして、天然理心流試衛館道場の塾頭をつとめる青年である。
幼いころ試衛館に内弟子として入門したため、近藤勇にとっては、家族同然の存在だ。
その女性的ともいえる外見とは裏腹に、天才的な剣技を誇り、
彼の閃光のような三段突きは、一突きにしか見えないと語り草になっていた。
「200人もの隊士を載せられる船を仕立てるには、時間もお金も足りなかったんだろう」
それに応じた男も、やはりどこか隊列から浮いた存在で、決して身なりがいいとは言えないが、妙に凛とした雰囲気を漂わせている。
山南敬介 ―ヤマナミケイスケ―
のちの新選組総長だ。
彼は、近藤勇の才能とその人柄に惹かれ、早くから試衛館の食客となった。
学問にすぐれ、一見、物静かな書生風だが、
剣も北辰一刀流免許皆伝という文武両道の人である。
近藤勇のブレーンとして、この後、土方歳三とともに、その両翼を担うことになる。
「身も蓋もないなあ」
沖田は、山南の味気ない応えに不服そうだ。
芹沢鴨の水戸グループとのケンカが原因で、三番組をつまみ出された試衛館の面々だが、比較的温厚なこの二人は、いわば巻きぞえをくった格好だった。
しかし彼らにとってそれは、災難とばかりも言えなかった。
移動先の六番組には、旧友である中沢良之助という青年がいたからだ。
山南と沖田は、天然理心流の試衛館道場に籍をおく一方で、ともに北辰一刀流の免許皆伝者でもある。
北辰一刀流といえば、江戸でも最も有名な流派だった。
神田お玉ヶ池に、玄武館という大きな道場があって、そこで修業していた頃、中沢と知り合った。
中沢良之助は利根の剣術道場の跡取り息子で、二人と出会った当時は江戸に出て剣術修行の最中だった。
大柄で、いかにも剣客といった風貌だが、気だてのいい人物である。
彼らは、期せずして道中を共にできた幸運を喜びあった。
「俺より若いのに文句の多いやつだな。普段サボってばかりいるからへばるんだよ」
中沢良之助が、不肖の弟子を叱りつけるように、沖田をにらんだ。
「相変わらずですね。そんなんじゃ、中沢さんの道場はお弟子さんも居つかないでしょう?」
「大きなお世話だよ。剣術、槍術、柔術、何をやるにも体力が基本なんだからな」
「わたしは別なんですよ。なにせ天才だから」
沖田はすました顔で、減らず口を叩いた。
「おまえも相変わらずのようだ」
中沢は、口をへの字に曲げて、ため息をついてみせた。
山南敬介は、そんな二人の様子をみて笑いながら、
「そういえば、道場の方はどうなんだい。きみは跡継ぎだろう?京にいるあいだ、お弟子さんの稽古なんかは大丈夫なのか」
と中沢にたずねた。
「大丈夫だって胸を張って言えればいいが、そうでもありません。親父も年だし、稽古は人に任せて、なんとか格好だけは道場を開けてますがね。けど、近藤先生だって事情は同じでしょう?」
「しかし、利根法神流には一子相伝の奥義があるというじゃないか。継承者のきみが、そう長く道場を空けるわけにもいくまい」
それを聞いた沖田が、いたずらっぽい笑顔で茶々をいれた。
「じゃあ、京で中沢さんの身に万が一のことがあれば、奥義の伝承が途絶えてしまうじゃないですか」
「縁起でもないこと言うなよ」
中沢はイヤな顔をして、沖田を横目でにらむと、山南に向きなおった。
「だがまあ、お恥ずかしい話、奥義はとうに途絶えているも同然です。あまりに現実ばなれした技で、私も、父も、おそらくその前の代も、会得には至らなかった。今はわずかに口伝が残るのみです」
沖田は、すこし興味をそそられたようで、
「へえ。教えて下さいよ」
と冗談めかしてたずねてみた。
中沢はニヤリと笑って、沖田の肩をつかんだ。
「いいぜ。おまえになら、本当に教えてやってもいい。だが、奥義は一子相伝の技だ。それを知るということは、宗家を継いでもらわねばならん」
沖田が珍しくやり込められるのを見た山南は、さも愉快げに、もう一方の肩に手をおいた。
「そりゃまずいよ。沖田くんは、近藤さんの天然理心流を継ぐんだろ?」
沖田は、両肩におかれた手を振りほどくと、顔をしかめた。
「やめて下さいよ。わたしは天然理心流も、利根法神流も継ぐ気なんかありませんから。知ってるでしょう?人に教えるのは苦手なんだ」
「いずれにせよ、まずは今回のお努めを無事に果たさんことにはなあ」
中沢はそう言うと、表情を引きしめて京の方角を見やった。
山南はともかく、唯ただ近藤を助けたい一心で同行した沖田には、そうした義務感は希薄だった。
こういう話になると、つい茶化したくなるらしい。
「それに、京で名を上げれば、利根法神流の宣伝にもなる。ね、中沢先生?」
「だから、先生はやめてくれ。私は近藤先生とちがって、一人で参加してるんだから」
中沢が、煩わしげに手を払う仕草をする。
と、山南が、なにか思い出したような表情で、中沢の顔をのぞきこんだ。
「あれ?でもたしか、お弟子さんが一人、一緒じゃなかったかい」
沖田も山南につられたように振り向く。
「そうそう、小石川の伝通院でみなが集まったとき、いたじゃないですか。なんだか線の細い人」




