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わんこと美容師(次男の事情)2

 無駄な厚みが消えて黒い瀧みたいになったあたしの髪は、基本ストレートだ。

 すごいのは何の変哲もない髪型なのに、いけてるってこと。貞子にも見えないし、保育園児みたいな幼さもない。

 カール1つないのに、きちんと大人の女の人がする髪型に見えるのがすごい。


「やっぱり、この方が似合う」

 自分の作品に至極満足げな佐久間さんは、人の頭を子供みたいにひと撫でして微笑んだ。

「巻くのもいいけどね、紅子ちゃんにはこっちの方が似合うよ」

 そう、さっきまでのあたしはアイロンで必死に作ったスタイルで童顔が隠れるよう、涙ぐましい努力をしていたのだけれど、佐久間さんは手をかけずに年相応に見えるものを簡単に作って見せた。

 顔だけじゃく技術があるんだから、人気が出るわけだよね。


「…すごいです、ホント」

 だから、諸々忘れて呟いた言葉に、嘘偽りはなかったのに。

「本気の本気でそう思ってる?」

 ちょびっと疑り深い言い方に、むっとする。よく見れば表情もどっかからかうみたいに楽しげで、マジ、むかつくったら。

 やっぱ、さっきのキスもからかったんだよね?子供相手だと思ってバカにして。

「思ってますよ」

 口をとがらせて横を向くと、こ、こ、今度はっ!

「何するんですか!」

 ほっぺたに触れた唇を引きはがすよう、屈み込んだ佐久間さんの顔を手のひらで押しのけた。

「痛い」

 悪びれるどころか哀れを装って見せてもダメ。そんな顔に騙されたりしない!

「当たり前です、力一杯押しのけたもん」

「どうして?」

 真っ赤になって否定した顔をのぞき込まれて、小さなスツールから転げ落ちそうになったところを支えてもらうんじゃ、離れるどころか密着率は増したわけで。

愚かすぎるあたしは、30センチも離れてない佐久間さんの顔を直視できずに、目を逸らした。

「こっち向いて。でないと、またキスするよ?」

 途端、飛んでくる少し低い声に、びくりと大げさなほど反応して、ちらりと視線を上げる。


 ちゃんと向き合おうとかそんなつもりじゃなく、ただ、急に変わった佐久間さんの雰囲気を確かめたかっただけ。

 怒ってるのか、ふざけてるのか…それとも真面目なのか。

 ただ、知ることができれば良かったのに。

 絡んだ視線に捕まった。呼吸もできないほど強く。

「…どうして?キスされるの、嫌い?」

 反論を許さない真剣な表情が、少しだけ緩む。

 それはまた冗談めかした掴めないものだったけど、いまのあたしにはありがたいことこの上ない。

 聞きたいことを口にするには、この人の真剣は恐すぎる。


「意味もないキスをされるのが、嫌い…なの」

 絞り出した声に、重なるのは何故かくすくす楽しげな笑い声で。

「可愛いからキスするのは、立派な理由にならない?」

「…ならない」

「え~犬だって猫だってぬいぐるみだって、抱きしめてついキスしたことあるでしょ?」

「するけど…それとは違うでしょ」

「違わないと思うなぁ。だって、紅子ちゃん道ばたでオレに拾われたじゃない。あれ、捨て犬とどっか違う?」


………ずれてる………。この人、果てしなくずれてる。

 世間一般のってより、あたしの感覚と。そりゃもう、激しく、地球とM78星雲くらいは距離がある。

 人間を物品扱いする時点でおかしいだろって、突っ込んでもわかるとは思えない。

 だって、あたしに問いかける顔は、キスを重要視してる日本人とは少しばかり違って見えるからね。欧米人てのとも違って、これは遊び人って言うんだきっと。


「あたしは、佐久間さんに生活の全部を頼り切るペットじゃないんで、拾ったとかそんな表現に当てはまらないと思う。ついでに、めちゃめちゃつまらない恋愛観を持ってるせいで、好きな人とのキス以外認めたくないし、だから可愛いと思ったからキスとか、できる人がわかんない」

 人でなし相手だとわかった途端、体は実に正直に抵抗力を取り戻していた。

 美人に対する無条件の好意に勝る、嫌悪。

 伸ばして突っ張った腕で佐久間さんを遠ざけると、スツールから降りて充分な距離を取る。

「じゃあ、オレが紅子ちゃんを飼っちゃえば、キスしても抱きしめてもオッケー?ペットが飼い主に愛情を抱くのは必然だもんね」

 にこにこがへらへらに見えてきた。

 なんで、そんなバカを言えるんだ、頭わいてんじゃないの?

