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わんこと美容師(次男の事情)4

未成年の飲酒はいけません。

 呑気に友達と話しながら、授業の終わった学校を出てびっくり。


「紅子ちゃん」

「ぎゃあっ!マジで出た!」


 爽やかな笑顔の佐久間さんが、冗談抜きに玄関で待ち伏せしてるじゃないですか!太田裕美です、ユーミンです!

 宣言通りとはいえこの行動、か弱い乙女の心臓止める気ですかっ!片思いの相手にこんなことされたら、普通勘違いしますよ、当然!


 そう、あたし気付いちゃったんです。


 気付かなきゃいいのにバカだからさ、一晩じっくり寝てパカッと目が覚めたらね、しみじみと自覚です。

 ああ、佐久間さんが、好き。

 って。手の届かない有名人だったのが、隣のお兄さんクラスまでレベルダウンしたせいか、そりゃあもう、見事なまでの滑落っぷり。悲しいかな、恋って途中で止まったりできない直滑降なのね。

 そんな理由も相まって、自覚後初めてお会いする彼は、背中に花背負っちゃうキンキラ具合で、見えるのだ。

「ひどいな、その逃げ方」

 ちょっと不機嫌な眉間にシワとかも、とかもねっ!ズッキューンと、古いマンガ的表現で心臓直撃なわけですよ。

 不覚ぅぅっ!


「こここ、紅子、紅子、紅子!!佐久間さんじゃん、本物じゃん!」

「うっそ、マジで?!きゃーっ!サイン下さい、髪切って下さい!」

「触っていいですか?つーかなんでここにいるの?まさか、紅子待ってるの?!」

 はっ!いかん~ちょっと現実逃避して星空一人旅をかましてる間に、ハイエナ娘共が早速かぶりつきだわ!引き離さなきゃ、またおかしな誤解されちゃうじゃない!佐久間さんの笑顔が引きつってきてるよ!

「オレは…」

「はいはいはい、そこまで!」


 何事か口にしようとした彼は無視で、押し寄せていた友人達を押し戻すとさっさと佐久間さんの腕を取って逃走態勢。

「質問、予約、お障り厳禁です!明らかにあたしの客なんで、ここで失礼。尚、メールおよび電話による説明もしないから、一切その手の連絡しないで。じゃ!」

 とまあ、こんな具合にですね、一気にまくし立てたら後ろの騒音はそっちのけで、離脱あるのみです。

 あんな姦しい連中に付き合ってたら、一生かかってもあそこから動けないっての。疲れるだけで、いいことないんだから。

 で、早足に鼻息荒く、遅い午後の街を逃げてたんだけどね。


「紅子ちゃん?」


 抱え込んでた腕から微かな抵抗を感じて、はっとした。

 しまった…あたし、佐久間さんの腕にしがみついたまんまじゃん…つか、力一杯引っ張ってた?下心あるヤツは嫌いだってあんなにはっきり罵られた記憶があるのに、バカじゃん!またまた誤解の種じゃん!

「きゃぁ~~~!ごめん、ごめんなさい!!」

 慌てるあまり放り出すみたいに佐久間さんの肩ごと押し退けて、あわあわしながら盗み見た無表情に自分をぶん殴ってやりたくなった。


 怒ってる、めちゃめちゃ怒ってる!誤解、決定!またあの時みたく謂われのない糾弾を受けたら…今度は泣くかも知れないなぁ、好きだし…しばらく再起不能な失恋の痛みに転げ回っちゃうんだわ。

