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できる女と、できる男、その結末(長男の事情)

 出世なんか望んでないし、ましてや結婚したくないなんて口が裂けても言ったりしない。

 あたしは平凡な主婦になるのが夢で、子供だって3人や4人は欲しかったのよ。

 なのに!


「井上チーフ、資料間に合いません~」

「泣いてる暇あったら、自分の脚で探しに行きなさい!」

「チーフゥ、予定の半分もできてないんですけどぉ…」

「根性、気合い、使えるものを総動員すれば何とかなるわ」

「すいません、今日本当にプレゼンするんですか?物理的に無理なんじゃ…」

「それを部長に言ったら、どうなると思う?」


 戦場のごとき企画室内を取り仕切る立場に自分がなろうとは…予定は未定ってよく言ったものね。

 誰でもいいから、ここにあたしと結婚してくれるって男を連れてきて!寿退社させてよぅ、お願い。


「井上チーフ」

「はいっ?!」


 泣き言さえ言わせてもらえずこの期におよんでまだ仕事を押しつけるつもりかと、殺気立って振り返った先には社内結婚したい男ナンバーワンが立っていた。


「星野課長」


 うんざり見やった営業二課の冷血課長は、もちろんあたしが一生を共にしたい相手では断じてない。

というか、お金を積まれてもお断りしたい。きっとそれは彼も同じだけどね。同期の中じゃピカイチに相性が悪くて、顔を合わせればいがみ合う周囲に言わせると『同族嫌悪』の二人なのだそうで。

 だから、奴は神様があたしの望みを聞いて送り込んでくれた夫候補でないことは確か。フロアも違うここに降って湧く理由さえないとくれば、厄介ごとを持ち込んできた予感はヒシヒシと。

 つんと顎をあげて、ごった返す部内を視線で示すと先制攻撃。


「先に断っておくわ。忙しいのよ、絶望的に」


 ところが敵も百戦錬磨の強者。鼻につくせせら笑いで軽くいなして来るじゃない。


「先に断っておこうか。こっちも譲れない用件でな」


 火花どころか爆発が起こりそうな緊張にもめげず、己の仕事を悲鳴混じりにこなしていく愛しの部下達はよっぽどせっぱ詰まってると見える。

 いつもなら物見高い視線が集まってくるってのに、今日は閑散としたもの。静かに星野と言い合うというのも、物足りないような、よけいな茶々を入れられる心配がなくて好都合のような、なんとも複雑な心境ね。

 どことなく締まりに欠ける言い合いに肩すかしを食らった気分だったんだけど、星野はあたしの様子なんて気にかけることなく背後の人間を指し示す。

 さっきからチラチラ見えてはいたのよ。長身の奴とさして変わらない上背で、にこにこ人好きのする笑みを浮かべたそりゃあ若い男がね。まるで新卒みたいじゃない…?

 果てしなく嫌な予感がするから、知りたくなかったりもするけど。


「まさか、でしょ」

「正解だ。我が社期待の新人、佐久間宝。本日より企画課井上チーフの下で2ヶ月間の研修に入る」


 やっぱりかぁ…死滅しかけた記憶の隅で、部長が一月後はうちにくるからよろしくなって無責任に笑ってた光景がフラッシュバックしたのは幻じゃなかったのね。

 なんであたしが面倒見んのよって拳を固めた自分も見えたけど。


「どうして、今よ」


 きっちり固めてある髪は、掻きむしれないのがよろしくないわ。

 それほどいらつく内情を紛らわせる術はなくて、叫び声をかろうじて押さえた私にできることと言ったら、下げたくもない頭を下げて奴に助けを求めることなんだから、情けない。

 とりあえず今日1日、何とかしてもらえれば誰かどうか手が空くのよ。

 仇敵じゃなく、哀れな同僚を救うと思って、それがひいては社の為になると溢れる優しさでフォローしてもらえないもんかしら。


「今日だけでいいの、そっちで預かってくれない?」


 虚構と欺瞞に満ちた懇願は、だがしかし相手を見て発動すべきだったのだ。

 初めてお目にかかる穏やかな微笑みを浮かべた星野は、真逆の冷徹な口調で意図も容易く言い捨てたんだから。


「断る」


 で、くるりと踵を返して颯爽と退室ってわけ。

 ふざけんなっ!ちょっとくらい、検討してろっての!!


