継承者たち 其之肆
一方、座敷を出た吉田屋の女中たちは、勝手場で噂話に興じていた。
「あ~緊張した。あのヒョロッとした浪人、仏生寺ゆうて、あっちこっちで暴れとる都の鼻つまみもんらしいで」
「ふうん」
気のない返事をしたもう一人の女中が、中沢琴だった。
「ふうんて…そおゆうたら、あんた、新入りやったなあ。どこの田舎から出てきたんか知らんけど、都の怖さがわかってへんみたいや」
「…髪、解いてくれる?」
琴は忠告を無視するように背を向け、後輩思いの女中にうなじを見せた。
「ええ?!さっき、せっかく結うたげたのに、またザンバラに戻すん?」
「田舎育ちなもんで、この髪型、こめかみの辺りがつっぱるの」
琴の頭の中はすでに「岩倉村の賭場」のことでいっぱいだった。
この都のどこかで、確かになんらかの陰謀が進行中で、長州の過激派はそれにかかわろうとしている。
ようやく「寺田屋の残り火」に少し近づけたと感じたとき、ふと清河八郎の顔が思い出された。
琴は、清河の身を案じているつもりなどなかったが、彼と連絡をとる口実が出来て、内心ホッとしているのを自覚せざるを得なかった。
だが、ここでもうひとつ、重要なことに触れておかなければならない。
桂小五郎が江戸に滞在していたちょうどその頃、ちょっとした話題になった事件があった。
早々に種あかしをすれば、討幕運動のフィクサー、清河八郎が暗殺されたのだ。
中沢琴が、遠く江戸にいる清河に想いを馳せていたとき、すでに彼はこの世の人ではなかったことになる。
文久三年四月十三日。
その日、清河八郎は、友人宅からの帰路、麻布一ノ橋あたりで陣笠を目深にかぶった男から声をかけられた。
「これは。清河先生ではありませんか」
男は陣笠をとって深く頭を垂れた。
清河は相手の正体に気づかぬまま、返礼のため自らも陣笠に手をかけた。
ところが。
彼の利き手が笠に触れた途端、背後から忍び寄ったもう一人の男が清河に斬りつけた。
「こんな子供だましの手に引っかかるとはな。無念だよ」
清河は不敵に笑い、
そして、斃れた。
かつて清河と反目しつつ、ともに浪士組を京まで率いてきた佐々木只三郎、逸見又四郎らが、ついに目的を遂げたのだと言われる。
誤解を恐れずに言えば、正義とは、すなわち権力だ。
つまり、この時点での正義は、佐々木只三郎や、近藤勇ら浪士組にあった。
彼らは悪の謀略を巡らせる勢力を食い止めたのだ。
その悪運を武器に、天をさえひっくり返そうと目論んだ男は、こうして大それた野望に対する正義の鉄槌を下された。
だが、清河が夢見た回天の志は、
高杉晋作、久坂玄瑞ら松下村塾四天王、
かの坂本龍馬、そして西郷隆盛へと受け継がれてゆく。
こののち、日本国の運命は二転三転して、彼らも次々と志半ばに倒れて行くことになるが、
奇しくも生前の清河が語った通り、
人間の強い意思は、ときに天命にも屈しない。
最後まで運命に抗い、彼らがコツコツと穿った巨大な岩をついに打ち砕いた男こそ、
希代の英傑、桂小五郎だった。
彼自身はもちろん、まだそのことを知らない。
「どうだった」
吉田屋の勝手口を出てきた中沢琴に阿部慎蔵が声をかけた。
「岩倉村…。あの浪人は岩倉村の賭場に行くと言っていた」
琴が上の空で答えると、阿部は満面の笑みを浮かべた。
「あんたにゃ、やっぱり俺の助けが必要だな」
「どうして?」
「岩倉村の賭場なら、俺が案内できるからさ。つまり、あんたを助けられるのは俺だけってわけだ。行きたいんだろ?」
琴はいきなり阿部の腰からぶら下がっているユニコーンの根付を引っつかむと、身体ごと引き寄せた。
「なぜそこまでしてわたしに付き合う?」
だが阿部自身にもこの得体のしれない浪人に肩入れする理由は分からなかった。
阿部は間近に迫る美しい顔に、思わず吸い込まれそうになる自分を疑った。
この男に抱いている感情は親近感とは違う何かなのか。
「ど…どっちにせよ、あんたに助太刀した時点で俺はもうここには居られねえ。ま、いたくもねえが。それに、あんたにはサッサと用事を済ませてもらって、大坂まで付き合ってもらわなきゃならん」
阿部は無理に笑ってごまかした。
とにかく、そうしたわけで、中沢琴は阿部慎蔵と連れ立って洛北の賭場へ向かうことになった。
阿部は、またしても琴が見せた奇妙な剣術を思い出してたずねた。
「あんた、烏天狗かなんかか?そういや、まだ名前も聞いてなかったな」
「九郎とでも呼んでくれ」
いくら阿部でも、それが偽名であることは分かる。
「ちぇ!天狗にあやかったつもりかよ(九郎は源義経=牛若丸の仮の名)」
「当節、素性を知られていいことなんか何もないからな。たしか、あんたは阿部とかいったな」
「じゃあ俺のことは十郎とでも呼んでくれよ!」
阿部は、ふてくされてこたえた。
それでも、他人に気を許さない琴がほとんど初対面の相手を名前で呼ぶのは珍しいことだった。




