アベシンゾウの冒険 其之弐
「遠巻きに囲め!奴が次に飛んだら、降りてきたところを狙うんだ!」
杉山は、さすがに知恵者だった。
琴のスピードに対応するのが難しいと悟るや、素早く決断を下す。
が、その時すでに琴は地を這うように突進していた。
木刀で、目の前にいる杉山と配下三人の向こう脛を薙ぎ払う。
藩士たちはうめき声を上げてうずくまった。
「私が仏生寺じゃなかったことに感謝するんだな…。本物なら、あなた方は全員半分に切り分けられてたはずだ」
琴は捨て台詞を吐いて身をひるがえした。
「くそっ!」
杉山松助は脚の痛みを堪えてなんとか立ち上がると、その背中に刀を振りかぶった。
しかし、彼がそれを振り下ろすことはなかった。
後ろから頸を突かれて気を失ったのだ。
「卑怯な真似はみっともねえぞ。この青瓢箪ども!」
突っ伏して倒れた杉山に啖呵を切ったのは、竹光を手にした阿部慎蔵だった。
阿部は真ん中からザックリと割れた竹光の先をむしると、無造作に投げ捨てた。
「ナケナシの金で買った甲斐があったぜ。こんなもんでも役に立つことがあるんだからな」
琴は鋭い目で阿部を睨み返した。
「…助けなど無用だ」
阿部はささくれだった剣先を四苦八苦して鞘に収めると、足早に立ち去る琴を追いかけた。
「おいおい、そりゃねえだろ?ちっとは再会を喜べよ!こっちだって災難続きで、一度は落ちるとこまで落ちたんだ。それでもこうやって義理を果たしたんだぜ?」
「あなたの身の上話など、興味ないね」
琴の態度はあくまでよそよそしかった。
おそらく、この話にお付き合い頂いている方の大半は同意見だと思われるので、ここでは阿部慎蔵が京で中沢琴と別れて以降の足取りを、彼自身の口上を交えたダイジェストで紹介するに留めたい。
と言うか、阿部は聞かれもしないうちから捲し立てた。
「だが、底辺から世の中を見上げてみるのも悪いことばかりじゃなかったぜ?視点を変えれば、今まで見えなかったもんが見えてくることもある」
そもそも、その物言いが世間を舐めていることに気づいていない。
「あのあと、食い詰めた俺は、ひょんなことから長州藩士と組んで、一博奕打つハメになってな。ま、結論から言えば、計画は失敗に終わったんだが、ただ、奴らと過ごしたほんの数日間に、思わぬことを見聞きしたぜ?奴らは酒を酌み交わしながら、まるで帝か大樹公気取りで、この国の行く末についてあれこれ議論を戦わせるんだ。まったく、不遜きわまる奴らさ」
阿部は、勝海舟と岡田以蔵の襲撃に加わった時のことを思い返した。
「…近ごろは誰も彼も天下国家を語りたがる。もう飽き飽きだよ」
琴はウンザリした様子で毒づいた。
「ああ、俺もそう思ってたさ。しかし、妙なもんでな。ずっとそれを聞いてるうちに胸クソの悪くなるような奴らの理屈にも、一理あるような気がしてきたんだ」
「フン、おまえも青臭い攘夷思想とやらに感化された口か」
琴の憎まれ口には、清河八郎の理想に対する屈折した感情が潜んでいる。
だが、八つ当たりの標的にされた阿部慎蔵は、その眼差しを雄々しく跳ね返した。
「俺は元から尊皇攘夷には大賛成だぜ!だだ、君恩を蔑ろにする連中に、ムカッ腹が立ってただけだ!」
「そうか、せいぜいがんばってくれ」
琴はもう沢山だと首を振り、話を切り上げようとした。
