血吸いバッタが鳴くとき 其之弐
一方、山南敬介が店を出ると、すぐ傍らの物陰から土方の声がかかった。
「山南さん、こっちだ」
土方が殿内を追う気などないのを察していた山南は、そちらへ歩みよりながら顔をしかめる。
「打ち合わせもなしに困るな。 こういう小芝居は苦手だ」
「あんたにしちゃ上出来だったぜ。しかし、実際、もうくだらねえ建前に振り回されんのはたくさんだ」
山南は腕組みをしてうなずいた。
「それは同感だが…あの殿内がいるかぎり、われわれは首に鈴をつけられた猫も同然だからな」
「鈴なんざ、引きちぎってやりゃいい」
土方は殿内が去っていった方角を見ながらうそぶいた。
山南は釣られて、その暗闇に目をやりながら、
「粕谷さんが追ったのか?」
とたずねた。
「たぶんな。総司をつけてある」
土方が沖田の名を出したことで、山南は少なからず動揺した。
「少し軽率だったんじゃないのか?あの男が鵜殿様から言い含められたという話は嘘じゃあるまい。彼を斬ればご公儀に盾突くことになりかねないんだぞ」
土方はそっぽを向き、小バカにしたように鼻をならした。
「ふん、俺たちが斬るとだれが言った?浪士組は、長州の連中にとっちゃあ、目障りな存在だ。殿内が一人で夜道を歩いているときに奴らに斬られたって、べつに不自然じゃないさ」
「…たいした策略家だな、君は」
山南はなかば飽きれたように小さなため息をもらした。
土方は悪びれる様子もなく、冷たく笑う。
「そう褒めるなよ」
しかし実のところ、山南は同志を斬ることにまだ抵抗があった。
「あの様子では、黙っていても芹沢さんが放ってはおかんだろう。あえて我々が手を出すこともなかったと思うが」
土方は目を閉じ、首を横に振った。
「認めたくはないが、今のところ隊は芹沢がかき集めてくる金でもってるようなもんだ。ここらで一つくらい貸しを作っておきたいんだよ。それとも、こんな卑劣な手段は、山南先生のお気に召しませんかね?」
山南は薄々気づいていた自らの偽善性を土方に突かれて、一瞬、言葉につまった。
「…まあな。もう少し穏便に済ませる方法がないか、一晩考えてさせてほしいところだが」
「心配すんな。明日の朝には、殿内はもう息をしてねえ」
土方は酷薄な笑みをうかべたまま、そう付け加えた。
茶屋を出た殿内が八坂神社の前で四条大橋のほうへ折れると、沖田は一気に差を詰めるべく小走りに駆けた。
ところが。
ちょうど曲がり角にある祇園の会所を通り過ぎようとしたとき、突然声をかけられた。
「こんな時間に、どこへ行く」
ギクリとして立ち止まり、声のしたほうを見ると、キセルをくわえた近藤勇が立っている。
沖田は少しホッとして、
「ちょっとね。酔い覚ましに、外をぶらついてるんですよ」
とごまかした。
「付き合おう」
フラリと近づいてくる近藤に、沖田は嫌な顔をした。
「やめてよ、気持ち悪い。近藤さんこそ、なにやってんのさ」
「見りゃわかるだろ。タバコを吸ってる」
近藤は手にしたキセルを軽く持ち上げてみせた。
沖田が軽くにらみつけると、近藤はその大きな口元を緩めた。
「…歳の考えつきそうなことくらい、だいたい想像はつく」
「へえ。そうなの?」
沖田は、殿内の後ろ姿が小さくなって行くのを気にしながら、いつもの調子でとぼけて見せた。
「殿内は俺が斬る」
近藤は言った。
「わたしの腕じゃ信用できないと?」
沖田は鋭い目でにらみ返したが、近藤は鼻にもかけない。
「人を斬ったこともないくせに」
「近藤さんはあるんですか」
「ああ、ある。殺したことはないが」
「じゃ、たいして変わんない。それに…これは人に誇れるような仕事じゃないですよ」
沖田の表情が険しくなるのをみて、近藤は悲しげにうなずいた。
「そうだな。だが、これは通過儀礼ってやつさ。この粛清という名の暗殺が避けられない道なら、最初に手を汚すのは俺だ。おまえや歳じゃない」
