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短編~中編

Fairy tale ~微笑む君に、小さな花を~

「――ねぇ、五十嵐いがらしくん。この花、いつ咲くの?」

 土いじりに熱中する僕に話しかけてくる、女子にしては落ち着いたアルトの声。

 振り向かなくても分かる。クラス委員の麻生あそうさんだ。

 僕は俯いたまま、地面に向かってボソッと呟いた。

「梅雨が明ける頃には、咲くと思うよ」

「そう、楽しみだね」

 背中越しに感じる、柔らかな午後の日差しと、太陽みたいな笑い声。聞いているだけで、心がポカポカ温まってくる。僕はそんな気持ちを押し殺し、淡々とスコップを動かし続けた。

 クラスで一番小柄な麻生さんは、中三には見えないくらい童顔で、とても可愛らしい顔立ちをしている。子犬のように大きな瞳と、ふっくらしたピンク色の頬、小さくて赤い花びらのような唇。胸元でブルーのリボンを結んだセーラー服に、清楚なポニーテールが良く似合う。

 麻生さんは毎日、腰の高さまである大きなゴミ箱を抱えて、この校舎裏にやってくる。ゴミを捨てるついでに少し遠回りして、僕のいる園芸部の花壇まで。

 ゴミ捨てなんて面倒な雑用を押し付けられても、決して明るい笑顔を絶やさない、クラスの人気者。しかもいじめられっこの僕に話しかけてくれる、典型的なイイヒトだ。

 最初は僕も「きっと担任から、仲良くしてやってくれと頼まれているんだろう」と斜に構えていた。ただ、何度も声をかけられるうちに、彼女のイメージは少しずつ塗り替えられていった。色の無いデッサンが、淡い水彩画に変わるように。

 だから僕は麻生さんに、一つだけお願いをした。『他の奴らがいる場所では、僕に話しかけないでくれ』と。

 今の僕は、皆の悪意を受け止めるゴミ箱みたいなものだ。一緒にいれば、綺麗な麻生さんまで汚してしまうかもしれない……。

 麻生さんは悲しげに目を伏せたものの、最後は小さく頷いてくれた。

「それで、どんな花が咲くの?」

 細長い影が近づき、僕の丸い影に寄り添う。小難しい花の名前を告げようとした僕は、その言葉を喉の奥に引っ込めた。

 麻生さんが欲しいのは、そういう『知識』じゃない……そんな気がしたから。

「三センチくらいの花が咲くよ。色は薄い紫かな。秋には枯れるけど、種がたくさん取れるんだ」

「ふぅん。薄紫ってわたしの一番好きな色だ。種ができたら、少し分けてくれない? 来年うちで育ててみたいな。でも、育てるのって難しい?」

「土を乾燥させなければ、大丈夫だよ。元々雑草に近い花だから、放っておいても勝手に育つし」

「へぇー、それもわたしの性格にぴったり! 切り花はすぐ枯れちゃうから寂しいんだよね。可愛いプランターに入れて、窓際に置きたいなぁ」

 それから麻生さんは、自分の部屋の出窓に飾ったぬいぐるみの話を楽しそうにして、「いけない、教室戻らなきゃ!」と慌てて走り去った。これが定番のパターンだ。

 他愛もない、ほんの三分程度の会話。僕は背中を向けたままで、振り向きもしない。

 だから麻生さんは、きっと気付いていない。僕がこの時間を、どれくらい大切に思っているかを。

 僕にとって、学校は息苦しいだけの場所だった。周囲から笑われるのも、乱暴な男子に殴られるのも、そんな姿を麻生さんに見られることも、全てが耐え難い苦痛で……もうとっくに『学校へ行かない』覚悟はできていた。

 でも、この花が咲くまではここに通おう。

 花が枯れても、種ができるまで通おう。種が取れたら、それを麻生さんにあげよう。そして、春に咲く花をまた植えよう。

 次の花が咲く頃、僕らは卒業する。

「それまでには……」

 独りごちながら、ゆっくりと立ち上がる。手のひらの土をジャージの裾で軽くはたき、遠いビル影に沈みゆく太陽を見やる。心ごと優しく包むような、オレンジの光を浴びて、思う。