「いいか?!聴け!俺はな、この三月というもの、地べたを這いずるように都を徘徊して、そして分かったんだ。みな、黒船以来のドタバタ騒動をどこか他人事のように考えてる。いずれ、時が経てばこの騒ぎも終わる、誰かがなんとかしてくれるってな!呆れたことに、役人連中さえがそうだ!おまけに、この騒ぎに乗じて一儲けしようと企む不逞浪士が幅を利かせ、さらに悪いことには、官吏や公家の中にも、おんなじようなことを考えてる奴らが五万といやがる。で、俺は遅ればせながらある結論に達した。つまり、このままじゃいかんとな!」
阿部が長広舌を振るうあいだ、琴はただ黙って聴いていた。
彼の言う無関心な民衆、それは彼女自身だった。
琴は、目の前にいる単純を絵に描いたような男でさえ、徳川の治世に疑問を感じ始めていることに改めて驚かされた。
阿部は政局に通じているとはとても言えないし、時勢を語るだけの言葉も持ちあわせていなかったが、その危惧が清河の抱いていたものと同種だということは、琴にも理解できた。
だが、ここから阿部の行動は怪しげな方向に迷走しはじめる。
「でな、都で活動してる佐々木六角源氏太夫って男の組織に転がりこんだ。こいつが宇多源氏の嫡流っていう由緒正しき攘夷志士さ。ところが実物に会ってみると、なんつーか、こう、インチキを絵に描いたようなおっさんでよ」
「…その胡散臭い名前で、おおよそ察しがつきそうなもんだが」
琴は飽きれて言った。
「ま…まあな。けど、仮にも宇多天皇の末裔って触れ込みだぜ?やんごとなき人の中には、そういう名前もあるのかなあって思うじゃんか?もっとも、息子が龍王丸とかいう、これまたご大層な名前でよ。さすがに、あのドラ息子を若君って呼べとか言われた日にゃ、あ、こいつぁただの賊の親玉だぞって俺も気づいたわけよ」
「幸いだ。過ちを改むるに如くはなし、と言うからな」
琴の皮肉に、阿部は手を払って応えた。
「チェ、勘弁しろよ!で、さっさと縁を切っちまおうと思ってたところへ、ちょうどいい口実が転がり込んできたのさ」
口角から泡を飛ばす阿部を見ながら、琴はひとつ深呼吸を入れた。
もはや、この下らない身の上話に最後まで付き合うしかないと覚悟を決めたようだ。
「六角源氏太夫は、ある頃から長州と手を組むことを考えはじめた。野郎、自分がインチキだって自覚してやがったから、権威の後ろ盾が欲しかったんだな。で、俺はさりげなく長州藩士と面識があると持ちかけてやったんだ。もちろん、モメたことしかねえが、面識があるのは嘘じゃねえからな」
阿部はおかしそうに種を明かした。
「奴は簡単に引っかかったよ。それからいくらも経たないある日、桂小五郎んとこへ使いを頼まれたんだ」
「で、その話はいつ終わるんだ?」
気が付けば、二人は鴨川に突き当たっていた。
阿部の冒険談は、なおも続く。
「まあまあ、もう少しだから。だがいきなり長州屋敷に乗り込むわけにもいかねえ。それで思いついたのが、」
琴はいま来た道を振り返り、続きを引き取った。
「…あの料理屋、吉田屋か」
阿部はあてもなく京の街をうろついていた頃の経験則にモノを言わせて、大勢の長州藩士たちが出入りする、吉田屋に目を付けたのだ。
もちろん、佐々木六角源氏太夫との約束を律儀に果たすつもりがあったわけではなかった。
「六角太夫はそれでも馬鹿にできない兵力を持っていたから、ここで長州に恩を売って、桂小五郎って男のツラを拝んでやるのも悪くないと思ったのさ。追い返されるかも知れんがダメもとだ。奴が本当に天下国家を語るに相応しい男か見極めてやろうってな」
「で?」
「それが…桂が馴染みの芸妓を捕まえたとこまでは良かったんだが…あいにく奴は江戸に行って、いまは留守なんだと」
「おおかた、そんなことだと思ったよ」




