都忘れの花 其之参
八木源之丞一家の朝食風景は、いつもと変わらなかった。
つまり、並べられた食膳の一角を、原田左之助が当然のような顔で占めている。(彼なりに精一杯配慮して出した結論が、末席に座るという選択だった)
そして、嫡男、八木秀二郎は今日もまた、いや、今日はことさらに仏頂面を隠そうともしなかった。
ただ、不機嫌の理由は、原田ではなかった。
庭のど真ん中に着々と建築の進む道場は、ひょっとして自分の失言の産物なのではないかという疑念に苛まれているのだ。
その陰鬱な顔をみて、面白そうなことなら何でも首を突っ込みたがる原田左之助が放っておくわけがなかった。
原因をあれこれ勝手に憶測したあげく、さっそく的外れな世話を焼き始めた。
「いいかヒデ。女の悩みなんてのは、言ってみりゃ腹切りと同じさ。いざとなりゃ、作法なんか知らなくても、なんとかなっちまうもんだ。…まぁそれでも、結果は時の運だがな」
味噌汁の椀を片手に、朝食の話題としては最も相応しくない例えで、人生訓らしきものを説いたが、秀二郎はキツネにつままれたような顔をしている。
「…原田はん。例えの意味がさっぱりわからん」
「なんで?おめえが朝からシケた面してっから、ちょっとした助言てやつをよう」
「なんで女の話やと思わはったんです?」
「アレ?ちがうの?ん~…おかしいな」
原田左之助から恋愛の悩みなどという似合わない発想がでたのは、昨日の夜、山南敬介が恋人と上手くいっていないという話を井上源三郎から聞かされたからである。
しかし、本人にその自覚はない。
そこへ母屋に顔を出すのはめずらしい沖田総司がひょっこり現れた。
原田がうっかり余計なことを口走らないうちに釘を刺してくれと山南に言い含められてきたのである。
「原田さん、みんなもう出かけるよ。局長さんたちを見送りしなくていいの?」
原田は朝食のひとときを邪魔されて、露骨に嫌な顔をした。
「日帰りで大坂に行くくらいで、いちいちそんなことやってられっかよ。帰りがけの駄賃に不逞浪士の首ひとつもぶら下げてきてから言いやがれ。バーカ」
八木夫妻と秀二郎がそろって渋い顔をした。
沖田は申し訳なさそうに一家を見渡して頭を下げた。
「まーたそんな生臭い話ばっか!食事中にすみませんね。この人、バカなんで」
「うるせえ!『常在戦場』つってなあ、武士たる者……あ、そうだ!いいこと思いついたぞ、ちょっと待ってろ」
原田からもっともらしい四字熟語が出たことに一同は驚いているあいだに、当の本人は何を思ったか、いきなり四つん這いになって、となりの部屋の襖の陰に隠れてしまった。
「ヒデ、ヒデ、こっちきてみろ」
「なんですか、もう!」
秀二郎も、こうした原田の奇行には、ほとほとウンザリしていた。
「いいから!いいから、こっち!こっち来いって!」
原田は雅や子供たちから身を隠すように襖から顔だけを出して忙しなく手招きした。
「百聞は一見に如かず。いいもんを見せてやる」
秀二郎が渋々従うと、原田は袂をグイと開いて、さも自慢げに腹に残る傷跡を見せた。
「な?な?スゲエだろ?切腹の跡!どうよ?」
ヘソの上あたりに真一文字の刀傷が走っている。
「…どうて…原田はん、まだ生きたはるやないですか」
「だからな?な?なんでこうなったか聞きたいだろ?むかし俺が伊予で中間をやってた頃にさ…」
沖田がもう聞き飽きたという風にため息をついた。
「あ~あ、始まったよ」
原田左之助は、まだ伊予松山にいた頃、「切腹の作法も知らぬくせに」という上司の挑発にのって、売り言葉に買い言葉で本当に腹を切ってしまった。
あきれた短気さだが、今もこうして元気に生きていることからも分かる通り、なんとか一命は取り止めている。
以来、この話が自慢の種らしい。
彼の二つ名「死に損ねの左之助」はこの逸話からきている。
「すっかり元気になっちゃったんで、医者も驚いてたよ」
