血吸いバッタが鳴くとき 其之壱
そのときのお座敷の雰囲気を例えるなら、まさに興覚めという表現が相応しかった。
芸妓は優雅な京舞を披露していたが、(永倉と原田以外の)浪士たちはせっかくの座興もそっちのけで、議論はさらに激しさを増している。
「こんな時節にいちいちお上の指示を仰いで動くなど、あなたは本気で言ってるのですか」
あきれる山南に、殿内はまるでご神託でも告げるように言い放った。
「無論、当面は私の指示に従って動いてもらう。そもそも家茂公をお守りするといって、具体的に何をどうするつもりだ?今のお前達に何ができる。黙ってわたしの言うことを聞いておけばいいんだ」
あまりの高圧的な態度に、芹沢、近藤両派の浪士たちは怒りで言葉を失った。
「は、やなこった」
声を発したのは、太夫にしなだれかかった芹沢鴨だ。
水戸派の面々は、こういうときの芹沢が一番剣呑なのをよく知っている。
しかし、泥酔した殿内は、そんなことなどお構いなしだった。
「なんだと?!」
額に青筋をたて、語気を荒げる。
「ヤーダって言ったんだよ。何をどうするかは俺が決める。そうさ、決めるのは帝でも大樹公でも会津中将でも、ましてやあんたでもねえ。この俺だ」
殿内の僚友、家里次郎も気色ばんだ。
「ふざけてるのか?」
「ふざける?俺がなんか面白いこと言ったか?浪士組は俺が動かす。それが、引いては帝の御為になるんだよ。なあ?」
芹沢は薄笑いをうかべ、太夫の耳元にささやいた。
「は、話にならん!バカバカしい。野盗の群れでもあるまいし、こんな不毛な議論につきあってられるか!」
殿内は猛然と席を蹴って、店を出て行った。
三味線の音色が途切れ、
舞っていた芸妓は、胸元にあてた扇子のやり場に困っている。
「殿内さん!しょうがないな…ちょっと連れ戻してくる」
土方歳三が、サッと立ち上がり後を追った。
芹沢は面白がるように、山南敬介をみた。
「あら?怒らせちまったか?」
「正直、私も愉快な気分じゃありませんよ」
山南はため息をつき、立ち上がって、土方の後につづいた。
家里次郎が腰を浮かせマゴマゴしているのを、新見錦が無理やり席に押しとどめる。
「まあまあ、家里さん。座って座って。殿内さんも頭が冷えれば戻ってくるでしょう」
「しかし、そういう訳にもいかん」
意を決して出て行こうとする家里を芹沢が一喝した。
「いいから座れえ!!!」
若い家里は、その怒声に圧倒され、蛇に睨まれた蛙のように動けなくなった。
「よし…座るんだ」
一転、優しい口調でもう一度芹沢が命じると、家里はまるで自分の意志とは関係ないようにストンと腰を落とした。
「いい子だ」
芹沢はひざで這いよると、家里に盃を手渡し、酒を注いだ。
そして、低く、穏やかな声で語りだした。
「山南や土方は、必死で京の治安組織を演じちゃいるが、そうとも、俺たちはそこら辺のゴロツキ浪士と大差ねえさ。つまるとこ野盗の群れみたいなもんだ。だがなあ、だからこそ、京っていう俺たちの縄張りを荒らす奴らには容赦しねえ。それが身内の裏切りであってもな。そして今、あんたのご同輩は、俺に背をむけた。やつは、野盗の群れにも掟があるってことを分かってない。…残念だよ」
芹沢は家里に頬を寄せ、もう一度ささやくように繰り返した。
「…本当に残念だ」
盃を持つ手は小刻みに震え、注がれた液体はほとんど零れ落ちた。
これには、家里だけでなく、新見や平山、野口らも震え上がっている。
斎藤一などは、その様子を見てうつむき、苦笑をもらした。
では、ほんの少し時間をさかのぼる。
芹沢と殿内が舌戦を繰り広げていたそのころ、茶屋の外では、粕谷新五郎と沖田総司がにらみ合っていた。
粕谷はしばらくの間、沖田の言葉を噛みしめるように押し黙っていたが、やがて訥々と語りはじめた。
「きみの言うとおり、私は逃げ出したいのかもしれん。だがやはり、この仕事は私がやらねばならん」
「なぜです?」
沖田はまっすぐ粕谷の目を見ながら聞いた。
「それは君がまだ、自分の犯そうとしている罪について本当の意味を理解しているとは思えんからだ」
「わたしはあなたが思ってるようなヒヨッコじゃない。天然理心流試衛館の塾頭です」
しかし、それを聞いても粕谷は驚かなかった。
「頼もしいな。では忠告しておこう。もし、君が剣で身を立てようとするなら、その剣は、信念のために使え。仲間や、弱い者に刃を向けたその時から、君は剣士ではなく、ただの人斬りになってしまう。きみは笑うかもしれんが、古臭い武士の誇りというやつにも一片の真実がある。それを手放してはダメだ」
沖田は、今朝までこの粕谷という男と口をきいたことすらなかったが、今では妙な親近感を覚えていた。
この男は誰かに似ている。
「あなた自身まだ捨てきれていないんでしょ?その誇りを。だって、その目は人斬りの目じゃない」
「大人をからかうな。仮にそうだとしても、私は生きすぎた」
「そんなに死にたいなら、もう少し人に誇れる死に方を選べばいい。譲れない信念があるなら、それに殉ずるべきですよ。そのために今逃げるのは恥じゃない」
沖田はそう訴えながら、石井秩の言葉を思い出していた。
― 沖田さんは誇れるお仕事をなさっているのだから…
「くちばしの黄色いガキが説教か。なにがいいたい」
粕谷新五郎は、挑みかかるように沖田を見据えた。
しかし、沖田はまたいつもの飄々とした風情を取り戻し、その視線を受け流した。
「さあね。自分でもなに言ってんだか分かんなくなってきましたけど、私は別に剣で身を立てようなんて大それたことを考えちゃいない。ただ、江戸を出る時にもう決めたんです。近藤勇のために死ぬとね。例え、泥をすすって、誇りを手放すことになろうともです」
沖田がそう言ったとき、店から勢いよく殿内義雄が飛び出してきた。
沖田は鋭くそちらに視線を走らせながらも、言葉を続けた。
「…けど、あなたまでそうする必要はない。今なら、みんなこの料亭で酒を飲んでる。抜けるなら今です」
「だが…」
躊躇する粕谷の瞳の奥で、消えかかっていた炎が再び燃えはじめているのに沖田は気づいていた。
そうするあいだにも、殿内を追うようにして土方と山南が店の外に姿を現す。
もう時間がない。
「行って。早く」
粕谷はしばらくの間じっと沖田の目をみつめていたが、やがて深々と頭を垂れ、別れを告げた。
「もし次に会うときがあれば、敵同士かもしれん。しからば、御免」
しかしこれで、新見に続き土方の計画も水泡に帰したことになる。
沖田はひとりでこの任務をやり遂げることを、すでに決意していた。
余韻にひたるまもなく、すぐに踵を返すと殿内を追うため粕谷と反対の方向へ歩き出す。
石井秩の言葉がまた脳裏をよぎった。
「ち、あれが頭から離れない。余計なことを聞くんじゃなかった」
しかし、のちに悪名高き「局中法度」ができると、皮肉なことに沖田は多くの脱走者をその手にかけることになった。
そして粕谷新五郎はこののち天狗党に身を投じ、戦いには敗れるも今度こそ初志を貫徹して自刃している。




