島原大門 其之壱
数日後、八木家も表面上は日常を取り戻していた。
離れの縁側でうたた寝をする原田左之助が、それを象徴している。
いや、うたた寝というのは正確ではない。
昨日の夜からずっとそこで横になっているのだ。
彼はこの日、めずらしく仕事を休んだ。
屋敷と隣接する壬生寺からは、藤堂平助の掛け声が響いてくる。
「前進!前進だ!走れ!休むな!」
原田はうるさそうに寝返りを打った。
ようやく頭数のそろってきた浪士組は、兵法調練を取り入れることになった。
といっても浪士組自体、まだ小隊ほどの規模に過ぎず、新見錦や藤堂平助の拙い兵法知識では、真似事の域を出ていない。
それでもとにかく隊の体裁が整ったのは、大きな一歩と言えた。
だが、原田にはどうも気乗りがしない。
「原田はん!またそんなとこで寝て!」
すっかり八木家の女中が板についた祐が、ちょうどそこにあった布団叩きで原田の尻を叩いた。
「痛って!何しやがんだ!?」
原田が飛び起きて睨むと、祐は腕を組んでその目を見返した。
「アホらし。そもそも常在戦場とか言い出したんは、原田はんやで!」
「常在戦場」とは「武士たる者、いついかなる時も戦える心がまえを持て」という戒めを意味する。
原田はそれを聞いて、言い返す言葉を飲み込んだ。
「ム~…てめえの言うこともモットモだ。こうなった以上、逃げも隠れもしねえ!ひと思いにやってくんな!」
おかしなところで潔さを見せて、胡坐をかいたままヌッと首を差し出した。
この本気とも冗談ともつかない態度に、祐はさらにイライラを募らせた。
「ええから早よ向こう行ってメシ食え言うとんのや!」
「だってさあ、なんだか退屈でさあ」
祐は、呆れて腕を組んだ。
「なんや知らんけど、お寺ではみんな忙しゅう走り回っとるで?暇なわけないやろ」
「徒党を組んで見えない相手と戦争ゴッコなんざ、アホらしくて…俺はなあ、生身の人間とサシでやりてえんだよ!」
たしかに、ここ最近の壬生界隈は、例の葬儀をのぞけば平穏そのものだ。
原田は祐に追い立てられ、なにやらクサクサした様子で部屋に入っていった。
長く落ち込んでいた反動がきたのか、本音では暴れたくてしょうがないらしい。
一方、筆頭局長の芹沢鴨は、未だ精神的なダメージを引きずっていて、部屋から出ようともしなかった。
芹沢が大人しいと、これといったトピックもない。
ゆえに、”世はこともなし“という訳である。
「ほんまに、あの二人、めんどくさいゆうたら…」
祐がブツブツ愚痴りながら玄関先に水を撒いていると、幹部の佐伯又三郎がゾロゾロと隊士を引き連れて門を出て行った。
「芹沢の腰巾着がマジメにお勤めて、いよいよやることなくなったんやろか?」
祐はなぜか詰まらなさそうに、桶の底に残った水を地面にぶちまけた。
さて、腰巾着の佐伯又三郎としては、芹沢の欝状態はまことに由々しき事態だった。
しかしこればかりは時間が解決するのを待つほかない。
そんなわけで、彼も当面は正業に勤しむことにした…のかと思いきや、そうではなく、実は、土方歳三が搔き集めた新入隊士を水戸派にとり込もうと画策していたのである。
芹沢鴨に取り入ることにかけては、とにかく熱心な男だった。
この日も、ごく最近入った家木将監、亀井造酒之助、細川内匠といった顔ぶれに声をかけ、市中を見廻るなどと言いだしたのには裏があった。
おそらく、そこで彼らに何某かの“心づけ“を渡して買収しようという腹である。
もちろん、近藤派の副長土方歳三は、それに気づかぬほど間抜けではない。
見え透いた工作を静観していたのは、エサに釣られるような隊士を、この際篩に掛けてしまうためだ。
ただし、土方の口から「用がない」と告げられた場合、それは、黙って見過ごしてやるという意味ではなかったが。
とにかくこの日、佐伯又三郎は、珍しく巡察に出かけたのだった。
「…で?なんで、あんたまで付いてくるねん?」
坊城通りを南に半町(約55M)ばかり行ったところで、佐伯は後ろを歩く斎藤一を振り返って、迷惑そうに眉をしかめた。
「ただ同じ方角に用があるだけだ」
斎藤はいつもの鉄面皮で、その返事もどこまで真に受けていいものやら分からない。
「さしづめ、あの仏頂面の副長はんに、見張りを仰せつかったゆうとこやろ?」
佐伯は、いつもの訳知り顔で皮肉った。
浪士組では同期入隊の二人も、今はそれぞれ芹沢派、近藤派に分かれている。
「奴らにシッポ振るんも、程々にしとかな深みにハマるで?阿比留はんかて、“足るを知る”(むやみに現状への不満を持たない)男やったら、あない気の毒な目に会わずに済んだかもしれん」
佐伯は、何やら脅迫めいた助言をして、斎藤を煙に巻いた。
それは、阿比留が執着していた祐という娘のことを言ったのか、それとも何か別の秘密をほのめかしたのか、斎藤にも分からなかった。
しかし、この男がそう言う以上、そこには何某か意味があることを斎藤は知っている。
その刺すような視線を、佐伯は軽く受け流した。
「ハハ、『お前こそ芹沢の提灯持ちやないか』ちゅう目つきやな?」
「…いいや。お前が見た目通りの人間だとは思っていない。腹にある一物は何だろうと勘ぐってるだけさ」
佐伯はつき従う隊士たちの眼を気にしながら斎藤に歩調を合わせ、耳打ちした。
「あはは、おだててもあかん。俺は額面通り、身のほどを知る提灯持ちやがな」
どうやら、平穏な日常も長続きしそうにはなかった。




