月籠りの夜 其之壱
文久二年、閏八月晦日のこと。
その夜、月ごもりの夜空にはうすい雲がかかって、
京の都は黒い闇に沈んでいた。
いつもなら鴨川の水面にキラキラと映える月光も、
今夜はない。
三条河原に聴こえるのは、
ただ鴨川のせせらぐ音ばかり。
この川は京の町を東西に分断するように流れていて、
陽のあるうちは、そこに架かる橋はどれも大勢の人が行き交う。
だが、なかでも特別にぎやかな三条大橋にさえ、
こんな夜には通る人影もない。
なぜなら、この街の闇には魔物が棲んでいることを、
もはや誰もが知っているからだ。
もちろん、今夜も。
橋のたもと、西側の河原に、両腕を後ろ手にしばられて、さるぐつわを噛まされた初老の男が転がっている。
それを見下ろすように、数人の黒い影が周りを取り囲んでいた。
残暑を過ぎ、都特有の蒸し暑い日々がようやく終わりを告げ、川べりには秋の気配が漂っている。
彼は大きく息を吸い込むと、この町では聞きなれない言葉で、つぶやいた。
「ようやっと、涼しゅうなったのう」
人斬り以蔵、
人は彼のことをそう呼んだ。
本名を岡田以蔵―オカダイゾウ―といって、生まれは土佐藩の郷士(下級武士)である。
同郷の武市半平太が主催する「土佐勤王党」の一員として、夜の都を支配する眷族の中でも最も恐れられた男のひとりだ。
事実、テロリズムが吹き荒れたこの時代においても、この岡田以蔵ほど多くの暗殺に手を染めた者はいないだろう。
もっとも「テロリスト」という肩書は、少々彼に相応しくないかもしれない。
なぜなら、その足跡を振り返ったとき、そこには明確な政治理念も、信条も見当たらないからだ。
つまるところ、岡田以蔵にとっての殺人は、ただの殺人でしかなく、彼の嗜好を満足させる一つの手段に過ぎなかった。
彼の強さの秘密は、人を殺めることに何の痛痒も感じない気質にこそあったといえる。
以蔵は、足元に転がっている男の襟首をつかむと、無理やり上体を起こした。
「こうやって河原に寝っころがっちゅうと、おんしゃあ、まっこと猿猴そのもんじゃ」
なんとなくこの場には不似合いな上機嫌さで、以蔵は話しかけた。
心の奥底を見透かすようなその目に引き込まれた初老の男は、身じろぎも出来ず、荒い息を吐くばかりで何も応えられない。
暗い闇をたたえた瞳の中には、憔悴しきった見知らぬ男が映っていた。
「知らんか?川べりに住む猿に似た化けもんじゃ。尻子玉を抜いたり、女を犯したり、悪さばかりしよる」
以蔵は男から手を離すと、周りにいる黒い影たちをひとわたり眺めた。
そして、仲間の同意を得たかのように頷くと、ゆっくりした口調で語り始めた。
「ひと月ほど前の話じゃ。木屋町で、おいど(尻)を斬られた間抜けがおってのう。 そいつぁ田中新兵衛ちゆう、物騒な人斬りを怒らせてしもうたがじゃ。
みともないことに、囲うとる妾ん家におるとき、新兵衛に踏み込まれて、塀を乗り越えて逃げゆうとこを後ろからやられた。
そんあと、塀から引きずりおろされた男は、必死に命乞いしたらしいけんど…」
彼は少し間をおいて、首を掻き切る仕草をしてみせた。
「コレじゃ」
男はゴクリとつばを飲んだ。
「げにお粗末な最期じゃ。けんど、ま、なっちゃあない話やねや。
普通なら、どだい女がらみの刃傷沙汰じゃち片付けられちゅうとこじゃき。 ところがのう。
たったそんだけの事で、この町はなんもかんも変わってもうた。
実はおいどを斬られた男ゆうがは、この京ではちっくとした顔役やったき。
以来、こん町で幅を効かせよったそいつの子分どもは、芋ヅル式に殺されていきよったがじゃ。
昨日まで、不逞の輩とやらを追いかけちょった連中が、 その日を境に狩られる側に立たされてもうた」
以蔵は大げさに顔をしかめた。
「けんど、その情けない男には片腕がおった。 こいつが親分に輪あ掛けて、へこすい男でのう。
今までお役目にかこつけて、ほりゃあ好き放題やっちょったクソ野郎じゃ。 仲間が次々殺られちゅうがに、仇を討つどころか、コソコソ逃げ回りゆう。ざまあないろ?」
男の息はさらに荒くなっていた。
以蔵は世間話でもするように、穏やかに先を続ける。
「でのう、こっからが本題じゃき。こいつらあ、おまんがその腰ぎんちゃくじゃいかち言いゆう」
「ち、ちゃう、人違いや!」
初老の男がようやく口を開いた。
「ほうかい。それがホンマならええのう。なんせわしゃあ、昼間二人も斬っちゅう。もうええ加減だらしいて、いかんちや。けんど、おんしが本人なら、わしゃあ、まんだ一仕事せにゃあならん。おまけにこいつらあ、おんしを斬り殺すんは刀の汚れじゃち言いゆうがよ。簡単に言うてくれるけんど、ひと一人クビり殺すんは、ちっくと骨が折れるきねや」
「ちゃう!ワシやない!」
両手の自由が利かないその男は、激しく首を横に振って意思を示した。