 ほんの少しの、勇気が欲しい。

 太陽みたいに眩しい彼女と、真っ直ぐ向き合えるだけの、ささやかな勇気が。


 それからすぐに、梅雨がやってきた。土いじりも水やりも対して要らないのに、僕は傘を手に花壇へ向かった。

 麻生さんも、毎日ゴミ捨てを続けた。大粒の雨が足元をぬかるませる日も、「冷たいよー」と叫びながら、傘もささずに走ってくる。

「誰かに手伝ってもらえばいいのに。そしたら傘が持てるだろ?」

「ううん、これはわたしの仕事だからいいのッ」

 強がってプイと横を向くと、ポニーテールの毛先から水滴が飛び散る。僕はやむなく立ち上がり、自分の傘を差し出して昇降口まで送り届けた。麻生さんは「ありがとう」と微笑んでくれた。僕は、ぎこちない笑みを返した。

 そんな僕らの姿を、誰かが見ていることには、ちっとも気付かなかった。

 事件は、梅雨の晴れ間に起こった。放課後いつも通り花壇へ向かった僕は、その場に力無く崩れ落ちた。

 多数の靴で踏み荒らされ、つぼみのままくたりと倒れた花……。

 僕の中で、何かがプツンと切れた。

 翌日から、僕は学校へ行かなくなった。ときどき麻生さんが、クラスの代表としてプリントの類を届けにやってきたけれど、僕はずっと部屋に閉じこもっていた。

 両親は、優秀な兄貴の人生に夢中だから、不良品の僕に構いやしない。僕の生活はゲーム中心になり、いつしか昼夜が逆転した。

 梅雨が明けた頃、真夜中にコンビニへ出かけた僕は、交通事故で呆気なく――死んだ。


 ◆


 元々僕の生まれ育った町は、緑にあふれる田舎町だった。

 兄貴と違って内向的だった僕は、誰かと遊ぶより一人でいることを好んだ。道端に生える木や草や虫たちを眺めていれば、充分幸せだった。

 両親が『兄貴を良い高校に通わせるために』、故郷を離れると決めたのは、僕が小学校を卒業する頃。

 灰色のコンクリートに覆われた街は、僕の目には冷たい檻に見えた。

 そして中学に入学した日。自己紹介で僕は上手く喋ることができず、立ちつくしてしまった。クラスメイトは真っ赤になった僕を指差し、「あいつ訛ってるよ」と声を忍ばせて嗤った。

 そのとき、僕のポジションは決まってしまった。

 家にも学校にも、僕の居場所は無い。心のよりどころは、学校の裏庭に作られた小さな花壇だけだった。


「――以上が、五十嵐実みのる君の人生の記録です。間違いないですか? ドゥーユーアンダスタン?」

「はぁ……イエスアイアム」

「ほら、もっと腹から声出しなさい! そんなんじゃ、生まれ変わっても世の中渡って行けないわよ?」

 そういって、僕の目の前にビシッと人差し指をつきつけた、一人の少女。

 身長は対して変わらないのに、僕を斜め上から見下ろしているのは、彼女が『宙に浮いている』せいだ。

 ずるずると床を引きずるくらい、丈の長い真っ黒なローブを羽織り、首にはジャラッと音を立てるドクロのネックレス。何より目を引くのは、背負っている巨大な鎌。そのいでたちは、漫画で目にした“死神”そのもの。

 というか、彼女は本物の死神なのだ。

「ったく、困ったわねぇ」

 死神さんはスウッと地面――孫悟空が乗るような小ぶりな雲の上――に降り立ち、腰まで伸ばした赤毛をバサリとかきあげる。ルビーのような紅い瞳を不満げに細め、頬をぷっくりと膨らませて。

 こうして真正面から見ると、死神さんが人間離れした美貌の持ち主と分かる。外見だけなら、女子高生くらいだ。そんな子と二人きりだというのに、僕の心臓はピクリとも動かない。

