禁断の果実 其之弐
「なぜあれほどの人が使い走りに甘んじているんでしょう」
佐々木愛次郎は先ほどの立会いを思い出して、不思議そうに山南の顔を見た。
「さあな。そこが私にも解せないね」
山南は素っ気なく答えて、キッと芹沢を睨むと離れの方へ歩き出した。
だが芹沢鴨は、佐伯又三郎が転がるように駆けていくのを眺めて面白そうに笑っている。
「おーお、見ろよ。慌ててやがら!」
菱屋の借金取り梅は、人の悪い芹沢に飽きれて溜息をつくと、山南敬介とその後ろに続く青年を目で追った。
「なんや、えらい男前が居やはりますなあ」
「なんだい、おまえさんはああいう女形みたいのが好みかい?」
束ねた長髪をなびかせる佐々木を親指で指して、芹沢がからかうと、梅もふてぶてしく微笑みかえした。
「うちの好みは、先生を睨みつけたはった方や」
「ちぇ、お行儀のいい山南先生かよ、趣味が悪いぜ」
「うふ、妬いてはんの?」
芹沢は顔をしかめて、梅の甘ったるい声を払い退けた。
「よせよ、バ〜カ」
梅は途端に嫌な顔をした。
「その『馬鹿』いうの、やめよし!ほんま、坂東武者は品が無うてあかんわ!」
梅は、まさしく秋の空のように気分屋だった。
芹沢は彼女との駆け引きを面白がるように、手にした鉄扇の先を突きつけた。
「そっちこそ、うちの兵隊に妙な色目を使うのはやめてもらおう」
「フフ、よろしやないの。どうせアレも土方先生の手下なんやし。そやけど局長はん、ウカウカしてたら、あの仏頂面の副長はんに文字通り母屋まで取られてまいますえ」
梅は、あからさまにサル山のボス争いを嘲笑した。
芹沢は、その予測がつかない反応に魅了され、頭の片隅にある覚めた部分では少し警戒を抱いていた。
どうやら梅は、前川荘司のルートから浪士組の内情を仕入れてきたらしい。
泥沼の愛憎劇を演じているだけあって内輪揉めには鼻が利くようだ。
なかなか油断のならない女だ。
そう認めた芹沢の勘は間違っていなかったと言えるだろう。
八木源之丞も言いかけたとおり、梅は”禁断の果実”だった。
うっかり手をつけた菱屋の主人太兵衛の人生は、今もなお彼女に翻弄され続けている。
奔放な梅は、別宅に留まって愛人の帰りを待つような健気さは持ち合わせていなかった。
正妻などモノともせず、わがもの顔で老舗の呉服屋に出入りしては、家族や店の者が浮き足立つのを楽しんでいる節すら見受けられる。
持て余した菱屋では、とうとう彼女に外向きの仕事を与えて家から遠ざけたのだ。
それがこの債権回収だった。
しかし、結果的に回収係としての梅は、極めて有能だったと言わねばならない。
なにせ、この美貌と口の達者さだ。
「はん!あんな雑魚を何匹釣ったところで、ものの数に入るかよ。俺は大物を一匹釣り上げりゃ、それで充分さ」
「堪忍え。出過ぎたことどしたかいなあ」
芹沢の強がりとも取れる言い分を、梅は涼しい顔で聞き流した。
「そうとばかりも言えませんよ」
いきなり横から口を挟んだのは、何処からかフラリと帰ってきたもう一人の局長、新見錦である。
梅は振り返ると小さく微笑んで、草履を脱ぐ新見に会釈した。
新見は梅と目を合わせようとせず、いつもの平坦な口調で先を続けた。
「…芹沢さん、仏生寺さんのことを言ってるなら、アテにしない方がいいかもしれない。彼はこのところ長州と接近しているようです」
しかし、芹沢はその忠告を聞いても眉ひとつ動かさなかった。
「なんだい、新見、また朝帰りかよ?そいつあ、どっから仕入れた情報だ」
「盛り場の噂ってやつですよ。私もただ飲み歩いてるわけじゃない」
新見は少々酒臭い息でこたえたが、計算高そうなその目は知性の輝きを失っていなかった。
それでも芹沢は取り合わない。
「なるほど。酔っ払いの戯言、いや、酒場でクダを巻いてる負け犬どもの遠吠えってやつかよ」
「そう思いたいが、あの人が長州人のたむろする怪しげな料理屋から出てきたのを見たという者がいるし、大袈裟なところでは、五年前、宮中に押しかけた八十八卿のひとりと会っていたなんて話まである」
新見が言ったのは、俗に廷臣八十八卿列参と呼ばれる事件である。
安政5年(1858)、老中首座、堀田正睦が日米修好通商条約を締結するための勅許(天皇の許し)を求めて上京した。
この条約の締結は、当時多くの知識階級から売国行為とみなされ、事実、紛れもない不平等条約だった。
堀田を迎えた都では、これに反発した88名の公家が座り込みを行い、騒ぎはさらに地下官人(宮中に立ち入りを許されない下級の廷臣)にも波及して、すったもんだの末、勅許は立ち消えとなってしまった。
つまり、条約は天皇の許しを得ないまま、なし崩しに締結されたのである。
公卿らのデモンストレーションは、のちに大老井伊直弼によって糾弾され、処罰されることとなったものの、条約を断固拒絶する孝明天皇の意思を決定づけたとも言われている。
風呂焚きをやっていた百姓の倅と攘夷を標榜する貴族、この取り合わせを聞いて、芹沢はさも痛快そうに手を打った。
「こいつぁ傑作だ!あの仏生寺の旦那も、しばらく顔を見ないうちに、ずいぶんと大物になったもんだな!」
新見は冷ややかな眼差しでその様子をながめ、首を振った。
「…確かに少々尾ひれが付いている感は否めません。さすがに私も八十八卿云々をそのまま真に受けているわけじゃないが、はなし半分にしても、変節を疑うには足りると思いませんか?そもそもあの人が長州と近しいというのは、芹沢さん、あなたから聴いた話だ」
「ああそうさ。あの人には懇意(仲のいい)の長州人が大勢いる。だがそれは長州と神道無念流に深い縁があるってだけの話だ。つまり、仏生寺さんが長州人と会っていたからといって、それを変節と呼ぶには当たらんだろ。…しかしそれでも、あの剣術バカに理屈っぽい長州の水が合うとは到底思えないぜ」
「…ならいいんですが」
新見は見ず知らずの女の前で少し喋り過ぎたと気づき、梅の顔をチラリと見た。
釣られて芹沢も梅の方に視線をやり、あたかもその存在を忘れていたとばかりに目を見開いた。
「…なんだよ。まだいたのかい?見ての通り俺は忙しくてな。借金取りの相手なんかしてる暇はねえんだ」




