ネズミの出る部屋 其之壱
近藤たちが淀川をくだる三十石舟に揺られていたちょうどその頃。
山南敬介は、寺田屋の宿帳に名前を(もちろん偽名で)書きこもうとしていた。
都合のいいことに、うるさ型の女将は留守で、たまたま通りかかった若い女中が、
「そこにお名前を書いといておくれやす」
とぞんざいな対応をしてくれたおかげで、難なく敵地に潜入することが出来そうだ。
山南にはこのあとの計画と呼べるほどのものはなかったが、部屋をとってしまえば、いずれは宿へ帰ってくる中沢琴と会えるはずだ。
ところが、そこへ女将の登勢が血相を変えて駆け込んできた。
「お客さん、申し訳おへんけど今日は満室どすのや」
登勢は息を切らしながら山南の手から乱暴に筆を取り上げた。
「しかし、この娘から部屋は空いていると聞いたが」
山南は、床に雑巾がけをしている女中を指差して登勢を振り返る。
「すんまへん。まだ奉公にきて日が浅いさかい間違えましたんやろ。よう叱っときますさかい、堪忍え」
「そやけど、女将はん…!」
女中がガラガラの二階を見上げて抗議しようとするのを、登勢はさえぎった。
「うちが満室や、ゆうたら満室なんどす」
山南も負けじと食い下がる。
「この宿帳を見るかぎり、空きがないとは思えないが」
「ここんとこ、部屋にネズミが出るようになりましてなあ。ほんまに、油断も隙もあれへん。今日は大掃除せなあかんさかい、使える部屋が少ないんどす」
登勢は山南を睨みすえて、たっぷり皮肉を込めた言い訳を披露した。
「ずいぶんな言われようじゃないか」
山南はこれでいて結構短気なところがあったから、ふだんであれば女将を睨みつけてもおかしくなかったが、この時ばかりはうっすらと微笑みさえ浮かべた。
この女将が、中沢琴を必死で守ろうとしてくれているのが伝わったからだ。
「分かったよ。それでは出直そう。“お富”さんにもそう伝えてくれ」
山南は宿帳に記されていた、ただ一人の女性の名を見逃していなかった。
なにやら満足げに出て行くその姿を見ながら、登勢は腕を組んで大きく息をついた。
「なんやあれ、気味悪い。ほんまに、半次郎はんも脇が甘いわ。薩摩やからゆうて、好き勝手出入りさせんのも考えもんや」
芹沢鴨、近藤勇らの大坂行きに話を戻そう。
大坂は八軒家についた一行は、まっすぐ今橋方面へ向かった。
めざすは両替商の平野屋である。
じつはこの件には前段があった。
平野屋は大坂でも有数の両替商で、浪士組はこれまで散々人をやって借金を申し入れていた。
しかし、そのたびに居留守を使われ、ノラリクラリとかわされてきたのだ。
業を煮やした芹沢は、とうとう近藤・新見を引き連れて、みずから大坂に乗り込む決心をしたという次第だ。
ところが。
「ほんまに間ぁが悪いちゅうか、申しわけありまへんけど、主人の五兵衛は今日も留守でして」
番頭はこの日も主人はいないとシラをきった。
「へえ、そうかい。んじゃまあ、急ぐ旅でもなし、帰ってくるまでここで待たせてもらうとするか」
芹沢は怒りを押し殺した声で言うと、帳場の真ん前にどっかり腰をおろした。
「まさか、壬生浪士組の筆頭局長にここまでさせておいて、やっぱり金は貸せませんなんて言わねえよなあ」
手下の野口健司がスゴむと、すかさず新見錦がなだめにかかる。
「やめないか、野口。使用人が主の留守中に大金を動かせないのは道理だ。逆にいえば、主人が帰ってくれば貸すということさ。なあ、番頭さん」
例の仏生寺弥助がつかった手段である。
「どうも長くなりそうだ。お前らも座らせてもらいな」
番頭の苦りきった顔をみて、芹沢鴨はヤクザの親分よろしく近藤たちに声をかけた。
永倉新八がなにか意見しようとするのを近藤が押しとどめる。
芹沢、新見、近藤、土方、永倉、沖田、野口、七人がずらりと並んで店先の上がり框に腰かけると、客の相手をするすき間さえないような状態になってしまった。
奥に隠れて様子をうかがっていた主人の平野屋五兵衛は、番頭が芹沢たちの扱いに手を焼いているのを見て考え込んだ。
これは一筋縄でいく相手ではないと判断した彼は、とうとう裏口から奉公人を出して奉行所へ走らせた。
平野屋のある今橋から内本町の西町奉行所までは、走れば(今でいう)10分ほどの距離だ。
とはいえ、辛いのは平野屋ばかりでもない。
近藤たちは眉をひそめる客の目に晒され、「たちの悪い不逞浪士」として気恥ずかしさに耐えねばならなかった。
四半刻もしないうち、店の者が音を上げるより先に永倉がボヤきはじめた。
「こ~んな姿、親兄弟にゃあ見せらんねえな」
土方歳三がすばやく肩を寄せて、ジロリと永倉を睨めあげる。
「黙ってろ。食っていくためにゃ、そうカッコいいことばかりも言ってられねえだろ」
「…京に出てからこっち、おれたちにカッコいい見せ場なんてあったかよ?さあっぱり思い出せねえがな…あイテ!」
土方は口の減らない永倉の足を踏みつけて黙らせた。