 当たり前だ。僕は、既に死んでいるんだから。

「そう、キミが死んでから丸四日。昨日はお式も終わって、無事に身体もこの世から消えました。ご家族も、お友達も、ちゃんとさよならしに来てくれて……キミもそのシーン見たでしょ?」

「はい……見ました」

 コクンと素直に頷き、僕は頭の中で再確認した。

 確かに、僕は死んだのだ。車に轢かれた瞬間の痛みも覚えているし、自分の葬式だって雲の上から見届けた。

「なのに成仏できないなんて、おかしいでしょ。一体何が不満なの?」

 死神さんは可愛らしく小首を傾げると、背にした巨大鎌を軽々と抜き、天高く掲げた。それを何の前触れも無く、僕の頭に向けて振りおろす。ギラリと光る一メートルもの刃が目の前に迫り、僕は反射的に首をすくめる。

 ――スカッ!

「ダメだこりゃ。魂がこの世にこびりついちゃってるわ……」

 何も刈り取れなかった刃先にハァッと溜息を吹きかけつつ、死神さんが愚痴る。

「もぉ、不満があるならさっさと言ってよね。狩らなきゃいけない魂は、キミの他にもいっぱいあるんだから!」

「す、すみません。だけど僕にも、何が何だか……」

「そういう無自覚な魂が、一番タチ悪いんだよねぇ。ほら、モテてるのに全然自覚無くて、美少女ハーレム作っちゃうラノベの主人公男子とかさぁ」

 アイツらは女の敵だとぶつぶつ呟かれて、僕は再び「すみません」と頭を下げる。死神さんの方こそ、ラノベのキャラみたいだなと思いながら。

 そして僕自身はといえば、きっと名もなき『クラスメイトA』なのだろう……。

「もうしょーがないから、既成事実でっちあげるか。キミだって、早く人生リセットしたいでしょ?」

 疑いようもないくらい、甘美な誘い。なのに頷こうとすると、電池切れしたはずの心臓がチクンと痛む。僕はそこに手を当てて、深く考え込んだ。

 死神さんの解説によると、どうやら僕は『悪霊』になりかけの魂として、この世にしぶとく留まっているらしい。

 とはいえ僕の人生は、噛み終わったガムくらい味気ないもので、未練なんてちっとも思いつかない。

「じゃ、嘘にならない範囲で、それっぽい理由考えてよ。会いたい人がいるとか、やり残したことがあるとかさー」

「はぁ……そう言われましても」

 僕の知り合いには、昨日の葬式で全員顔を合わせた。家族も、親戚も、そしてクラスメイトたちも。

 家族は泣いていたけれど、どこかホッとしているのが分かった。いわゆる“エリート”な両親と兄貴は、社会からドロップアウトしてしまった僕を持て余していたから。しかも、両親の涙の陰には『弟の方で良かった』なんて、あまり知りたくない本音も透けて見えた。

 一方、学校の知り合いは、誰ひとり泣いていなかった。担任も、僕をいじめていた奴らも、それなりに親しかったと言える麻生さんでさえ……粛々と焼香を済ませ、会場を出て行った。

 麻生さんはずっと無表情で、その感情も暗い靄に包まれて良く見えなかった。ただ僕は、麻生さんからトレードマークの笑顔を奪ったというだけで、軽い罪悪感を覚えた。

 そして、風に揺れる薄紫の可憐な花を、心に思い描いた。

 あの花を見せてあげる約束を、僕は守れなかった。でも人気者の麻生さんにとっては、すぐ忘れてしまうくらい些細なことだ……。

 だから、僕の中に『未練』なんてものは、全く存在しないのだ。

 何度もそう説明したのに、死神さんは納得してくれない。あれやこれやと、僕を成仏させるための策を練り続ける。

「あっ、そうだ! あれじゃない? キミを轢いた犯人への恨みとか……」

「いえ、別に。信号の無い交差点で、ちゃんと注意しなかった僕も悪いんですし」

「じゃあ、あのときコンビニで読めなかった、漫画の続きが気になるとか?」

「まあ、それは確かに、気になるといえば気になるんですが」

「――よし、その線で行こう! なるべくリアルな感じでねつ造しとくわッ!」

 死神さんは、黒いローブの腹をもぞもぞとまさぐった。取り出したのは、真っ黒なノートパソコン。雲の上にドスンと座り込み胡坐をかくと、僕の気持ちをテキトーに代弁し始める。

