行き止まりの道 其之壱
例えばこれが、日本という国の、京という町以外の何処かであれば、事情は違ったかもしれない。
江戸、尾張、水戸、
あるいは薩摩、萩、会津、土佐。
またあるいは、同じ畿内の大坂、大和。
その何れであろうが、朝、橋の上に人の死体が転がっていれば、人々はひどく驚いたはずだ。
ところが、この京という町に限っては、みなが騒ぐことはあっても驚いたりはしなかった。
壬生狂言が終わった日の翌朝、土方歳三の予言どおり、殿内義雄は四条大橋の上で動かぬ遺体となって発見された。
人々は眉をひそめ、今度は誰が誰に殺られたのだろうと囁きあったものだが、昼食のころには、ほとんどの人間が全然別のことを話題にしていた。
その朝、前日に祇園でハメを外しすぎた永倉新八は、日も高くなってから起き出してきて八木家の台所へのっそりと顔を出した。
「おばさん、朝ごはんまだありますか?」
隊士たちが使った大量の食器を片付けていた八木雅は、永倉から漂う酒の匂いに顔をしかめた。
「もうお皿も直して(片付けて)まいましたんえ!いま何時やと思たはるんどす!」
「いやその、残りもんでも何でもいいんですがねえ」
永倉は落ち武者のようなボサボサの髪を掻きむしりながら、もの欲しそうな目で訴えた。
「壬生菜の浅漬けと、お浸しと、お味噌汁しかありまへんけど、よろしおすか?」
雅は水屋から漬物を出してながら、剣のある声でたずねた。
「いやあ、壬生菜かあ…あれはちょっと…」
「なんでもええ言うて、なあんで好き嫌いしはるんどす!ほな、もうちょっと早う起きなはれ!」
隊士たちに対してだんだん遠慮のなくなってきた雅は、たいそうな剣幕で怒鳴りつけたが、永倉はまるきりうわの空だった。
なぜかというと、ちょうど台所に来ていた野菜売りの娘が可愛かったからである。
かごから取り出したカブやゴボウやエンドウ豆を上がり框の上にあるザルに移しかえるその姿を、ニヤニヤと眺めている。
格子柄に黒襟の紬を着た、すらりとした美少女で、いかにも永倉好みの可憐な佇まいだ。
もっとも食べ物とはちがい、若い女性に関して永倉にはほとんど好き嫌いというものはなかったが。
「ちょっと永倉はん!聞いてますのか!?」
「え?あ、うん。じゃ、これでいいや」
「これでええて、なんちゅう言い草や!」
雅が永倉を叱りつけるのを見て、娘はクスリと笑った。
雅は巾着から銅銭を出しながら、ほとほと困ったという仕草で、娘に微笑んでみせた。
「おかしやろ?近所からはケダモンか鬼みたいに怖がられとんのに、子供みたいなんばっかりや」
娘は手ずから代金を受けとって、またひとしきり鈴の鳴るような声で笑うと、ふと不思議そうに外を振り返った。
「えらい今日は皆さん騒がしいようですなあ。なんやあったんですか?」
問われた雅は、外聞をはばかるように言葉を濁した。
「…ええ。まあ、ちょっとなあ…」
娘の方も、あまり踏み込んで聞かれたくない話だと察したようで、雅にお釣りを渡すと愛想よくお辞儀をして、
「ほな、おおきに」
と勝手口から出て行った。
「ご苦労さん!」
雅がその背中に声をかけて振り返ると、だらしなくニヤけた永倉の顔が目の前にあった。
「うわ!」
「『ほなおおきに』だって。おばさん、あれだれ?」
「こ、衣棚町にある八百屋さんとこの娘さんどすわ。あそこはご主人が病気がちで、お店の方は奥さんがほとんど切り盛りしたはるさかい、ああして娘のあぐりちゃんが行商に出たはるんどす。よう働くええ子どすえ?」
永倉は、あぐりが出ていった勝手口を名残り惜しそうに見つめている。
「ふうん、あぐりちゃんかあ。たしかに、ええ娘どすなあ。ぐふ、ぐふふふふふふふ」
原田左之助が、台所の入口にかかる暖簾から顔を出したのは、そのときだった。
「奥さん、お客さん!」
その原田の後ろには、恰幅のいい中年の男が立っていた。
雅は、その男の顔を見るなり、うちとけた様子で歩み寄った。
「あれ、中村はん。おいでやす」
男は中村小藤太といって、八木家と同じく浪士組を自宅に受け入れた壬生村の郷士だった。
当初、11軒もあった浪士の分宿先も、本隊が江戸へ帰還したことで、そのほとんどが平穏な日常をとり戻しつつあった。
ただこの中村小藤太と八木源之丞だけは例外で、ちょうど部屋を貸していた浪士が京に残ると強情を張ったせいで、貧乏くじを引く羽目になった。
「おはようさん」
中村小藤太は、台所をのぞき込むようにして挨拶を済ませると、不審な目で、上がり框に腰掛け不気味な笑みを浮かべる永倉を眺めた。