沖田が、とくとくと語る原田の腕を掴んだ。
「すみませんね。このはなし長くなるんで、連れていきますね」
「医者は腹より先に頭の方を診るべきでしたな…」
ボソリと呟いた秀二郎の皮肉は、道場から聞こえてくる金槌の音にかき消された。
「え?なんて?」
原田に聴き返されたところで、秀二郎の怒りは沸点に達した。
「あーもう!どうでもええけど、朝っぱらからカンカンカンカンうるさいねん!」
原田は目を丸くして、そのときまるで初めて気がついたように、耳をすませた。
庭では、朝から大工たちが道場の棟上の作業をしている。
棟上というのは、建物の骨組みを作る最終工程である。
「…ああ、あの音?けど、あれはお前の思いつきだって源さんから聞いたぞ」
事情を知らない原田は、悪気もなく秘密をバラしてしまった。
山南が心配したのは、まさにこの不用意さだった。
「い、井上はんが?あ、あのひと、何を言うてますんや!」
秀二郎はみっともないほど慌てふためいて、腰を浮かせた。
「アハハ、源さん、口が軽いからなあ」
沖田は訳もわからないまま、無責任に面白がっている。
「てことは、やっぱお前が言いだしっぺなんだろ?」
秀二郎にとってこの二人の組み合わせは最悪だった。
事情を聞いた八木源之丞と雅が、すごい目で秀二郎を睨んでいる。
秀二郎は両方の手のひらを乱暴に振り、ムキになって否定した。
「ちがうちがう!べ、別にあれは、私の思いつきやないし、源さんにもそんなことしゃべっとらん!だいたい、女の悩みと庭の道場になんの関りがあるんですか!」
秀二郎は支離滅裂な言い訳をしながら、食膳の周りを行ったり来たりした。
沖田総司もようやく何か不味いことを口にしたと気づいたようで、
「…あ~、朝のあいだはもうちょっと静かにやるよう、大工の棟梁に言ってきますよ」
と、適当に請け合うと、これ以上係わり合いになっていては遅刻するとばかりに部屋を出ていった。
沖田が庭にまわると、ちょうど井上源三郎が腕組みをして道場建設の進捗状況を見守っていた。
「朝飯どきくらい、静かにしてくれってさ」
出し抜けに八木家の意向を伝えると、井上は振り返って微笑んだ。
「よう、総司」
「呑気な顔して。母屋じゃ源さんのせいでひと騒動ですよ」
「なにが?」
ひとのいい井上の笑顔を見るうち、沖田は怒る気も失せて、
「もういいです。じゃあ行ってきますね」
と出発を告げた。
とたんに井上は憂鬱な声になった。
「まあひとつ、よろしくたのむよ」
門の方へと踏み出しかけた沖田は、ふと思案げに引き返してきて、井上の肩越しに顔をうかがった。
「…それなんですが、どうもいまひとつ分からないんですよ。わたしはついて行くだけだから別にいいんですけど、なんでそんなにお金がないんですか?会津から結構もらったはずでしょ?」
「これだよ、これこれ」
井上はあごで道場の骨組みを指した。
「道場?」
「そ。これで、ほとんど消えた」
つまり、そうしたわけで浪士組はまた現金が必要になったのだった。
「ま、揃いの羽織を作るようなわけにはいきませんね」
「なぁんでもかんでも、カネ、カネ、だ。まあったく、やんなっちゃうねえ。あのう、ほら、むかし日野の彦五郎さんとこへ出稽古に行ってた頃、やんちゃな大工の見習いがいたろ?」
井上は、大工の名前を思い出そうとこめかみの辺りを押さえた。
話があらぬ方向に逸れて、沖田は眉根をよせた。
「…金之助のこと?」
「そう、それだ。金之助。その金之助も連れてくりゃよかったんだ」
「金之助の身にもなりなよ。なんで京くんだりまで大工仕事に駆り出されなきゃなんないんですか」
沖田は首を振りながら門を出て行った。
しかしおかしなもので、くだんの金之助は翌年、新選組に入隊することになる。
天然理心流五番目の男、金之助こそ、のちの大石鍬二郎、通称“人斬り鍬次郎”なのだが、それはさらにのちの話である。