「決して、決して、邪な下心などありませんから、許して!お願い佐久間さん!」

 縋るわけにもいかないから(触れないでしょ、これ以上)拝み倒してみたんだ。神様、仏様、佐久間様~って言いながら。

 そしたら、無表情が一層深い無表情に移ろって、重い重い溜息の後、彼は言った。


「樹」


…ああ、はい…。

「い、いい、いつ、いつ、いつき」

「どもらずに」

「はうっ!い~いつき~」

「伸ばさずに」

「いつき…」

「元気よく」

「いつき!」

「もうちょっと色気出して」

「いぃつぅきぃ~」

「普通に」

「樹」


 しつこさに疲れてきたトコだから、思わず自然と出たよね、名前が。

 言っちゃった後、なんとも言えない恥ずかしさに頬が熱くなって隠そうと俯いたらね、うっすら微笑んで彼は、ぐしゃぐしゃ頭を撫でるのですよ。

 そんで、なんでだか嬉しそうに言うの。

「可愛いね」

………どこがですか。つーか、この人のツボがわかりません…。



 いそいそ学校まで出かけてドキドキしながら紅子ちゃんを待ってた時は、ハッピー。

 お化けで見たような顔とかわいくない悲鳴で逃げられて、へこむ。

 鬱陶しい女の子達に絡まれて、いらいらして。

 思いもかけず彼女の胸に囚われた自分の腕にニマニマしてたんだけど、うっかりオレの部屋と逆方向に歩き出した紅子ちゃんを止めたせいで、手は離されるし謝られちゃうしで虚ろ。


 結局、名前を何度も呼んでもらえた事で気分は上昇したけど、今日は感情の起伏が激しすぎて、気をつけないと暴走する。うっかりキスしてるとか、めちゃめちゃやばい事態になる危険大だから。

 隣を歩く紅子ちゃんをチラリと見て、いけない欲望を頭を振って追い払ったオレは、無理矢理鮮度の良い野菜に意識を戻すことで頼りない理性を引き戻した。

 今日のシェフは隣人の不埒な思考など知りもせず、なにやら黄色い山の前で思案中のようだ。


「う~ん?ねぇねぇ…い、樹、どっち?」

 真剣な顔して両手にグレープフルーツを乗せた彼女は、しばらく首を捻った後こっちにそれを突き出してきた。

 外見の変わらない黄色いそれの、どこを悩んでるって?

「柔らかい方が熟してる?薄オレンジの方?」

 そう言われてよく見れば、確かに色が少し違う。だけど。

「砂糖かけるんだから、熟して無くてもいいよ」

 果肉にじゃりじゃりと砂糖を伸ばして食べれば、ほろ苦さ以外の酸味はあまり感じないだろうと言えば、まん丸に目を見開いた紅子ちゃんは信じらんないと呟くのだ。


「なんで砂糖?どうやって食べる気?これ、柑橘類だよ?」

「わかってる。ほら、百パージュースの表面に載ってる写真みたいに真半分にカットして、その上に砂糖乗せてスプーンで掘って食べるの。やったことあるでしょ」

「ない。つーか、変それ。普通みかんみたいに剥いて食べるか、4分の1とか8分の1にカットしてかじりつくでしょ」

「はあ?そしたら薄皮ごと食べるハメになるだろ」

「当然。そこ食べないとおいしくないじゃん」

「いや、あれは舌がぴりぴりするから人間は食わない」

「あたし、人間だもん!」


 その後続いた不毛な言い争いは、おおよそ公共の場所でするようなモノじゃなくて、だけどお互い譲れないモノだから延々と続いて。

 通りすがりのおばさんにくすくす笑われるに至るまで、終息は見えなかったのだ。

「ふふふ、仲が良いのねぇ」

 ええっと驚きながらも内心オレは嬉しかったんだけど、顔を見る限り紅子ちゃんは複雑そうだ。しきりに否定の言葉を紡ぎながら、どうにも返答に困っている風で。


「あら、照れないで。でも、そうね。新婚の頃はどうしても生活習慣の違いで揉めちゃうのよね。箸の持ち方とか、味付け、あなた方がやってたみたいに調理法なんかでもね。私もよくお父さんと言い合っていたものよ」

「や、あの、ですから…」

「せっかくハンサムなダンナさんを掴まえたんだから、ちょっとくらい我慢なさいな。そのうち貴女の味に彼が慣れてくれるから、大丈夫よ」

 そう言って朗らか笑うと、おばさんは店の奥に消えていったわけだが。

 余計な妄想もオレの頭の中に置いても行ったわけで。


 隣で赤くなってまだしどろもどろ。何とも可愛らしい紅子ちゃんが、奥さん…俺の若奥さん…。

 エプロン姿で玄関に走り出してきて『おかえりなさい、樹』とか…小首傾げてちょっと頬の染まった笑顔で言われたら……いいよなぁ…。なんかしみじみ、幸せだよなぁ…。

 ああ、まだ付き合ってもないからちょっと遠い道程だけど、最終的にはそこに行き着けるのが希望、としよう。 オレももう三十路手前で結婚してもいい頃だし、そういう相手って出会ってすぐに結婚考えるって、いうもんな。