その目に宿る強い光を見て、沖田はやっと分かった。
粕谷に見た面影が誰であったかを。
若いころの粕谷新五郎は、きっとこんな風だったにちがいない。
沖田は四条大橋の方へと再び歩き出し、近藤を振り返った。
「ダメだよ、そんな力んでちゃ。やり損なう」
近藤は急ぎ足で沖田に肩をならべ、厳しい口調でやり返した。
「ふん。子供は帰って寝ろ」
「不安なくせに。付き合いますよ。それにね、ここだけの話、土方さんの作戦は一人じゃ頭数が足りないんだ」
二人の背中は、祇園の闇の中に溶けていった。
さて、ここで舞台は変わる。
四条大橋のたもとに「村田煙管店」という看板があがる小さなタバコ屋があった。
奇遇にも今日の昼間、殿内が立ち寄った店だ。
この店の看板娘、村田里には夜ごと忍び逢う恋人がいた。
中村半次郎、通称“人斬り半次郎”である。
二人はこの夜も里が寝起きするタバコ屋の二階で褥を重ねていた。
里は、もう何度目かの絶頂をむかえて、情事のあとの気だるさに浸るうち、まどろみに沈んでしまった。
中村はひとり、心地よさげに夜風が髪をなぶるのを感じながら、窓のそばに腰掛けていた。
ジージーという虫の声が聞こえている。
そのとき。
「貴様ら!」
窓の外、四条大橋のほうで叫び声がして、バタバタと橋のうえを走る足音が聴こえた。
中村は声のしたほうに目をこらしたが、月明かりは淡い。
ぼんやりと三つの人影のようなものが見えるのみだ。
やがて、
「ぎゃっ」という小さな断末魔がきこえると、
すぐにまた静寂がもどってきた。
再び、聴こえるのは、虫の鳴き声だけ。
「まだ起きたはったん?」
今の声で目が覚めたのか、
寝乱れた髪を気にしながら里が聞いた。
「虫の声がうるさくてね」
中村半次郎は窓の外を見たまま応えた。
里はジージーという鳴き声に耳をすませた。
「うち、いつの間にか寝てしもたみたい。なんの声?」
「クビキリギス、俗に血吸いバッタというやつだ」
「怖い名前」
里は灯明皿に火をつけながら、くすくすと笑った。
「口の周りが赤いだけだよ…つまり、ハッタリ屋さ。知ってる?奴らは女だけで子供を産めるんだ。男の方は憐れなもんだと思わないか」
「半次郎はんは物知りやなあ」
「田舎育ちだから、知ってるのはそういう役に立たないことばかりでね」
中村はまた布団に戻って、里の傍らに座った。
「ふふ、ほんでも半次郎はんがバッタに生まれんでよかった」
里はそう言ってまた、中村に覆いかぶさった。
「まったく…」
「濡れごとにかけては天才やもん」
「それ、いったい誰と比べてるんだ」
中村はおどけて顔をしかめた。
「いじわる」
中村はすねてみせる里を引きよせ、甘い口づけを交わした。
初夏の風に乗って、草の匂いとクビキリギスの悲しげな声が運ばれてくる。
長い口づけのあと、
里は中村の胸を押しのけ、眉をひそめた。
「…今、別のこと考えたはった」
「ごめん。ある男のことを考えてたんだ」
中村は苦笑いをして、里の顔に垂れたおくれ毛を指で梳いた。
里がその手首を優しくにぎる。
「いややし。男のことなんか、気もち悪い」
「仲間に斬られて死んだ、哀れな男さ」
じっと天井を見つめながら、中村は抑揚のない声でつぶやいた。
里は布団に手をつき、半身をおこした。
「お友達?お気の毒やなあ」
「友達ってわけじゃないがね。けど本当に気の毒なのは仲間を斬った方の奴さ」
「なんで?そんなやつ最低や」
「そうだな。本人もそう思ったらしい。耐えきれなくなって気が触れてしまったよ」
中村はそう言ったきり、また窓の外の虫の声に耳をすませた。
里はそれ以上聞かず、ただ愛人の肩にそっと頭を預けてささやいた。
「…また夏が来るんやねえ」
中村は里の髪をもう一度撫で、ただ寂しげに笑った。