「えーと、『安西先生えんまさまへ。漫画が……読みたいです……。特に、財界美少女化漫画『けいだんれんっ!』の“あずにゃん”こと、東芝子あずましばこたんのゲリラ講演会の結果が死ぬほど気になり、死んでも死にきれません。どうか一度だけ現世に戻るチャンスを下さい』と……今からこのデータ、閻魔サマに送るから。そのミッションクリアしたら、キミの魂は晴れて地獄に強制送還ね!」

 嬉々として恐ろしげなことを叫ぶ死神さん。僕が止める間も無くデータは送信され、パソコンが『キュピーン』と音を立てた。

「お、さっそく許可が下りたわ。キミに与えられた時間は三分ね。その間は下界で自由に動いていいから、スポーツマンシップにのっとって、悔いのないよう全力で立ち読みしてらっしゃい。あ、キミの姿も行動も、人間には見えないから安心してねッ」

 良く分からないエールと共に、死神さんが大鎌の背でバシンと背中を叩いた。その瞬間、僕は雲の上から地上へ降り立った。

 僕が命を落とした、あの交差点へ。


 ◆


 ぴょんぴょん。

 僕は軽くジャンプしてみた。身体は生きていた頃と遜色ない重さだ。足もあるし服も着ている。ただし見た目がゼリーみたいに半透明で、向こうの景色が透けて見える。まさに透明人間。

 次に、きょろっと周囲を見渡してみた。

 僕が引きこもっている間に、季節は本格的な夏へと移り変わっていたらしい。街路樹の葉は逞しく生い茂り、どこからかジージーとせわしない蝉の鳴き声。茜色に染まった空には、気の早い三日月が薄く引っかかっている。