 その通説が正しいなら、彼女は正にオレの運命の女ってわけだ。

 ところが、じーっとおたついてる紅子ちゃんを眺めていると、その視線に気付いた彼女は弾かれたように顔を上げて、ブンブン勢いよく顔の前で手を振る。

「間違っても!い、樹のお嫁さんになろうとか考えてないから!そんな恐い目で睨まないでよ」

 怯えた顔で言われて、ふっと自分の眉間に皺が寄ってたことに気付いた。

…タイミング、悪いよな。ほんの少し前ならやに下がったアホ面晒してたってのに、どうやって彼女に自分の気持ちを伝えようか考え込んでるうちに、怒り顔みたくなっちゃったわけか。


「…気にしてない」

 悔しさが滲んだ声は、自分で驚くほど素っ気なくて。

「嘘ばっか」

 ちょっと唇を尖らせた彼女が、疑いの眼を向けてくる。

「嘘なんかつかないよ」

 そんで、意地みたいに返した言葉に、当然、紅子ちゃんが納得してくれるはずもなく。

「…ふ~ん」

 当たり前だけど彼女に、オレの本音は伝わらなかった。

 そりゃそうだ。わかるよかよ、こんなんで…。


 1人じゃ到底考えつかないメニューを一緒に作って(なんとか言う洋風料理だった)、お互いお勧めの食べ方でグレープフルーツの新しい楽しみ方を発見して、こんなに知名度が上がるまではお店で寝起きしてたとか、スタッフやお客さんが増えるとそうもいかなくなって、緊急措置で空いてるお姉さん夫婦のマンションに転がり込んだけど、実は分相応の家を探している途中だとか。

 いろんな話しを、した。

 満足したお腹と、すっごい飲みやすいワインとのせいか樹は饒舌で楽しそうで、伝染したみたいにあたしも楽しくていっぱい笑って。


「おお、すっご~い」

「だろ?」

 なんとなく移動したのは、かしこまったリビングじゃなく、少し散らかった彼の部屋。

 床いっぱいにご自慢の仕掛け絵本コレクションを並べた樹は、あれもこれもと広げてカラフルなそれらを一緒に楽しく眺めていた。

「初めて見たっ!恐竜図鑑が飛び出すって、格好良すぎ」

「うん、いいよな、これ。なんか、逆に子供に触らせられないとか、思っちゃうんだ。破かれたら絶対まずい」

「あはは、そうだよね。結構高いんでしょ?洋書だし」

「あ~ちょっと、な。紅子ちゃんならこれとか好きじゃない?ちょっと変わり種だけど」

「え?スポンジ?ウレタン?何これ~気持ちいい~」

「英語がお勉強できるんだよ。試験の前にどう?」

「ちょ、これ子供向けじゃん!」


…なんて、会話を。ぺたりと床に座り込んで、頬がくっつくほどの距離で、ワインを飲みながら。

 好きな人の隣で、ドキドキしない女の子がいる?

 あたしみたいに慣れてないと尚更で、けたけた笑ってた時は平気だったのに、改めてあまりの近さに気付いたら、どうしようとか、緊張するとか、顔が、顔が。


「紅子ちゃん?どう…」


 急に静かになったあたしにかかる訝しげな声は、目があった瞬間、止まって。

 逸らせない視線はゆらゆら不安定なほど近すぎて、樹の変わる瞳の色を鮮やかに映して見せる。

 なに、考えてるんだろう。また、怒ってる?あたしが、罠でも張ってるって?

 悔しいな。

 こんな時、経験のなさがあたしを不安にさせる。読めない心が、おかしな憶測を呼んで、恐くなる。

 息苦しくて、逃げたいのに体は動いてくれない。樹も動かない、だから。

 目を閉じた。

 見えなきゃ、捕らえられてるみたいに硬直することもないって言い訳して、またキスしてもらえるんじゃないかって、浅ましい期待をして。


 待つことに、こんな息苦しさを感じたことはない。1秒が長くて、もどかしくて。

 肩に、髪に、指が絡んだことに、安堵して恐怖する。

 呼吸が耳朶じだを舐め、アルコールで熱くなった声が、鼓膜にぐるりと回った。

「オレを…試してる?」

 試す?試すって、なにを?

「据え膳食わないとでも?理性的な男だとでも?」

 思ってない、そんなこと。だって、言ったじゃない。しばらく彼女いなかったからその…たまってるって。好きじゃなくても、できるんでしょ。キスくらい、くれてもいいじゃない。

「ねえ、男の部屋で目なんか閉じて、どうされたいの」

 そんなの、決まってる…。

 言ったら、望む通りにしてくれるんだろうか。やっぱり、下心があったんだって、嗤う?