「鬼、悪魔、人間のくず~!!」


 高笑いで返した奴を、飛び道具さえあればあたしは撃ってたね、間違いなく。蜂の巣にしてたさ、穴だらけさ!


「まあまあ、落ち着いて下さい、井上チーフ」

「あんたが言うな、元凶!」


 優しく宥められたって嬉しくも何ともないわ、むしろむかつくのよ佐久間宝!

 限界を超えヒステリックに喚く女上司はきっと、あたしがもっとも嫌うタイプの女に見えたに違いない。

 ほら、三十路近いとやけにぴりぴりして余裕なくって、仕事にもプライベートにも焦りまくってますぅ、ってあれよ、あれ。

 実際30は目前だしね、仕事は切羽詰まってるし、私生活はあるんだか無いんだかわかんないくらい今パニくってるけど、爆発だけはさせないよう気をつけてたのに、大失態!でも止まらないわ、暴走した感情って。


 勢いづいてたまった不満やら怒りやらを無実の新人に投げつけまくって、ストレス発散をしまくってたあたしは次第に落ち着いてくる自分と共にひとつ理解したことがある。

 佐久間宝という人物は、やたらと女の扱いに長けてるってこと。

 あ、誤解ないように言っておくけど星野と違ってたらし風ってのじゃないわよ?ヒスを起こした女を刺激せず大人しく話を聞いてる姿勢が、こんな場面に慣れてるなって感じさせるの。

 現に、すいません、大丈夫ですか、大変でしたねの相づちでかなり落ち着いたあたしは、己を恥じることができる程度に冷静さを取り戻しているものね。


「ご、ごめん。初対面だって言うのにいきなり八つ当たりから始めちゃって…」


 素直に非を認め頭を下げると、伺い見た彼は一瞬瞠目したあとにっこり微笑む。


「気にしないで下さい。社の決定事項とはいえこんな時に来てしまった僕も悪いんです」


 …このセリフ、星野に聞かせてやりたい。ああ、彼の爪の垢を煎じて飲ませてやりたい!

 さっきの奴が少しでも佐久間宝と同種の優しさを見せてくれたら、喚くこともなかったのに。

 いいわ、いいじゃない!顔は充分可愛らしいんだし、いるだけで癒し系小動物くらいの働きはできるわ。仕事教えるのは明日まで待って貰って、取りあえず今日は邪魔しない程度にぶらぶらしててってことで手を打ちましょう!

 非常事態に解決の光明を見いだしたあたしはすっかり機嫌も良くなって、生暖かく新人を見守ることができそうな心理状態になっていた。冷静な井上チーフ復活よ。


「雑用得意ですから、パシリだと思って都合良く使って下さいね」


 けなげなことを言う可愛らしい新人は、大好き!

 笑顔を絶やさない好青年、悪いけどいいように使われてちょうだい!

 振り返れば猫の手も借りたい忙しさの企画室。小生意気な研修社員はいらないけれどバイト並みに働く気のある君なら救世主にだってなれるわ。

 藁をも掴むつもりでありがたい申し出を受けた後、単純作業に人手を必要としていた部下に彼を貸与したのは大正解だったと、終業時間が来る頃に知った。

 可愛いだけでなく、仕事もできる男だったみたいよ、佐久間宝は。



 研修中の新人ごときには破格すぎる歓迎であると、指定された店を見ればわかった。

 洒落たダイニングバーは10名弱の団体に何とか対応できる広さしかないけれど、雑誌にも紹介される有名店で、なるほど会費の高さと比例した雰囲気の良さだと納得できる。

 職場の飲みにしたら高級すぎるかも知れないけれど、男を口説くには最適。

 幹事になった子は確か佐久間宝の1年先輩だったものね。充分射程圏内、将来有能な男には今から目も手も付けとくのが得策だと、よくご存じでいらっしゃる。


 せいぜい頑張るのよ、あたしみたいになる前に…って自分で言っててイタイ、イタイ。


 三々五々に集まってくるメンバーが思い思いの席に散らばっていくのを横目に、一番邪魔にならない場所、つまり出入りのしやすい端にどかり腰を下ろしてタバコの先に火をつけたあたしは、疲労と現実の無情に長々紫煙を吐き出した。