「野良犬はね、ペットショップで売ってる子犬と違って、飼い主を選ぶんです」

 眉を跳ね上げたあたしに、相変わらずな佐久間さんは、大丈夫と何故だかいきなり胸を張る。

「絶対幸せにしてあげるから。野宿するより幸せになれるって」

「…あの、あたし、家なき子じゃないんですけど…」

 どうしてくれよう、この兄さん。


 取りあえず、佐久間さんに対する認識を変えるところから、始めようかね。

 ズズズッと出されたコーヒーを行儀悪くすすり上げ、自分で持ってきたロールケーキで饗されて、人物像を書き換えていたあたしは、軽々しいキスの原因はそこにあったのかと納得中だ。

「5年、フランスとアメリカにいたんだよね」

 本人もこう言うし、斜め読みした雑誌にもそう書いてあった気がする。

 つまり、あれさ。外国生活に面白いほど馴染んだお兄さんは、日本国内においては一歩間違うとお巡りさんに捕まるスキンシップ過多が、お気に入りかつ得意技であると。

「佐久間さんは、西洋人だ」

「いや、日本人だけど?」

 己に言い聞かせるうちにうっかり口をついたらしい。

 ローテーブルを挟んだあっちのソファー、微笑んだまま嫌味なくらいの素早さで否定した奴を睨んで、あたしはもう一度、今度は意思を持って言葉を発する。


「佐久間さんは、西洋かぶれの日本人だ。キスは挨拶、口説きは社交辞令…ラテンか、ラテンだな」

 トレビの泉で、マタドールで、カーニバルだ!サンバだチャチャチャだマンボだ!

「ううん、日本人だって。別に西洋人にもかぶれていないし、ラテンの国にはお邪魔したこともない」

 頭の中でけたたましく笛が鳴り響いているあたしに向かって、彼は苦笑とかしちゃいましたよ。

 この人の常識はずれな行動に理由付けをしてあげている、心優しいお嬢さんに向かってなんたる事かしら!

「そんなん、どうだっていいんだって!ともかく、さっきの遣り取りは全部ウイットに富み過ぎた冗談で、今後会うこともないだろうからこの場でキレイさっぱり忘れようじゃない、お互い。ってこと!」

 勢いよく立ち上がって腰に手を当て、びっと指さすパフォーマンス付きで一息に言い切った後って、妙な達成感があるよね。

 いや、こんな事そうしょっちゅうやってるわけじゃないんだよ?どっちかっていうと、普段のあたしは傍観者で、これを得意技にしてるのは早希だから。ただ、いつも隣にいたせいか疑似経験が多いんだよね。とっさの場合、思わず言動も行動も似ちゃう程度に、我が友人殿はいつでもどこでも無謀なあどべんちゃーだからさ、ははは…。


 ともかく、はっきり言わなきゃわかんないだろうと宣言したわけだけど、佐久間さんの余裕は崩れない。貼りついてんじゃなかろうかって笑顔のまんま、なんで?と首を傾げるのだ。

「せっかく俺と知り合えて、髪も切ってもらえてキスももらえて、優越感でいっぱいなんじゃないの?友達に自慢したんでしょ、サニーデイズでただでシャンプーしてもらったって」

 はい?

「最初は、確かに俺を知らなかったよね。だけど誰だか分かった途端、電話くれて殊勝にもお礼渡したいなんて陳腐極まりないきっかけでつなぎを取ろうとしたんだから、忘れられたら困んない?」

 …ああ、はいはい、納得。

 こんなとこまで来てなんだけど、ようやくあたしはカチリとチャンネルがあったわけで。


「つまり、佐久間さんはあたしの下心に見合った行動をとってくれたわけだ」

 合点がいったと呟いた声に返事はないけれど、それこそが答えってもの。

 急に開けた視界で見れば、あの微笑みも蔑みがたんまり含まれてるって分かるし、初めて会った時には親切心からだった佐久間さんの行動が、今日は終始利害に絡んでいたんだと理解できる。


 Give and Take


 髪を洗って貰ったお返しには高級洋菓子を、髪を切って貰ったお礼にはキスを、笑えない冗談で場を盛り下げて、これ以上一つでも要求したらその見返りはあたし自身?

