浅葱色の羽織 其之弐
「実はこれを受け取ってもらお思いまして」
弥右衛門が差し出した手のひらには、数枚の銅銭が載っていた。
斎藤はその意味を問うように、銅銭から弥右衛門の顔に視線をあげた。
「その様子では、ご存じあらへんようどすな。せやけど、残念ながら、私にも何のことやらさっぱりどす」
弥右衛門は途方に暮れた様子で打ち明けた。
謎めいたやりとりに、近藤や他の隊士たちも次第に興味を引かれている。
弥右衛門は、困り顔で説明を始めた。
「さっき、浪士組の方がうちとこの店にお越しやして、
『羽織をくれ』言わはるんどす。
『それやったら、ちょうど今、この羽織をお届けにあがるとこでっさかい、ええとこに来はった』
ゆうて、この羽織見せたら、なんや三人とも顔色変えはって、
『これを斎藤先生に返しといてくれ』と言いおいて、慌てて出て行ってしもたんどすわ」
どうやら、この金は斎藤が家木らに渡したものらしい。
弥右衛門の手のひらにのせられた銅銭を見つめながら、佐伯がつぶやいた。
「…あいつら、もう帰ってこんなあ」
「どういうことだ」
近藤が険しい顔で斎藤を見た。
「…俺の失態です」
斎藤が島原大門での経緯を掻い摘んで説明すると、永倉新八が顔色を変えて近藤に耳打ちした。
「ヤツだ…仏生寺弥助だよ。まちがいねえ」
近藤は、その断定的な口ぶりに引っかかりを覚えた。
「どうしてそう思う」
永倉が渋々白状する。
「…実はな、つい最近、禁裏のそばで奴を見かけた。足元も覚束ないまま、斎藤と五分以上に渡りあえる奴なんて、他にいるわけがねえ」
居酒屋での藤堂平助の大立ち回りを聞かされた近藤は憮然とした。
「なるほど、当代最強の剣士、か。斎藤たちと会ったのが本当にその仏生寺弥助なら、恐るべしと言ったところだな。だが今回の失態は、相手が誰であれ、みっともいい話じゃねえぞ」
斎藤が、無表情のまま頭を下げる。
「…面目次第もない」
「お前もそうだが、問題は四人がかりでたった一人の浪人に手玉にとられた腰抜けどもだ!」
近藤は佐伯を怒鳴りつけた。
すると意外なことに藤堂平助が彼らをかばった。
「初めての実戦なんだ。その言い方はちょっと酷じゃないスか、近藤さん」
佐伯はともかく、新入りの隊士たちを不憫に思ったのだろう。
「勘違いするな、平助、おまえにも非はある。そのとき、奴らにとどめを刺していれば、こんなことにならずに済んだ」
飛び火した近藤の叱責に、藤堂は思わず反発した。
「悪かったよ。けど、奴らは酒に酔って暴れてただけだ。斬り合いは大袈裟だし、そもそも奴らを捕縛するのは奉行所の仕事だろ?」
藤堂の言うとおり、浪士組は都の治安組織には違いないが、その結成の経緯を考えれば、彼らが取り締まるべきはいわゆる政治犯である。
もっとも、政治犯が首からプラカードを下げて歩いているわけではないから、二人の言い分は境界線が曖昧なところである。
だが、近藤は断言した。
「相手が攘夷派の息がかかった人間なら、理由は問わん。力ずくで引っ立ててくるか、その場で刀のサビにしろ」
「バカな!俺たちは人斬りじゃねえ!人を斬るとすれば、それは自分か、誰かの身を守るときだ。斬られたくねえから、こっちも刀を抜くんじゃねえか!」
「女子供みてえなことを。街で奴らに出会えば道はひとつ、『一人一殺』だ。相手に抜く気があろうがなかろうが、そんなことは関係ねえ…斬れ」
集団戦では必ずひとりが一人を仕留める。
以降、この言葉は新選組(浪士組)の代名詞になった。
祐がまた井上に尋ねた。
「結局、どーゆーことなん?」
だが、それに答えたのは土方歳三だった。
「この隊服の意味を知って、臆病風に吹かれたんだろ」
「隊服の意味って?」
「この色は…浅葱色はな、切腹のときに着ける裃の色さ。つまり、死に装束だ」
恥をかかされた佐伯が、腹いせのように余計な口をはさんだ。
「…そりゃあ、あんな目ぇに会うた後で、こんなもん見せられた日にゃあ、ビビりもするで」
藤堂は、この物騒な話を打ち切ろうとした。
「だいたいこんな話、不謹慎だよ。八木家はまだ喪に服している最中なんだぜ?」
だが近藤は、なおも険しい表情で隊士たちを睨め回した。
「よく見ておけ。この羽織の色に気後れする者は今すぐ去ればいい」
その突き放した言い様に、土方の眉間に皺が刻まれる。
沖田総司が不安げな顔で土方に耳打ちした。
「近藤さん…最近ちょっと変わった?」
「…まだ人を斬った熱に浮かされてやがるのさ」
土方は、キセルを燻らす近藤を横目に、苦々しく呟いた。
山南敬介から近藤の複雑な心情を聞かされていた土方は、これまであえてその厳しいやり方にも意見しなかったが、ひとこと言っておかずにはいられなくなった。
「ああ。敵に尻込みするなというのはいい。だが、やみくもに人を斬れなんてのはあんたの言い草じゃねえな」
近藤はフンと鼻を鳴らして顔をそむけた。
「お前に俺の何がわかる?隊士に厳しくしろと言ったのは、お前や山南さんだ!」
土方はツカツカ歩み寄ると、声を押し殺して、近藤の耳元に囁いた。
「…山南さんは、こうも言ったはずだ。そういう命令は、俺たちが下す。あんたは今後必要以上に出しゃばらないでもらおう。殿内の時のようなマネはもうするな」
とにかく、近藤をこの町に充満する狂気からしばらく遠ざける必要があると土方は考えていた。
「俺は局長だ。お前につべこべ指図される謂れはねえ。腑抜けたことを言ってる奴に都は護れん」
勇ましい言葉とは裏腹に、その声は沈んだままだ。
土方は確信した。
近藤は、故郷に帰れないことを覚悟している。