 コンビニのある国道から一本裏の、見通しの悪い交差点。近くに人気は無く、『事故』のあったことを示す黄色い花束だけが、僅かな生命の力を放っていた。

 僕はそこに歩み寄り、しおれかけの花束を眺めた。屈みこみ、顔を近づけて匂いを嗅ぎ、花弁にそっと指先で触れてみる。

 半透明の身体が伝えるのは、生きていた頃の半分くらいの感覚だった。今ならバラの棘を指に刺しても、痛みを感じないだろう。

 僕は、誰にも届かない言葉を、ポツリと落とした。

「未練が無いなんて、嘘だ。僕はもっと生きていたかった……」

 僕にも人並みの夢はあった。高校に行かなくても、大検を受けて農業系の大学に入って、将来は花に関わる仕事がしたい。漠然とそう思っていた。

「今さら、遅いよな……」

 ――ザリッ、ザリッ。

 突然、誰かの足音が聞こえた。普通の人間には見えないと知りつつも、つい隠れたくなってしまう。慌てて近くの電柱の陰に逃げ込んだ僕は、思わず息を呑んだ。

 現れたのは、小さな花束を手にした麻生さんだった。

 重たい身体を引きずるような、鈍い足取りでやってくる。校則を守った膝丈のプリーツスカートに、半袖のセーラー服という、葬式で見たままのいでたち。

 しかし、髪をポニーテールに結わえず、背中に垂らしているせいだろうか? いつもの何倍も大人びて、まるで別人のように見える。

 麻生さんは、ついさっき僕がいた場所にしゃがみこみ、花束を置いた。

 夕闇にぼんやりと浮かび上がる、儚げな薄紫。その花に、僕は見覚えがあった。

 それは、僕が彼女に見せてあげたかった――

「……五十嵐くん」

 呼びかけられて、身体が勝手に動き出す。音も立てず、麻生さんの傍へと。

 当然、僕の姿が見つかることはない。麻生さんは独りきりで、静かに頭を垂れていた。

 横髪を耳にかける指先の、爪の隙間に入り込んだ細かな土。軍手をせずに花壇の土をいじると、すぐにこうなる。

 麻生さんはいつも、真っ白くて綺麗な手をしていたのに……。

「五十嵐君。あの花、ちゃんと咲いたよ。誰かに踏まれても、負けないで、生きてたよ」

 呟いた唇が、堪え切れずわなないた。麻生さんは嗚咽を漏らすまいと、必死で唇を噛みしめる。色を無くすほど強く。

 けれど、瞳から溢れだす涙は止められなかった。

「五十嵐くん……五十嵐くん……」

 華奢な背を丸め、薄紫の小花を見つめる麻生さんの頬を伝い、靴先に降り注ぐ涙の雨。

 いつまでも止むことのない、温かな雨。

 花弁のような唇から紡がれる僕の名前は、呪文となって僕の魂を揺さぶる。

 なのに――僕は、何もできなかった。

 道端に立ち尽くしたまま、永遠のような三分が過ぎた。


 ◆


 気付けば僕は、雲の上に転がっていた。

 首根っこを大鎌に引っ掛けられ、乱暴に投げ出されたというのに、身体は一切の痛みを感じない。心は締めつけられるように苦しくても、涙を流すことすらできない。

 全てが、遅すぎた。

「あのさぁ……なんかキミ、とことん不器用な子だよねぇ」

 僕の張り詰めた想いなど、全てお見通しなのだろう。死神さんの呆れ声が、容赦なく浴びせかけられる。

 一気に現実へ引き戻され、僕はペコリと頭を下げた。

「スミマセン……」

「別に、アタシに謝られてもねぇ。転生が遅れて、一番困るのはキミ自身なんだし?」

「実は、死神さんに一つお願いが」

「アーアーアー、聞きたくないーー面倒なお願いごととか、もう何万回ってやっつけて、アタシお腹いっぱいなんだからー」

 両手を耳に押し当てて、死神さんがぶんぶんと頭を左右に振る。紅い髪が歌舞伎みたいに振り乱れる姿を見て、自然と笑みが漏れた。と同時に、作りたてのガラス細工みたいに熱く脆かった心が、急激に冷えて行く。

 形の無い夢が、強固な決意に変わる。

「それにしてもキミって、薄倖の少年って顔してけっこうタフでしょ。目的の立ち読みもすっぽり忘れて、今さら三次元の女子に恋とか自覚しちゃってさぁ。ありえないっつーの。どーせなら目の前の美女に見とれろっちゅーねん!」

 腕組みし仁王立ちする死神さんの目尻が、キュッと釣り上がる。僕は本能に逆らわず、唇を開いた。

「えと……確かに死神さんは美人です」

「――ま、しょーがないなッ。お姉さんが何とかしてあげるから、そこ座って待ってなさい」

 一瞬で上機嫌になった死神さん。僕は雲の上に三角座りし、猛烈な勢いでノートパソコンを繰るその雄姿を見守った。

「ハイハイ、嘘はつきません。正直に報告しますよー。『ミッション失敗で、むしろ悪霊化進行中。ただし更生の意志も、二次募集にトライする意欲もアリ。生前の人徳ポイントはちょっと低いけど、とっても素直でイイ子なんですよ』と推薦文もつけてね。さて、本人の希望に沿って自然成仏させるには……」