「ペットって、あれですか。あたしの価値は彼女なんて高級なもんじゃなく、気が向いたら構って貰える愛玩動物程度で充分て、こと」

「そんなあからさまに言うと、俺、人でなしみたいだな」

 随分楽しそうにこぼした佐久間さんは、悪びれたりしない。もちろん否定もしない。

 当たって欲しくない時ほど当たる推理は堂々と的を射て、怒るより先に呆れたってのが本音だ。

 さっきも感じたけど、この人とあたしの間は決して届かない距離がある。年齢とか経験とか関係してるんだろうけど、過去一体どんな目にあったってのか、他人の気持ちの裏を探らずにおられないとは、憐れな大人だ。純粋な子供の自分に、ホッとするね。


「で、望みは何?店の方の予約は残念ながら一杯だから、友達をねじ込んでくれって言うならキャンセル待ちになる。見せ物になれって言うなら料金は先払いが、いい。俺ここんとこ面倒で彼女作らなかったし、仕事忙しくて女の子引っかける暇もなかったから、たまってるんだ」

 思考の中に沈んでしまったあたしを引っ張り上げたのは、楽しそうな顔して氷みたいな声出す佐久間さん。

 さて、どうやって断るのが効果的で一番胸がすくだろうか。

 あーでもないこーでもないと検討中だった頭の中に、更に流し込まれる冷水とは。

「純情な恋愛観とかぶって俺の気を引く必要なんてなかったのに。君みたいな子、間違っても好きになんかならないから」

「そりゃ、こっちのセリフだ!」

 最後まで笑顔を崩さなかった美貌が、顔に押しつけられたケーキと頭からかけられたコーヒーで様変わりしたのは、ちょっとした見物だったね。

 だだ、早希が乗り移ったみたいで、ちょっぴり自分が恐かったけど。えへ。



 1週間、10日と時間が経っても、薄れることのない怒りを知ってる人の憎悪は本物だ。

 きっとそれは一生涯恨んでやる~とか、呪い殺してやる~レベルなんだろうなぁ。

 あたしだって、始めはそのくらいの勢いはあったんだよ?でも、1日、2日と過ぎるうち日常生活のあれこれに紛れて、すっかり気持ちが風化しちゃったの。

 そりゃ思い出せばそれなりにムカツクし、許してやろうとかいう気は更々ないんだけど、あれやこれやと悪いところをあげつらうことができるほど、奴を知らないんだよ。

 たった2度、ちょこっと話して時間を共有しただけで、今後会うこともない男をずーっと腹立つ~嫌いだ~と言い続けられるほど、あたしは暇じゃないし、人生の浪費癖もない。

 相応の仕返しは、ばっちりその場でしてるわけだし。


 つーわけでこれは、イヤな記憶はキレイさっぱり箱詰めして、記憶の底に沈めちゃった頃の災難。

 ごく希に、店先で確保しようとしたモノに、別の人の手が伸びることがあるでしょ?

 それは深夜に近いコンビニで、冷凍ケースのあっち側とこっち側、ニアミスはハーゲンダッツの上空で起こった。


「…」

「…」


 ふと顔を上げた先に、固めるテンプルで処理したはずの美貌があったら、取りあえず無表情になっていいと思う。

 次いですっと目を細め、同じように感情を消した顔を一瞥してから、さっさと希望商品を取ってレジに向かうのだ。

「315円になります」

 機械的な声音に小銭をチャリンと置き、目的を果たして店を後にする。

 急いだりしちゃダメなのだ。もちろんワザとぐずぐずするのも厳禁。普通に、あくまでナチュラルを気取るのが肝で、プライドを守る最良の策。


 教えてくれたのは、早希だ。

 むかついてかけた長電話の中、やけに真剣に言ってたっけ。

『本心見せたら、負けだからね。男なんて、涼しい顔して内心汗だくのくせに、少しでもこっちが隙を見せたらつけ込もうって、質の悪い生物なの。感情は上手に隠しちゃいな!』

……自分と同程度の子供だと思っていた友人から、実体験に基づいた貴重なアドバイスを頂けるのは、ありがたいやら切ないやら。まあ今更どうにもならない恋愛スキルの低さを嘆くより、感謝しつつポーカーフェイスを作れた自分を褒めてやるべきだろう。

 寒さの消えた春の夜風に、ふっと唇を緩めると。


「なにが、おかしいんだか」

「うぎゃっ!」

 急に間近で聞こえた低い声に飛び退いて、ばっくばっくスピードを上げた心臓に手を当てる。

 人の寿命を数年縮めた本人はクソ偉そうに腕を組んで、冷笑というにふさわしい表情を浮かべて、あたしをロックオンですよ!射すくめてますよ!こえーっ!