 樹が離れた気配に、慌てた。

 今、引き留めなきゃ、いなくなっちゃう気がして、手を伸ばして彼のシャツを掴んで。

 キスしてって、言うつもりだったのに。

 見上げた先でその顔が、自嘲に歪んでるように見えて、だから。

「好き…それだけじゃ、ダメ…?」

 持ってるのは、これだけなの。



 経験を積んでいようと初めてだろうと、結局残るのはただシンプルな気持ちだけなんだと、悟った。

 楽しくて、忘れてた。オレが彼女に言ったこと。

 あんな風に罵っておいて、真実なんか見ようともしなかったくせに、調子よく好きだと言ったところで、今更信じてもらえるもんか。


 これほど、胸がうずくのに。


 ほろ酔い加減で屈託なく、君は隣りに。近くなった距離に警戒することもなく、無邪気に。

 手を伸ばしたら消えてしまうだろう穏やかな世界を、壊す気にはなれなかった。

 隠してしまえばいい、なにもかも。そうすることは得意だ。客を楽しませるように、紅子ちゃんを笑わせられれば、それで良い。

 今は、まだ。


 けれど、願いは容易く叶ったりはしないもので、不意に彼女は動きを止めると俯いて、感情を消してしまった。

 また、何か言ってしまったんだろうか。彼女が怯えるような、不用意な言葉を投げた?

