目撃者 其之壱
閑話休題。
再び文久年間、明けて三年一月下旬のこと。
大坂、八軒屋の船着場に、その日最初の三十石船が到着した。
三十石船とは、京と大坂の間を結び、淀川を定期就航している連絡船である。
この船から降り立った乗客のなかに、阿部慎蔵の姿があった。
朝の四ツ(10:00am)、船は満員だ。
(三十石というのは積載量で、約4.5t、おおよそ三十人が乗れた)
陸に上がった乗客たちが、あわただしくあちこちへと散っていくなか、阿部だけは、どこへ向かうでもなく、桟橋に座りこんで、ぼんやりと船着場から見える大阪城を眺めたりしている。
その顔は、かなりゲッソリとやつれてみえた。
船酔いのせいもあったが、ここ数日ろくに食べていないのが原因だった。
例の辻君にはすぐにも大坂へ帰るようなことを言った阿部だが、実は、その後二ヶ月あまりも京で無為に日々を過ごしていた。
それには彼なりの事情があった。
大坂には顔を合わせたくない人間がいるのである。
阿部はもともと出羽亀田藩の小さな村出身だが、脱藩して各地を放浪した末、ここ大坂に流れ着いた。
この頃の大坂は、経済の中心地だったので、こういう腰の据わらない浪人者が、食いぶちを得るために居ついてしまうのは、そうめずらしいことではなかった。
まして、世情は混乱を極めている。
諸国の藩邸や蔵屋敷が集まる大坂にいれば、どこぞの役付きの目にとまって、思わぬ恩恵にあずかれるかもしれない。
もちろん阿部にも、今どきの浪士なみに、「勤王」や「攘夷」のために働きたいという気持ちがあった。
そのためにも、とりあえず腕に磨きをかけることにした阿部は、南堀江にある小さな町道場の門を叩いた。
そこを選んだ理由は、これといってない。
あみだ池の遊郭でハメをはずした勢いで、翌朝、近くにあった道場に飛び込んだというのが正直なところだ。
道場主は松山浪人の谷万太郎という男で、剣は直心流、ヤリは種田宝蔵院流をつかった。
剣にはそこそこ自信のあった阿部にとっては、ヤリを教えてもらえるのはありがたい。
谷は人の良い人物で、上方に頼る者のない阿部の面倒を、なにくれとなくみてくれた。
だが人が良いというのは、見方を変えれば、あまり利にさとくないということである。
道場は、門弟の数も少なく、いわゆる経営不振にあえいでいた。
阿部は一肌脱ごうと金の工面に奔走したものの、しょせん、そういった方面にうといのは、谷とあまりかわらない。
けっきょく、阿部の役回りは、居留守をつかう谷に代わって、おしよせる債権者の追及をのらりくらりかわすことになった。
そんなとき、毎日のように道場に押しかけていた、借金取りの石塚岩雄という素浪人が、怪しげな仕事を持ちかけてきた。
さる神社に奉納された宝剣を手に入れたいというのだ。
ありていに言えば、盗みの依頼である。
それを売れば、借金を返してお釣りがくるらしい。
この依頼は、なぜか谷万太郎を通さず、直接、阿部のところにやってきた。
谷という男は、もともと育ちもいいし、妻も良家の子女だったから、危ない橋を渡れと言っても、脈がないと思われたのだろう。
阿部にしたところで、谷へ恩を返したい気持ちはもちろんあったが、盗みをはたらいてまで金を作るのはためらわれた。
だが結局、石塚に脅したり透かしたりされるうち、なし崩しに仕事を受けてしまい、割り切れぬ思いのまま京へのぼることになったのである。
その結末は、まえに述べたとおりだ。
本来なら、あのあと大坂の道場へ戻って、辻君からの連絡を待つべきだったかもしれない。
かといって、金の工面をすると大見得を切って出かけた手前、おめおめと谷万太郎の道場にも戻りづらかった。
それに、大坂へ戻れば、また借金取りと顔を合わせることになる。
道場も年末年始はなにかと物要りのはずだし、そんなところへ催促に踏み込まれたら、針のむしろに座らされるようなものだ。
辻君が提示した二十両はたしかに魅力だったが、彼には、やはりどうしても金で殺しを請け負う気になれなかった。
京で人足仕事などをやって糊口をしのぎながら、あれこれ金の工面に思い悩むうち、年をまたぎ、気がつけば二ヶ月が経っていた。
しかし、京に住む場所を持たない阿部に、いつまでも金が続くはずもない。
やがて、その日食べるものにも事欠くようになった。
ここに至って、安部はようやく大坂へ戻るを決心をした。
もう手遅れかもしれないが、大坂で辻君からの連絡を待つことにしたのだ。