「この間は、ケーキとコーヒーをどうも」

 あああっ!嫌味だ!目とか座ってんだけど!全身で怒ってるって、言ってんだけど!


 マジびびりして固まっていた憐れな身の救いといえば、一緒に凍り付いちゃった顔で。

 おかげさまな事にそれが、怯えとか恐怖とかを上手いこと隠してくれたのだ。なので、佐久間さんは吐き捨てる勢いで言い募るわけ。

「返事なしか。悪い事した自覚がないんだな。レザーのソファーをダメにして?ジーンズとTシャツをダメにして?へぇ~」

…あのさ、自分を省みることはない?…ああ、そう。そうね、貴方が一番お偉いわけね、はいはい。


 強気な様子は聞くまでもなく、あたしが全部悪いと語っていた。

 なので変な罪悪感が消えて、大助かり。あたしはね、ちゃんと反省とかしてみたりもしたし。コーヒーはともかく、ケーキまではやり過ぎだったかな、とか。食べ物粗末にするのは良くないし、クリームなすりつけちゃうのは昔のコメディアンみたいで、イマイチ?とか。

 なのに、なのに!


「自業自得じゃん」

 知らんぷりして歩き出してやる。悪いわけない。悪人はそっちだとばかりにさっさと背中向けてね。

 だけど、1、2歩踏み出しただけで肩を掴まれて、あっという間に阻まれちゃう。

「逃がすか」

 って、不穏極まりない男に。指がギリギリ食い込む痛みであたしを脅しながら、奴は楽しげに囁くのだった。

「ソファーは30万したんだ。ジーンズはビンテージ、Tシャツは2万。どうしたら、いいだろうね?」

 そんなもん、決まってるじゃないか。

「洗え!」

 すっぱり言い切ってやったら、反論された。


「紅子ちゃんがね」

「冗談!」

「なら、弁償する?」

「なんであたしがっ」

「君がやったから」

「………」


 そこはまぁ、変わらない事実ですが。

 しかし、30数万払える経済力もなく、畳み掛けられたせいで動揺して、本当は佐久間さんが悪いんじゃんて主旨をすっかり頭からはじき出しちゃった、あたしがとった行動といえば。

「…お詫びにこれあげるってのは、ダメ?」

 だいぶ溶けてるかも知れないアイスを、断腸の思いで差し出すってこと。

 315円が…クリスピーサンドが…ストロベリーちゃんが…食べたかったのにっ。

「ぶっはははははっ!!」

 ところが人の決断を体半分に折り曲げてまで、笑い飛ばした佐久間さんは、ふっと真顔に戻って言い切った。

「ダメ」

え~、後お財布に500円玉しか入ってないんだけど~。



 愛しのハーゲンダッツちゃんでも、500円玉でも許してくれなかった極悪人佐久間某は、本気であたしに命じやがった。

『キレイにしてね(はぁと)』

 薄ら寒い声音で人を高級マンションに押し込めた奴は、稀代の怠け者に違いない。

「…ありえないっしょ~…」

 呆然と呟く視線の先に、信じられない物体がちらほら。

 白地に鮮やかな茶を施したレザー、白とベージュのトッピングを施されたオレンジの布、褪せたターコイズブルーは所々水玉模様が飛んで、床はガビガビ、テーブルにマグとお皿がのっかてる。

 つまるところ、一週間と少し前のまんま。なっんにも片づけてない、手をつけてない。むしろ増えてるじゃん。汚れた服脱いで現場におきっぱって、どうよ?