雅は引きつった笑顔で、中村の視界から永倉を隠すように立ちはだかった。
「あの、こ、これは違いますのや。この人、さっき不埒な浪人どもと戦うて、こう、ひどいことお顔を殴られはってなあ。勝つには勝ちましたんどすけど、顔がもと戻らんようなってもうて…」
ところが、雅の苦しい言い訳を真に受けたのは、原田左之助だった。
「マジかよ初耳だぞ!そんな武勇伝はきいてね…グフ!」
ニヤニヤして永倉の顔をのぞき込もうとした脇腹に、雅が肘鉄を入れた。
「あんたは、ややこしなるから黙っときなはれ!」
つづいて永倉の耳をつねり、雅は押し殺した声で脅しつけた。
「永倉はん…分かったはるやろなあ!ほんま、これ以上ご近所の評判落とすんは堪忍え?そうでのうても、うちは化け物屋敷みたいに思われとんのやさかい」
「ん?なにがなにが?」
永倉は鼻の下をのばして振り返った。
「…なにがて、その鼻の下、なんとかしよし!!」
なんとなく身の置きどころのなくなった中村小藤太が、咳払いをした。
「あ、あ、そやそや、中村はん!放ったらかしにしてしもて!ちょっとだけ待っとおくれやす。あんた!あんた!」
雅はアタフタして、主人の源之丞を呼んだ。
ところが中村は、手を振って雅をとめた。
「あ、あ、奥さん。違いますのや、近藤せんせは居やはりますか?」
「え?近藤先生どすか?」
雅は意外な顔で振り返った。
「うちとこに泊まったはった殿内先生の件で来ましたんや」
中村が事情を説明すると、とたんに雅は眉をひそめた。
「ほんまに、えらいことで…」
そして、こんなところへ客を連れてきた原田を睨みつけた。
さっきの肘鉄が効いたのか、原田左之助は震え上がった。
「あ、近藤さ…近藤にご用なのでありますか?それじゃあ、俺、いや、わたくしめが、呼んできてやり…差し上げましょう」
めずらしく殊勝なことを言うと、いそいそ離れのほうに歩いていく。
殿内義雄の名前が、微妙にその場の空気を変えていた。
永倉もそれを感じ取ったのか、箸を口に運びながら、神妙な面持ちで尋ねる。
「そういや、さっきの娘が言ってた騒ぎってのは、そのことかい?」
雅は、まるで誰が聞き耳を立てているとも限らないというように声をひそめた。
「それが、殿内せんせ、昨日の晩四条大橋のとこで斬られはったらしゅうて…」
永倉は、飯盛り茶碗を置き、雅と中村に向き直った。
「…死んだのか?」
「はっきりしたことは分からしまへんけど、今朝早うに奉行所の方がみえて、近藤はんらと長いこと話し込んだはったさかい、多分…」
永倉は顔をしかめ、何か考えるように、人差し指で額をおさえた。
「ふうん…この壬生菜ってえの?これ、古くなってない?」
雅は、また目を吊り上げた。
「そういう味なんや!」
「わ、わかった、分かりました」
「ほんまに!近藤先生は、気苦労が多うて、今朝も食欲がない言うてはったくらいやのに…」
「はあん。悪かったねえ、無神経でさあ?」
中村が、二人のやりとりに、おずおずと割って入った。
「うちの方にも奉行所から与力の草間様ゆう方がわざわざ見えて、色々聞かれましたんやけど、詳しゅうは教えてもらえへんかったんどす」
京の町奉行も、さすがに会津藩旗下の人間が斬られたとあって、本心はともかく、身を入れて捜査をしている姿勢だけは見せておこうというつもりらしい。
原田左之助がいつの間にか勝手口から戻ってきて、口をはさんだ。
「草間烈五郎とかいう奴だろ?そいつなら、うちにも来たぜ。近藤さんに根掘り葉掘り聞いてたのはそいつだ。イヤな野郎でさあ」
「で?奉行所の人間は、何があったと言ってる?」
永倉がことの顛末をたずねると、つづいて姿を現した土方歳三が、後を引き継いだ。
「さあね。くわしいことを聞く前に近藤さんを連れて行っちまったからな」
「…つまり、殿内は死んだのか?」
永倉がイライラした様子で核心を突くと、土方は目を閉じ、残念そうに首を横に振った。
「たしかに、イケ好かないところのある人だったが、同志の一人だからな。まだ京に着いたばかりだってのに、惜しいことしたもんだ」
永倉の眼光は、土方の表情に現れるわずかな変化も見逃すまいと鋭さを増した。
「…ああ、そうだな。で?相手は誰なんだ。それくらいは聴いたんだろ?」
「さあね?長州の仕業じゃねえかって話だが…」
土方は中村小藤太に向き直り、答えををはぐらかした。
「ま、そんなわけで近藤は不在です。ご用件は、私が伺いましょう」




