目撃者 其之参
結局その日、阿部は道場に帰らなかった。
とても、そんな気分にはなれなかったのである。
その足で八軒家まで引き返し、船宿に泊まる客めあての屋台に入ると、なけなしの金がなくなるまで飲んだ。
屋台のオヤジにからむだけからんで、そこを出たのが、暁の八ツ(2:00am)ころである。
ぐでんぐでんに酔っ払った阿部は、自分がどこをどう歩いているのか、分からない。
彼の目には、立ち並ぶ商家はどれも同じに見えた。
そのうち河内屋という書店の前でとうとう力尽き、ちょうどいいところにあった天水桶に寄りかかって寝てしまった。
半刻もたったころ、そこへ、こんな時刻だというのに駕篭が到着した。
駕籠かき(駕籠をかつぐ人)たちからは、天水桶のかげになって阿部の姿は見えていない。
「着きましたで」
と、なかの客に声をかけると、白髪のまじった品の良い顔立ちの男が降りてきた。
男は池内大学といって、先に名前の出た中川宮の侍読(おつきの家庭教師のようなもの)を勤めたこともある、名の通った儒学者である。
「攘夷論」などという物騒なタイトルの本を上梓して、例の大獄のおりには、井伊大老から目をつけられた一人だったが、彼の場合は先回りして自首を願い出たおかげで、軽い処罰ですまされた。
そのせいで一部からひんしゅくを買ってはいるが、知識人階級の名士であることに変わりない。
その日も大坂に立ち寄った土佐藩主、山内容堂から宴に招かれ、時勢を論じあった帰りだった。
その書店は、池内が大阪で身を寄せている知り合いの家だったのである。
客をおろした駕籠が、かどを曲がって見えなくなると、建物の影に身をひそめていた数人の男がそっと姿を現した。
「こんばんは」
「うわっ」
腰に手をやって伸びをしていた池内大学は、背後からいきなり声をかけられて、思わず声をあげた。
「驚かせて申し訳ない。池内先生ですろうか?」
池内は、相手を確かめるように、暗がりに目を凝らした。
「そうだが。あなた方は?」
「わしらは、土佐藩のもんです。先生に危急の用件でお知らせに上がりました。実は、ウチの若いもんが、先生のお命をつけ狙いゆうがです」
若い出っ歯の男が答えた。
池内は、相手の素性が分かって少し安心したのか、落ち着きと威厳を取り戻した。
「なぜです?なぜ、私が尊藩の方から狙われねばならん。たった今も、容堂公と、昨今の政局についてお話をしてきたばかりですよ」
もちろん、池内にもだいたいのところは察しがついている。
大獄騒ぎ以来、さんざん理不尽な言いがかりに晒されてきたので、そうした手合いのあしらいには慣れたものだ。
しかし、命の危険を知らせにきたという相手の反応は、いつもと少し様子が違っていた。
男は連れを振り返って、
「ん?なんでじゃったかいのう?」
と惚けてみせた。
「おい、きみ。ふざけているのか」
「滅相もない。命を狙うとる本人が言うとるがやき、ウソやないです」
池内がなにか言いかけたとき、白刃が一閃した。
ところでこの時、目と鼻の先で酔いつぶれている阿部の存在に、まだ誰も気づいていなかった。
しかし、阿部の方はというと、池内の声で目を覚ましていたのである。
彼はこのやりとりを、天水桶の陰から、息を殺して眺めていた。
斬られた池内という男の首筋から、勢いよく血が噴き出すのが見えた。
暗殺者は驚くほど落ち着いた様子で、池内が膝をつき、前のめりに倒れていくのを見つめている。
「ええクソ!」
暗殺者は、小さく毒づいた。
返り血が着衣に付いたのを気にしているらしい。
やがて、刀を逆手に持ち換えると、横たわる身体の背中へ、無造作に突き入れた。
「おおそうじゃ、池内先生、天誅ぜ。…あ~あ、もう死んじゅう」
月明かりに照らされたその顔には、うっすらと笑みが浮かんでいる。
「いかんちゃ、また順番を間違えてもうたわえ」
男は、池内のマゲをつかんで、手馴れた様子で首をはねた。
そして生首を持ち上げると、顔を寄せて耳打ちした。
「このこと、武市さんには内緒にしとうせ」
仲間の男たちが、クスクスと声をひそめて笑った。
阿部は首を引っ込めて、目まぐるしく頭を回転させた。
一刻も早くこの場所を離れたほうがいい。
しかし幸いなことに、男たちの足音は阿部が隠れているのと反対の方へ遠ざかって行く。
阿部はその足音が聞こえなくなるのを待ち、さらにじゅうぶんに間をおいて、そろそろと立ち上がった。
暗殺者たちが去って行った方角を振り返ると、
そこには首のない死体と、
生首を片手にぶら下げて立つ男の姿があった。
前歯の突き出たその大きな口の両端は不気味に吊り上がっている。
阿部は呆然と立ちすくんだ。
暗殺者とまともに眼が合って、いっきに身体から酒が抜けていくのがわかる。
しかし、今、目の前にいるのが、例の「人斬り以蔵」だとは夢にも思わなかった。
気がつくと、阿部は全速力で駆け出していた。
「なんなんだよ!今日は厄日かあ?!」