 仲間が親交を深めようってところに、上司がいつまでもいるほど野暮なことはない。更にそれが、有望株を奪い合う合コンに兼ねられていたのなら、邪魔者はさっさと消えて然るべきだ。

 30分ほど付き合ったら適当な言い訳をつけて退散するのが礼儀、デリカシーよ。


 …本音を言うと、ただ休みたいだけは、オフレコだけどね。


 3日前、死ぬ気で上げたプレゼンがようやくお偉いさんのお眼鏡にかなって、追加提案も修正も終わった週末、リラクゼーションと休息に全力を傾けないときっと倒れる。

 無駄に遅くまで街をふらつくよりお風呂に入って眠りたいっての。酒より栄養ドリンクを欲しているのよ、体は!


 そんなあたしのことなどお構いなしに、元気な若者による元気な会合はスタートするわけで。


 はしゃぐ女の子と、目の色が違う男性諸氏と、5つ、6つの年の差は体力からテンションまでかなりの隔たりを見せつけてくれた。

 佐久間宝狙いの子達も、その子等を狙う子達も、赤勝て白勝てみんながんばれって蚊帳の外なら気楽に応援できるわね、ホント。


「相変わらず、タラタラ飲んでるな」


 そんな愚にも付かないことを考えているから、こんな馬鹿が隣に座っていることに今の今まで気づけないなんて醜態をさらしてしまったのだ。

 嫌ってほど見覚えのあるニヤケ顔は、不覚にも過去愛を語り合うなんて馬鹿なことをしてしまった男で、くやしいことに同じ課にいて三つ先輩で上司だったりする、加納義樹。

 今晩はあたしのチームの打ち上げで新歓なんだからこいつがいたら変なのに、どうしているのかしら。しかもなんで耳打ちとかしちゃうわけ?必要以上にくっつくの。


「大きなお世話様ですわ、係長様」


 わざとらしく椅子を引き派手に距離を広げて顎を上げたのに、少しも応えてはいないと再び近づいてくるから空気が読めない、神経が太い。

 だけどその崩れた相好の奴が、いい男に見えてた時期があったんだから、恋って盲目、恐ろしいわ。

 ま、世間一般ではエリートって言われちゃう部類だし、見かけもそこそこあたしも若かったってことで、キレイさっぱり忘れたいんだけどね。

 こう周りをうろちょろされたんじゃ、それも難しい。


「つんけんするなって、可愛くないぞ」

「結構じゃないですか。そう言ってふった相手が未だ以て可愛げがなければ、良心も痛まないでしょ?」


 めいっぱい吸い込んだ紫煙を思い切り奴の顔に吹き付けてやれば、少しは胸もすくってもの。

 数年前、溺れきり惚れ込んでいた相手から


『泣いたり笑ったり縋ったり、喜怒哀楽がはっきりした可愛い女が好きなんだ。慧子けいこの強さは尊敬できるが、好きじゃない。だから、別れよう』


 笑顔でにっこり、なのに随分はっきり言われたもので、しばらくは何も考えられないくらい落ち込んだのだ。

 傷ついた心の分、ヤツのプライドを踏みつけたっていいじゃないの、ねぇ?