 あの日、ここにいたのは衣類じゃなくそれを纏った男だ。高慢ちきで根性曲がりで自意識過剰な美容師。間違っても蝉の抜け殻みたいな洋服じゃない。

「いいけどさ、中身がいるより…」

 呟いて、再度自分がしたことを確認して。

 吐息1つを合図に、固まっていた手足をどっこいしょと動かし始めた。

 もうすぐカビが生えるんじゃないかってクリームも、色素沈着決定なコーヒーも、きっと手遅れなソファーも、このまんまじゃ美しくなることはないわけで。故に早期解放を望む身としては清掃は避けて通れぬ道なのだ。


 ああ、めんどくさい。ああ、しんど。

 のろのろと家主がとっくに消えた屋内を捜すは、清掃道具。

 希望は…そうだな、バケツに雑巾、あったらフローリング用洗剤とか欲しいんだけど。生クリームは油分たっぷりだからなぁ、水じゃ落ちないしなぁ。

 で、家捜し一部屋めは、玄関から廊下を歩いてすぐのランドリー室ですが、ですがですよ。生まれてこの方平民一筋。中流万歳、いや片足は下流階級に突っ込んじゃってんじゃないってな人生を送ってきたあたしとしましては、洗濯するために一部屋あるとかありえないんだけど。つーかここ、家の風呂場くらいあるけど。

 でんっと鎮座する洗濯乾燥機以外、なーんもないシンプルな部屋は、生活感もないがバケツもなかった。見つけた洗剤もトッ○じゃ、使えもしない。


「ちゃんと生活しろ」

 稼働経験があるかどうかも怪しいそこを後にするにあたって、唾棄したのは僻みでしかない八つ当たり。

 虚しいな…さっさと次に行こう。

 水回りの隣は水回りだ!

 予想通り、扉の向こうはでっかい風呂むかつくことにジャクジーつき場で、こちらは紺のタイルとガラス素通しの扉、浴槽が水滴に濡れていたから、お使いなさっておいでらしい。

 そらね、客商売だし?男だって清潔一番、お風呂は重要ですよ、ええ。

 けど、洗うのは体だけじゃなく含む床でお願いしたい。掃除しないとマズイでしょ。どうしてここにも雑巾がないんだ!


 イライライライラ…。


 ぴっかぴかのお風呂の隣は広々トイレですが、こんなトコにバケツが入るか!…てわけで、次。

 向かいは空き部屋、斜め向こうも空っぽ。キッチンには鍋なくてヤカンなくて、食器棚にはグラスとカップだけ、ついでに覗いた冷蔵庫は水とビールと氷だけ。

「野菜食べなさいとか言う以前じゃん。食事しようよ…」

 電気ポットがなきゃ、お湯も沸かないとこで無理な注文をしてはいけない。

 いいかげん、虚しくなってきたこの探索。残るは後2部屋。


 脱力しながらまさかね、と開いた先は予想通りの寝室でここに掃除道具があったら詐欺ってもんで。

だけど、唯一、あたしの好奇心は反応した。

 ネイビーと白を基調とした室内は所々ビビッドな小物や色が飛んで、レトロな雑貨屋みたい。無意味な看板とか、幾つものミニカー、直置きされた往年の名優のパネルなんかが格好いい。

 カラーブロックに乗っかったマットレスだけのベッドも寝乱れてぐちゃぐちゃで、ソファーは服で埋もれて本体がどこにあるんだか見えもしない始末。

 相応に散らかって明らかに佐久間さんの巣だと断言できる、生活感ありありの部屋。この住処の中で一番落ち着けるとこ。

「なによね~こんないいとこ、隠してたのか」

綻んだ口元そのままに、車いじったり本棚を漁ったり。うっかりデリカシーに欠けすっかりアドベンチャーと化していたあたしは、またまた愚かにも本末転倒かましてたってわけで。