 カチャカチャ。

 真剣にキーボードを叩く死神さんの眉間に、みるみる縦ジワが寄っていく。

「――うわ、六十九年もかかるの? ありえなさすぎッ!」

 ノートパソコンをお腹にしまうと、死神さんは雲の上にがっくりと膝をついた。僕はその場に正座し、額を雲の上に押し当てた。最大限の誠意を込めて。

「お願いします、もう一回だけチャンスをください!」

「ちょっと、キミねぇ……土下座されても困るって。頼むから、強制成仏プランに乗っかってくれない? 素敵な恋なら、来世でもできるんだし」

「嫌です! もう一度だけ、この身体であそこに行きたいんです!」

 僕は、必死で叫んだ。生きているときも、これほどの大声は出したことがない。「もういいから」と強引に顔を上げさせられるまで、叫び続けた。

 死神さんが、僕の瞳を覗きこんでくる。今までのテンションは封印して、落ち着いた大人の顔をして。駄々っ子を諭すような眼差しが、胸に突き刺さる。

 それでも目を逸らさず、僕は真摯に伝えた。

「どうしても、彼女に伝えたいことがあるんです……!」

 一言だけでいい。ただ「ありがとう」と言いたかった。

 できるなら、土にまみれた彼女の手を、優しく握って……。

 精一杯の想いを込めて、僕は死神さんを見つめ続けた。それでも彼女は難しい顔をしたまま、首を縦に振らない。

 僕はギュッと目を閉じ、なりふり構わず叫んだ。

「お願いします! 美人で優しい死神さん!」

「――あーもう、分かったわよ!」

 死神さんはすっくと立ち上がり、手にした大鎌で僕の首根っこを乱暴に引っ掛けた。

 そのまま小型雲を操り、夕陽に向かって猛スピードで飛んで行く。

「暴れないでよ、落っこちるからね!」

「ちょっ、あの、どこへ」

「不良在庫魂、遊ばせとく余裕なんてうちには無いの。キミは今からアタシの弟子ね! 思いっきりこき使うから、覚悟しなさいよッ」

 ハタハタとローブの裾をなびかせ、背筋を伸ばして仁王立ちする死神さん。叩きつける風に負けないよう、僕は腹の底から声を出した。

「ハイッ!」

「ん、良い返事」

 ようやく死神さんが、僕を鎌から解放した。慌てて雲の端にしがみつく僕を見下ろし、冷酷な事実を告げる。感情のこもらない眼を、少しだけ切なげに細めて。

「あとね、どんなに頑張っても、次に人間界へ降りられるのは六十九年後。キミが想像できないくらい、長くて苦しい時間になるよ。しかも、キミの好きな子が生きてる保障もない。それでもいいの……?」

 死神さんの語尾に、ほんの少し戸惑いが滲む。僕は迷わず頷いた。

 もし間に合わなかったなら、彼女の墓前に花を手向けよう。

 できるなら、薄紫の可憐な花を。


 ◇


 ある晴れた日の、夕暮れ時だった。

「……じゃあね、センセ。また遊びにくるね!」

 木漏れ日が柔らかく落ちる、こぢんまりとした南向きの部屋。窓際に置かれた簡素なベッドの上に、彼女は座っていた。バタバタと部屋を出て行く、三人組の中年女性に手を振って。

 彼女の目は薄い膜を張ったように濁り、今や僅かな輪郭程度しか捉えることができない。それでも目の前にいる相手が誰かなんて、充分過ぎるほどに知っていた。

 念願の中学教諭になり、定年まで勤め上げた。手のかかった生徒ほど不思議と親しみも増すようで、こうして勤めを辞めてからも会いに来てくれる。結婚せず、身寄りがない彼女にとっては、本物の子どもや孫たちが大勢いる……そんな感覚だった。

