ショータイム
四月半ば、
とある朝の壬生村。
「あれ、あぐりちゃん。久しぶりやし」
壬生郷士八木源之丞宅の厨房で、この屋敷の主婦雅は、振り返りざま声をはずませた。
「すみません、奥さん。ご不幸があったのも存じ上げてたんですけど、お悔やみも言えんまんま御無沙汰してしもて。ほんまに、ご愁傷様でした」
あぐりと呼ばれた物売りの娘は、神妙に頭を下げた。
雅は軽く手を振った。
「ええんや。見ての通りうちは大所帯やさかい、いつまでもメソメソしてるヒマなんかあれへん」
「…こんな時に大変でしたね」
あぐりは棚屋町にある「八百藤」という八百屋の娘で、少し前まで足繁く壬生へ行商に訪れていたから、八木家の置かれた状況にもある程度通じている。
「気が紛れて、いっそ救われるわ」
雅は、どこか達観したように笑い飛ばした。
あぐりはどういう顔をしていいものか分からず、曖昧に微笑み返すしかない。
彼女の足が壬生村から遠のいていた間、この家に根を下ろした浪士組の規模はますます膨れあがり、彼らの胃袋を満たす八木家の厨房は戦争のような騒ぎだ。
あぐりは忙しく行き来する使用人に混じって、ちょこまか走り回る少女を見て小首をかしげた。
年の頃は、ちょうど亡くなったこの家の末娘と同じくらいだろうか。
「あの子は?」
「浜崎先生とこの子や」
浜崎とは、壬生界隈の住人が掛かりつけの医家である。
浜崎の診療所にも商いに行ったことのあるあぐりは、主人の新三郎とも面識があったから、目を丸くして雪をながめた。
「せんせには、こない小さな娘さんがいやはったんですか」
「ちがうちがう。せんせの養女さんの子や」
少女は手伝いをしているつもりなのか、急須に湯を注ぐ女中に湯呑茶碗を捧げて差し出していた。
「こっちは火も使てるし、刃物もあるさかい、来たらあかんゆうたやろ!」
気の強そうな女中が、すこしきつい口調で叱りつけると、少女は雅に駆け寄ってきて脚にしがみついた。
「お姉ちゃんに怒られたんか?」
雅は笑って、少女の頭に手を置くと、その女中に向き直り、
「お祐ちゃん、えらいご機嫌ナナメやなあ。こないちっちゃな子に当たったらあかんえ」
と軽くたしなめた。
「危ないから、危ない言うただけです!」
雅は、祐の強情さに呆れてため息をつくと、少女の前に膝を折った。
「お雪ちゃんは、おばちゃんが寂しそうにしとるさかい、心配して顔出してくれたんやなあ?」
雪は雅の肩にすがり、着物に顔をうずめたままうなずいた。
女中の祐は、観念したように雪の小さな肩に手をおいて謝った。
「…悪かった。ごめん。お姉ちゃん、ちょっとイライラしてたんや」
雅も雪の顔をのぞきこむようにして、
「ほらな?お姉ちゃんも謝ってはるわ。そやけど、ほんまに此処は危のおす。うちの子らがお庭におるさかい、そと行って一緒に遊んでき」
と言って聞かせると、少女の背中を軽く押した。
雪は小さくうなずくと、祐をにらんでから駆けていった。
「嫌われてしもたわ」
祐が気の抜けたように肩を落とした。
「なんぞあったんかいな?」
雅が尋ねると、祐は庭の方をにらんで声を荒げた。
「あのアバズレの借金取りが、また来とるんです。芹沢が、あの女にお茶もって来たれとか言うさかい、うちもう頭に来て…だいたい、なんでうちが!」
「これ!お侍さまを呼び捨てて、あんた…」
「そやかて…!」
祐は、なおも抗弁しようとしたが、途中で思いとどまると、荒々しく湯呑を盆に載せて台所を出ていった。
雅とあぐりは、顔を見合わせた。
「しばらく来んうちに、色々あったみたいですね」
「ほんまに、あの人らが来てからは嵐のような毎日で…」
雅は苦笑いした。
「長いこと顔見せんで、すみませんでした」
「そんなんは、かまへんのやけど、身体でも壊したん違うか思て心配してたんえ」
「実は、親戚の香具師(今で言う興行師)が、近くで興行を打つことになって、その準備を手伝わされてたんです」
あぐりは言い訳めいた口調で説明した。
もちろん、その話に嘘はなかったが、あぐりの足が遠のいたのには、別の理由があった。
あるとき、浪士組の永倉新八と藤堂平助が「八百藤」の店先を訪ねたことがあった。
彼らを目にしたあぐりの母は、娘を壬生にやることが急に心配になったらしく、
その夜、急に叔父の手伝いなどを言いつけたのだった。
つまるところ、それはあぐりを壬生から遠ざけるための口実に過ぎない。
あぐりもそれには勘づいていたが、あえて母に背く理由も見当たらなかった。
そんなわけで、気が進まないながらも、とにかく叔父がいるという因幡薬師まで行って見たところ、今回は長崎から入って来たという海外の鳥獣を売りに見世物小屋を出すという。
江戸時代、見世物を生業とする興行師たちは、手を変え品を変え人々の気を引く出し物を考案しては、日本各地の寺や神社の境内などで見物料を集めていた。
あぐりの叔父も、南蛮渡来の珍獣で、ひと山当てようと目論んだわけだが、これがまんまと図に当たった。
このショーは大坂の難波新地で大変な話題をさらい、勢いにのった叔父は都への進出を決意をするに至った。
そしてこの頃、一足先に京へ乗り込んで、受け入れの準備を万事整え、大々的に宣伝を打っている最中だった。
しかし、好評を受けて大坂の興行がロングランになったせいで、肝心の珍獣たちは、いっこう京に到着する気配をみせない。
叔父は毎日のように「明日には来る」と言いながら、5日ほどが過ぎた。
その間、あぐりは何度も元の仕事に戻りたいと母に申し出ていた。
なにしろ、叔父の手伝いと言っても、差し当たり何もすることがないのだ。
彼女からすれば、香具師などというヤクザな商売をしている親戚より、曲がりなりにもご公儀のために働く浪士たちの方が、まだマトモに思えたし、なにより彼らは近来稀に見る大口の客だった。
なのに、母は相変わらず、
「あんたは何も分かっとらん」
と繰り返すばかりだった。
ただ、現実問題として、人を雇うほど余裕のない「八百藤」のこと、人手が足りないのは如何んともしがたい。
あぐりが行商で稼いでいた収入が途絶えると、売上は目に見えて落ちた。
しっかり者のあぐりは、このまま手をこまねいて大事な得意先を商売敵に奪われるつもりはなかった。
そしてこの日、とうとう母の制止を振り切って行商に出かけたというわけだ。
激動する時代のさなかでも、市井の人々が抱える日々の悩みにそう変わりはない。
「母の心配性にも困ったもんですわ」
あぐりは苦笑いして言った。
「母親が娘の身を案ずるのは当たり前や」
我が子を失ったばかりの雅の一言には、ズッシリとした重みがあった。
「…そうですね」
あぐりは野菜を載せたザルを台所の上り框に置きながら小さくこたえた。
「どうぞ、またご贔屓に」
あぐりは精一杯愛想のいい笑顔でお辞儀をすると、勝手口から出て行った。