「…真面目にやる気は、ないな」

 ぐふぐふ言いながら仕掛け絵本を開いてた背中に、低い声を聞いて硬直する。

「紅子ちゃんさ、プライバシーって言葉、知ってる?」

 ぎぎぎぎぎっと振り返ると、婉然なりし佐久間さんは本心が覗かぬ故におっかなかった。

「お、怒ってる?怒ってるよね、ごめんね?バケツがね、雑巾がいないんだよ。洗濯室もお風呂もお勝手も、いないの、ホントに」

「オレの部屋にもないだろ、そんなの」

 動揺限りなしで支離滅裂気味なあたしに冷静に返した彼は、手元の絵本を指してなんか急に楽しそうよ。

「これ、面白いよな。ここ、飛び出すし」

「っ!そう、楽しいの!こっちも動くじゃない」

「うんうん、次のページもいいぞ」

「ホント?あ~マジだ、かわいい~」

「あはは…掃除しろ!」

 ばこっと、油断したトコはたかれると、痛い。マジ痛い。


「痛いよぅ」

「当たり前。そのように叩いたから」

 涙滲ませて頭を押さえるあたしを冷たく見下ろして、どこから出したのかバケツと雑巾を押しつけた佐久間さんはびっとリビングを指して今一度お命じなさる。

「か・た・ず・け!キレイにするためにいるんだろ」

 そうなんですけどね。

「続き、気になる」

 絵本だけど、たぶんオチなんて存在しないだろうけど、最後まで読めないとすっきりしないじゃないか。

未練たらしく床に広げた物を示したら、彼は優しくいったもんだ。


「終わったら、見てもいいよ。他の…これとかこれとかも、読んでいい」

 そうしてあたしの前を横切るように伸ばした腕が引き出した数冊の仕掛け絵本は、まるで餌のようで。 接近したせいでふわりと香る佐久間さんのコロンが、甘ったるく追い打ちをかけて。

「やる!がんばる!」

「うん、がんばれ~」

 なでなでなで。

 子供が親に励まされるように頭を撫でられて促され、迂闊にも嬉しくなって一心不乱に床磨いたり洗濯したり。

 はたっと気付いたのは、ほとんど仕事が終わった後。

「…あれ?なんで、ご機嫌よく仕事してるよ、あたし」

 誰もいない空間に向かって、首傾げ呟いてみた。

 むむむ、佐久間さん、あんた人の使い方上手いな!それとも、あたしが単純バカ?



「これは、どうにもなんなかったです」

 バケツと雑巾を置いた後、再び消えていた佐久間さんが戻ってきたのは、タイミング良く掃除が全部終わったところだった。

 で、多少の申し訳なさを込めて指したのは、茶の染みが薄れた程度のソファー。

 ホントは悪いとか思ってないけど。これ見るたびにムカツクあのセリフを思い出すから、腹立つんだもん。

 でもまあ、キレイにする約束だったし、謝るくらいはしてもいいかなっと。形だけね。


「へ~それは困ったな」

 当然あっちだって、それを悟ったように返事はおざなり。

 向かいのソファーにふんぞり返った王様スタイルで、投げやりにちょっと視界に入れた後ちらちら本を振っている。

「じゃあ、これ読めないね?」

「っ!なんで!他はキレイにしたじゃん」

「終わってないんだから、しょうがないだろ?」

「終わったの!これ以上落ちない、絶対落ちない、落ちるもんかっ」

 めちゃめちゃこすったけど、無理だったんだもん。


 だってね、考えてもみて。コーヒーって布を染めたりもするものなんだよ?それをさ、このものぐさ男が何日もほっとくからレザーだってキレイさっぱり染まっちゃうわけよ。

 恨みがましくソファーと佐久間さんを見やると、ほんの一瞬思案顔をした彼は、それならと代替え案を提示してきた。

「お腹すいたし、ご飯作ってくれない?おいしかったら、見せてあげるよ」

 おお、それならできるっ!

「やるやる~!!」

…って、安請け合いしたまではよかったが。


「うがーっ!佐久間さんどうやって生きてきたわけ、今までっ!」

「え?テキト~?」

 首傾げるな微笑むな!可愛くて腹立つ!

 キッチンに鍋一つない状態で何が作れるって言うのだ。忘れてたけど、冷蔵庫だって空だ!

 モデルルーム通り越して引っ越し前みたいなキッチンで、あたしが頭を抱えたのは必然。どうやら隣で笑ってる男もわかっててこの提案、した節がある。


「どうしてできないこと言うかな、佐久間さんは!」

「そりゃ、テスト中だからだろ」

「なんのっ!」

「内緒」

「なんじゃそりゃー!!」

 もうどうするよ、この男…。

「ははは、取りあえず買い物に行くぞ。いろいろ必要なんだろ?」

 頭を抱える人間の意思を無視してずるずる引き摺るの、どうかと思う。つーか、わけわかなんないこの人に付き合ってるあたしこそ、どうかと思う。


「…あのさ、弁償したらもう許してくれる?」

 理不尽から逃れる方法っていうのは、いついかなる時も確認しとくべきじゃないかとね。

 あんま苛めるとキレるぞって、脅したつもりだったんだけど。

「え?許さないよ」

 さらっと…マジさらっと流されたんだけど。

 引っ張る力は全然緩まないし、歩みもとまんないし。

「お金の問題じゃないだろ、もう」

………どの辺が、もう、なの?つーか、最初から最後までお金の問題でしょ、これ。


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