醒めない夢 其之弐
永倉が阿比留の顔をのぞき込んだ。
「いまは家里次郎の話をしてんだぜ?あんた、大丈夫か?」
「ああ、ああ、あの若造か。あの若造なら知ってる。あいつなら、なおのこと。ふふ、はは…」
嘯く阿比留自身も、沖田や家里らとそう年は違わない。
しかし、病で憔悴しきったその顔は、ひとまわりも老けて見えた。
「あのですね!」
沖田はようやく、みなの注意を引くことに成功した。
「みなさん、普通にメシ食ってますけど、この味噌汁…具が入ってなくない?」
祐の眉がピクリと動き、この日の禁忌に触れた沖田を睨みつけた。
「…文句なら永倉はんに言うてや」
すでに事情を知る一同は、祐の剣幕に息を飲んだ。
「…な、なんです?わたし、今なんか変なこと言いました?」
ようやくおかしな空気を感じ取った沖田が、不安そうに周囲を見渡したそのとき、阿比留が上ずった声で小さな悲鳴をあげた。
「ヒッ…み、み、見ろよ、味噌汁に女がおぼれてる」
小刻みに震える手で、包み込むように持った椀を凝視している。
「…えっ?…ええええーっっ!?」
藤堂と島田魁が阿比留の手にした椀に飛びついて、中を食い入るように見つめた。
「なに?…どこ?どこに?」
「な?ちゃんとネギは入っとるやろ?」
祐が、冷ややかな口調で念を押した。
絶妙のタイミングで反撃に出た祐に、みなが気を取られたその瞬間、
ガシャンという膳をひっくり返す音が響いた。
「きゃ…!」
祐が口元を押さえて腰を浮かす。
さっきまで喋っていたはずの阿比留鋭三郎が昏倒していた。
「錯乱しているようだ。今朝から様子がおかしかった」
斎藤一がはじめて口をひらいた。
どうやら彼は、阿比留の奇行にずっと目を光らせていたらしい。
一同が呆気にとられるなか、島田魁が動いた。
「医者に連れて行こう。柳太郎、手を貸せ。おまえ、浜崎先生の診療所に行ったことあるんだろう?」
末席でモソモソと飯を食べていた馬詰柳太郎が顔をあげる。
「はあ…」
「あ、それならわたしが。いやだって、柳太郎はまだ足を引きずっているから無理でしょう?」
めずらしいことに沖田が名乗りをあげた。
先日、柳太郎が石井秩に見せた妙な素振りを思い出して、不安になったらしい。
沖田と島田は阿比留を運ぶために二人がかりで戸板に乗せたが、痩せさらばえたその身体は驚くほど軽かった。
浜崎診療所の門はすでに閉ざされていて、島田の呼ばわる声に閂を外したのは、またしても助手の石井秩だった。
「沖田さん?」
秩は一瞬驚いた顔を見せたが、職業柄、夜半に人が尋ねてくることには慣れているようで、戸板に寝かされている阿比留を見るまでもなく急患と察したようだ。
「先生をお呼びしてきます」
秩は診察室の扉をひらいて沖田たちを通すと、すぐ奥に走っていった。
やがて四十前後の束髪(後ろでひっ詰めた髪型)の男が十徳(儒者などが羽織る上着の一種)の紐を結びながらあわただしく姿を現した。
診療所の主、浜崎新三郎である。
うしろには、これも医術の心得があるという妻の浜崎徳を引き連れている。
「さっきまで普通に飯を食っていたと思ったら、いきなりぶっ倒れまして」
島田が簡単に事情を説明した。
すでに阿比留を何度か診察していた浜崎も、困惑したように首をひねった。
「阿比留様ですか…以前からなにかの中毒を疑っておったのですが、見たことのない症状で。いずれにせよ、元から身体が弱っていたから、これは不味いな」
そのとき、阿比留の身体が突然ビクンと跳ね上がった。
「阿比留様!?阿比留様!?」
手足をバタつかせる阿比留を必死で押さえつけながら、浜崎は声をかけ続けたが、耳には入っていないようだ。
なにか必死に叫んでいるが、ほとんど聞き取れない。
「おふたりは、部屋を出てください!」
沖田と島田は、浜崎徳に診察室の外へ追いやられた。
どこかで物悲しげな野良犬の遠吠えが聞こえる。
「なんだか、阿比留さんの悪夢にでも入り込んだような気分だ」
沖田は空にぼんやりと浮かぶ上弦の月を見上げながら呟いた。
二人が無言のまま半刻も過ごしたころ、ようやく秩が姿をみせた。
「阿比留の具合はどうです?」
島田が立ち上がって尋ねると、秩は疲れた笑顔を見せた。
「ええ、先生の処方で、すこし落ち着いたみたいです」
「そう、よかった」
沖田は胸を撫でおろした。
しかし秩は、一度診察室を振り返ってから沖田たちに視線を戻すと、力なく首を振った。
「原因が分からないのでそうとばかりも言えません。今日のところはうちでお預りしますから、沖田さんたちはひとまずお帰りください」
「では、明日の朝にでもまた様子を見に来ます。よろしくお願いします」
沖田と島田はうなずきあって、浜崎診療所を辞去した。
ところが。
屯所に帰った沖田たちが腰を落ちつけて一息つく間もなく、八木家の門をたたく音が聞こえた。
沖田が門まで出てみると、そこには頬をかすかに上気させた石井秩が立っている。
ここまで走ってきたのだろう。
「お秩さん」
その姿を見た途端、沖田は何が起こったかを悟った。
「阿比留様が、たったいま息を引き取られました」
他の隊士たちはすでに床に就いている。
沖田と島田は、そのまま秩と連れ立って診療所へ向かった。
通りには、すでにひんやりとした空気が沈殿している。
三人は押し黙ったまま、いま来た道を引き返した。
布団に横たわる阿比留鋭三郎の面には、白い布が被せられていた。
「…お二人が出られてからすぐ、また目を覚まされたのですが」
道中、ずっと無言だった秩がようやく口を開いた。
遺体の傍らに座っていた治医の浜崎新三郎が一礼して、その後を引き取った。
「譫言でしょうが、なにやら辻褄の合わないことを喚き散らしまして、また急に静かになったかと思うと、そのまま眠るように…」
「喚くって、いったい何をわめいていたんです?」
沖田は白い布に目を落として、静かに尋ねた。
だが、浜崎医師も、どう説明すればいいのか戸惑うばかりだ。
「いや…ほとんど意味のない言葉の羅列でしたが、そういえば何度も『あの女!』と叫んでいました」
「あの女?阿比留がそう言ったんですか?」
「ええ」
「誰のことだろう」
「さあねえ…」
阿比留とは、必要なこと以外ほとんど話したことのない浜崎が、その問いに答えられるはずもなかった。
「お祐ちゃんのことかな?」
沖田が誰にともなく言うと、島田が納得いかないという風に首をかしげた。
「“あの女”って言葉とお祐ちゃんが、どうにも結びつかないなあ」
殺風景な診察室に静寂が訪れた。
阿比留鋭三郎が死んだ後も、
彼の悪夢だけがまだ続いているかのようだ。
「あの、阿比留さんにご親族の方は?」
秩の声だけが、妙に現実的な重みをもって響いた。