 彼女の身体が不自由になり、特別な施設へ入ってからも来客は途絶えない。部屋の中は、常に花の香りに包まれていた。

 大輪の花より、素朴な小花が多い。彼女の好きな花を、生徒たちは皆知っていた。

「良い香り。きっと可愛らしいんでしょうね。後で花瓶に移してあげましょう」

 彼女は花束を枕元に置くと、手さぐりでカーテンを引いた。羽織ったカーディガンの襟元を引きよせ、シーツの上にコホンと咳を落とす。

「少し、疲れたみたい。横になろうかしら……」

 ――コンコン。

 独り言を聞かれてしまったと軽く自嘲し、彼女は「どうぞ」と告げた。

 ゆっくりと扉が開き……聴こえたのは、決して忘れられない、懐かしい声。

 穏やかで朴訥ぼくとつで、そして誰よりも慈しみ深い、少年の声。

「まぁ……今日はなんて素敵な日なんでしょう」

 彼女は、見えない目を大きく見開き、感嘆の吐息を漏らす。その傍らに歩み寄った彼は、彼女の落ち窪んだ瞼に、そっと手のひらをかざした。少しだけ土の匂いがする手を。

 その行為が、一瞬だけ奇跡を呼び起こす。

 彼女の瞼の裏に、何度も夢に描いた少年の笑顔が映った。

 あの頃は背中しか見せてくれなかった彼が、彼女を真っ直ぐ見つめ微笑んでいる。

 そして、枕元に置かれた薄紫の小花を指差し、彼の唇が「ありがとう」と動いた。

「そう……ちゃんと、見ててくれたのね」

 彼女の祈りが届いたのか、枯れずに咲いた小さな花。秋には種となり、生徒たちの手から手へ。今では数え切れないほど大勢の人に愛されている。

 その最初の花を、くれた人だった。

 再び闇に包まれる視界の中、彼女は手さぐりで彼の姿を探した。幾筋も皺の刻まれたその手に、ひんやりと冷たい少年の手が重ねられる。

 そのまま二人は、何も言わずに過ごした。

 時間にして、僅か三分ほど。

 彼の手がすうっと溶けて消えた後、彼女は眠るように息を引き取った。

 淡い紫色の花束を、胸に抱いて。


 ◇


「――ねぇ、高遠くん。この花、いつ咲くの?」

 土いじりに熱中する僕に話しかけてくる、女の子らしい軽やかなソプラノの声。

 振り向かなくても分かる。クラス委員の椎名さんだ。

 僕は俯いたまま、地面に向かってボソッと答えた。

「梅雨が明ける頃には、咲くと思うよ」

「そう、楽しみだね――」


「……なにこれ、ひどい! せっかく、もう少しで咲きそうだったのにッ」

 いつも明るく気丈な彼女が、唇をわななかせる。とっさに手のひらで口元を覆うものの、大きな瞳からは今にも涙が零れ落ちそうだ。

 僕はジャージの裾で手のひらの土を払い、立ち上がった。ゆっくりと振り返り、初めて正面から彼女を見つめた。そして、彼女を落ち着かせるような、なるべく穏やかな声色で告げた。

「大丈夫だよ」

「だって、こんなに踏まれて……」

 興奮のあまり真っ赤に染まった頬と、尖らせた唇が可愛らしく、クスッと笑みが漏れる。

 僕は心のどこかで確信していた。小さな薄紫の花を手にした彼女が、嬉しそうに笑う……そんな姿が見られることを。

「この花は強いんだ。これくらいで死んだりしないよ」

「そうなの……?」

「うん。絶対咲くから、待ってて」

 彼女が半信半疑といった面持ちで、僕を上目遣いにみやる。僕は力強く頷いてみせた。

 そのとき、太陽を隠していた小さな雲がスッと横に退き、一筋の光が差し込んだ。まるで僕たちに、スポットライトを当てるみたいに。

「――分かった、待ってるね!」

 煌めく光の中、彼女はポニーテールを風に揺らし、花開くように微笑んだ。

↓解説&作者の言い訳(痛いかも?)です。読みたくない方は、素早くスクロールを。













『三分間のボーイミーツガール』というお題に沿って書いた作品です。本命用に初稿まで書いてた作品が、ちょっと(かなり)面白くなかったので、急きょ半日ほどで書いてみたのですが……はい、やっちまいました。orz なんつーか「お涙ちょうだい」的な人死に系の話って、小説の神様にハンデもらった感がありますな。でもここまで露骨なのって初めて書いたから、許してちょんまげ。あとは病気で死別するカプル話を書けば……いや、さすがにそれは書けないぉー。(←病気の下調べするだけで号泣するピュアっ娘)

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