「紅子ちゃん?どう…」

 探る声は見上げてきた瞳とかち合って、止まる。

 引き寄せれば簡単に腕に収まる距離で、彼女は怯えた表情でじっとオレを見つめているのだ。


 何を考えているんだろう。あの透明な瞳の向こうでどんな感情を抱えて、言葉を呑んで。

 問いかける言葉もなく、じっと息をひそめることしかできず。

 不意に閉じられれた瞼は、オレがどうすることを期待しているんだろう。

 もう充分すぎるほどに失敗している身としては、下手を打つことはできないけれど、好きな相手が無防備に目の前にいて、触れずにいることもできなくて。

 髪に肩に躊躇いながら指先を絡めて、歓喜し恐怖した。

 抱き寄せるけれど、キスしちゃ…まずいよな。


 でも、微かに震えるどこもかしこも、奪ってしまいたい。思うさま。


「オレを…試してる?」

 ぶっ飛びそうになりながら、でも、踏み出すには勇気が足りない、オレ。

 君の許しが欲しいんだ。

「据え膳食わないとでも?理性的な男だとでも?」

 オレはその辺にいる男と、どこも変わんないんだよ。イヤらしくて、好きな子の全部を奪いたいと浅ましく願う、小さなヤツなんだ。買いかぶらないで。

「ねえ、男の部屋で目なんか閉じて、どうされたいの」

 バカにするなって怒鳴ればいい。あんたみたいな男、間違っても好きならないって罵れば。

 そうすれば謝って、縋るのに。臆病な自分が吐いた毒に染まりながら、許しを請うのに。

 彼女の怒りを受けるため離した体はけれど、伸びてきた手に止められる。

 指はきつくオレのシャツを握って、大きく見開かれた目は不安に揺れていて。


「好き…それだけじゃ、ダメ…?」


 泣きたくなった。

 駆け引きもない、嘘もない。ただ純粋に彼女から溢れる言葉が、意気地のないオレを満たして悔しくさせる。

 謝らなくちゃいけない、ちゃんと言わなきゃ、オレこそが素直にならないと。

「ダメなのは、オレだ。ごめん、紅子ちゃんにひどいこと言って。自分が恐いからって、君を傷つけた。好き、どうしょうもないほど、紅子が好き。お願い、俺のモノになって」

 大事にするから、一生、1番好きだから。


 彼女はとても驚いていた。ぽかんと口を開けて成り行きが判らないとばかりに、しばらく考え込んで。

 だけど、破顔一笑。

 押し倒す勢いで飛びつくと、頬に可愛いキスをくれる。

「うん、許す。だから、樹もあたしのものになってね」

 ああ、それは当然。世界で一番甘い、契約。



 これは、諦めた方が無難、かな。

 そんな風に思い始めた頃合いを計るよう、困った樹の声。

「ねえ、どうしても自分でやらなきゃダメなの?」

 鏡越しに見やった彼は、許しが出たらすぐにでも飛んできそうな勢いで、嬉しいやら悔しいやら。

「…ううん。もう、諦めた。お願いします」

 吐息混じりにヘアアイロンを差し出すと、ホッとした彼はいそいそとそれを手にしてあたしの後ろに陣取った。


 ここは、高さに目も眩む高級マンションじゃなく、普通のアパートの1室。

 とはいえ、住もうと思ったらやっぱり、高いなとか感じちゃう作りの部屋だけど。

 1人暮らしのくせにLDKに寝室、小さな書斎と客間がついたメゾネットって豪華すぎるよ。お風呂も広いし。

 引っ越しのお手伝いに来て一緒に見て回った時そう言ったら、じゃあ、紅子ちゃんも住んじゃったらって。それと、お風呂が広いのは2人ではいるのに丁度いいでしょって。


……最近の樹は、初めて会った時からのイメージと違いすぎて、恐いんだよ。なんだろ、猫が1枚べろっと剥げた感じ。めちゃめちゃストレートで、優しくって、ちょっとエッチで。

 ドキドキってよりヒヤヒヤする。いろんな意味で危険だから。


「こうやって縦に巻いてね、小分けにだよ、欲張らないで」

 リビングに立てかけてある姿見の中であたしは、さっきまで苦戦してたのが嘘みたいに綺麗なゆるいロールをいくつもくっつけていた。

 さすがプロの樹は、ドラッグストアに売ってるスタイリング剤と電気屋で千円で買ってきたアイロンでも、ちゃんとした髪型をつくれる。苦労なんかすることもなく、いとも簡単に。


「…あたしだって、頑張ったのに。なんで樹に勝てないかな」

 くるんと巻いた髪を引っ張って、ぶすっと零す一言には、実はいっぱいの負けが詰まってるんだ。

 ご飯作るのも、掃除や洗濯の速さ、お化粧も全部全部樹に敵わなくて、そりゃあ巻き髪を作ることで勝てるなんて少しも思ってなかったけど、でも、せめて上手にできたらびっくりしてもらえるかなって、張り切ってたのに。

「そんな細かいトコで勝つ必要ないだろ。1番大きなトコで、紅子ちゃん1人勝ちなんだから」

 ぷっと膨れた頬に口づけながら笑った樹は、後ろからぎゅっとあたしを抱いて、くすくす笑ってね。


「絶対、オレの方が君を好きだよね。キスするのも抱くのも全部こっちからで、そっちからは1度もない」

「っなに、その判断基準!」

「他にもあるよ。好きって言ってくれないだろ、お泊まりもしてくれない、一緒に住むのもダメで、お風呂にはいるのもダメ、毎日も会ってくれないし…」

「ストーップ!そんな、しょうがないのばっかりじゃん!」

 指折り数えて挙げればまだあるなんて鏡越しに笑う樹は、猛然と抗議するあたしにふと真剣な顔をして。

「いいや、そんなことないね。1つくらいできる」


…そうだけど。

 だってね、なのよ。こんな綺麗な顔の人に、好きだとか、照れて言えないんだって。

 元より、面食いなんだし、遠い存在だとかイヤなヤツだとか、いろいろ理由をつけていた頃はまだしも、てらいもなく張り付かれる毎日とか、恥ずかしくてホントダメ。

 顔が赤くなるし、苦しくなるし、どうしようもなくなって、なにもできないんだもん。


 自分の赤面具合にやっぱりできないと首を振るんだけど、今日の樹はなんだかしつこかった。

 いつもならこの辺りで解放してくれるのに、しょうがないなって笑って話題を変えてくれるのに、ぎゅっとあたしを抱く腕に更なる力を込めると、早くと急かす。

「どれでも良いよ。紅子ちゃんができると思うことで。好きって言う?泊まる?キス?」

「でぇ…できないです、無理」

「あのね、オレだって不安になるんだ。たまには聞かせて、お願い」


…やっぱり、あたしは樹に勝てない。

 おねだり顔は、やたらドキドキさせるし、唇は魅惑的だし。

 え?結局、どの願いを叶えたんだって?

 あのね、人生は長いんだよ。そんなの、小出しにするに決まってるでしょ。

 たまにね、言うこと聞いてあげる程度で良いの。

 気紛れなわんこって、案外飼い主に受けたりするんだから。


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