ネズミの出る部屋 其之弐
そのころ、本町橋の東詰めにある西町奉行所では、転がるように駆け込んできた平野屋の丁稚がまくしたてていた。
「お、お、お奉行はん!お奉行はん!大変や!えらいこっちゃ!!」
応対した役人は、ただごとならぬ様子に腰を浮かせる。
「おいおい、落ちつかんかい!何があったんや?」
「あんた、お奉行はんでっか?」
奴頭と呼ばれる髪に結った、まだ少年と言ってもいい年頃の丁稚は、世間を知らない者だけが口にできる無礼さを発揮した。
「アホ!わしゃ同心じゃ。お奉行が、いちいちお前みたいな町人の相手までせえへん!」
「そういうもんでっか。いや、今、流行りの押し借りゆうヤツがうちに来てまんね!」
「なんやと?お前、どこの者や?」
「へえ。平野屋の奉公人だす」
「平野屋て、十兵衛横町んとこの平野屋かい?」
大坂の人々は、町を代表する両替商平野屋五兵衛と天王寺屋五兵衛が向かい合って建つ今橋付近の八百屋通りを「十兵衛横町」と呼んでいた。
五兵衛+五兵衛=十兵衛という、大坂人らしい洒落だ。
「浪士組ゆうのが、金貸せちゅうてゴネとりまんのや」
「はあん…」
同心は、拍子抜けしたように、ペタリと座り込んだ。
丁稚は、なぜ急に同心が落胆したのか訳が分からない。
「いやいや、なんとか言うて下さいよ!」
「…そいつら、乱暴狼藉でも働きよったんかい?」
同心は床机に頬杖をついて訊ねた。
「…どうやろ?わしが出てきた時はまだやったかな。そやけど、そろそろあのムカつく番頭あたりは、イテこまされとる頃ちゃうかな思います」
「あんなあ、おまえとこは両替商やろ?」
「へえ」
「手形割ったり、金貸したりすんのが商売やろが?」
「へえ」
「そこへ、金貸せゆうて人が来たら、そら客とちゃうんかい」
間の抜けた丁稚は、一瞬かたまって首をかしげた。
「…あれ?そお言うたらそやけど、旦さんが奉行所へ行け言わはったさかい」
話はいっこうに要領を得ない。
ただ同心としても金融界の大物、平野屋五兵衛がそういうからには何か理由があってのことだろうと予想はついたが、なにせ平野屋は両替商である。
当然、貸付けも通常の業務に含まれていたから、浪士組が手もださないうちから、一概に押し借りとは断定できない。
シビアな値交渉、強硬な談判は、この町の至るところで行われているのだ。
ここは商人の町、大坂なのだから。
しかも、返すあてのない素浪人ならともかく、相手は曲がりなりにも会津藩お預りの浪士組である。
同じ治安を守る番人としては、縄張りを荒らされていい気分はしなかったものの、この場合取り締まりようがないというのが正直なところだった。
「まあ、そのムカつく番頭がどつかれんのを待ってから、出直してくるんやな」
と丁稚を追い返してしまった。
丁稚が駆け戻ってきて奉行所でのいきさつを伝えると、平野屋五兵衛はついに腹をくくった。
大坂の商人はよくガメツいなどと揶揄されるが、抵抗しても無駄だと分かれば見切りをつけるのも早い。
金であれ時間であれ、とにかく無駄に浪費することをもっとも嫌うのが大坂商人である。
「しょうおまへんなあ」
五兵衛は、しれっとした顔で芹沢たちの前に姿を現すと、紙切れ同然の証文と百両をあっけなく交換してしまった。
「ま、ざっとこんなもんだ」
芹沢鴨は、店を出るなりそう言って大鉄扇を広げた。
おどろいたことに、芹沢たちは百両もの大金を簡単にせしめてみせたのだ。
手馴れた手際は、この種のゆすりが二度目や三度目でないことを窺わせるには充分だった。
しかし、土方歳三を驚かせたのは、まったく別のことだった。
あの近藤勇が、彼らのやり方に異を唱えなかったばかりでなく、一切口をさし挟もうとしなかったのだ。
目的を完遂させるためには私情を交えない土方も、本心では近藤の義侠心のようなものに惹かれていたから、この旧友の豹変ぶりには複雑な気持ちにさせられた。
ただ近藤の思惑がどうあれ、この事件にならなかった事件は、のちのち尾を引くことになる。
大坂町奉行は江戸と同じく月番制で、東町と西町が交代で公務を行っていたが、たまたまこの四月は西町奉行が月番だったことが浪士組に禍した。
事の顛末が、大坂法曹界の大物、西町奉行組与力内山彦次郎の耳に入ったのである。
内山彦次郎は、かの有名な大塩平八郎が大坂町奉行の与力だった時代、ライバル関係にあったとされる人物だ。
後、歴史に名高い「大塩平八郎の乱」が起きたときには、かつての同僚を相手に捕り方として大いに活躍し、その名を挙げた。
もっとも、町の人々は圧倒的に大塩を支持していたから、悪名を馳せたと言い換えた方がいいかもしれない。
しかし、縄張り意識と虚栄心の塊のような内山に目をつけられたのは、浪士組にとってあまり好ましいことではなかった。
「壬生浪士組」の名は、大坂の治安を乱す集団(その通りだったが)として、この男の胸に刻まれたのである。
これは、のちに起こる事件の伏線となる。