 だって、治せないんだもの。20数年この性格できて、今更キャラ変えられないでしょ。

 なのにふざけんじゃいないって切り捨てられないほど彼が好きで、最悪なことに別れた後も出勤したら顔を見ちゃう環境で、かといってこのご時世気軽に転職もできないし、だから。

 気を紛らわそうと必死に仕事をしていたら、男はできないし婚期も逃げた、いいことなし… ってだんだん腹が立ってきたわよ。


「…全部こいつのせいだ」

「何か言ったか?」


 こそっと呟いた声が聞こえていないことにまたむかついて、呑気な顔をひと睨みすると手元のカクテルを飲み干し立ち上がる。


「おい、どこへ…」

「帰るんです」


 あんたが消えないなら、あたしが消えるまで。元より長居するつもりのなかった店を出ることに、未練なんか爪の先ほどもないわ。むしろ不快な物体を視界に入れときたくないって感情の方が強い。

 見下ろした体勢から高慢に睨み下ろし、バッグを拾ったら踵を返して格好良く立ち去るつもりだったの、邪魔なんか入らない予定でね。

 ところが、ぐっと引かれた腕が計画の狂いを全身に伝えてくる。

 ピンヒールがクラリとバランスを崩し、踏鞴を踏んで思わず舌打ちが出てしまった。


「放してくだ…っ」


 全く、しつこいっ!と、出かかった声が認めた微笑みに一瞬詰まって、消える。


「帰るんですか?」


 加納係長の向こうから伸びた手の先には、子犬のような佐久間宝がいつの間にかいて、どうしてなのか周りの女の子の不満そうな様子は無視であたしなんかを引き留めていたのだ。

 てっきり危険行為に及んであたしの足を止めたのは係長だと思ってたのに、何故彼が?既に酔ってて、最悪なことに絡み酒とか言うんじゃないでしょうね。お局様でも幼稚園児でも堕とせそうなアイスクリームスマイルを、むやみやたらと人に向けたら、犯罪だってお巡りさんに捕まっちゃうんだから。

 けれど絡め取る微笑みは、まずいことに真っ直ぐこちらをターゲットにして、


「帰ってしまうんですか?僕はまだ、チーフと一言も話せていないのに」


 …くらっと、きたわよ。

 うっす暗い照明の下だっていうのに、お構いなしに殺人光線を撒き散らしてからに!思わずぎゅっと抱きしめたくなっちゃったじゃないの!!どうしてくれよう、この小動物!

 なんて心の叫びはうまく押し隠すのが大人の余裕、下らない見栄。


「ひと月はたっぷり絞られる上司と話すのなんてね、研修最終日だけで充分。余計な感情があると鬼だ悪魔だって私を恨めなくなって、辛いわよ?」


 無表情に、味も素っ気もない口調で言い放って格好をつけてみたのに。


「確かに、慧子は情け容赦ないからな。懐くと後悔するぞ、新人」


 人の話に割り込むんじゃないとか、わざわざ名前を呼んでさも自分たちが親しげな仲であるとアピールするんじゃないとか、へらへらするなとか、叫びたい程度にこのバカが全てをぶち壊しにしたわけ。

 だけど、唇を噛んで怒りを飲み込んだのは、周囲が聞き耳を立てていると知っていたから。

 係長と付き合っていたことは秘密で、そりゃ同期の中には知ってる子達もいたけれど、寿退社で減っていって今同じ課にこれを知ってる人間はいない。心地いい忘却だったっていうのに、どうするの、また奇妙な噂とか立っちゃったら。

 耐えがたきを耐えて、忍びがたきを忍ぶのよ!

 感情を殺して凍り付いたあたしと、勝ち誇ったように笑う係長。

 怒りで真っ赤な頭じゃまともな言葉も探し出せないと困り果てていたところに、助け船を出してくれたのは佐久間宝だった。


「ダメですよ、係長。許可無く女性のファーストネームを呼んだりしちゃ、セクハラで訴えられちゃいます。危険です」


 ねえっとおどけた調子で周囲の男性社員に同意を求めてくれたから、一拍後、我も我もと上がる体験談や不満、女子からの更なる抗議でその場は上手く収まりがつき。


「さ、チーフも座って、飲み直しましょう?」


 爽やかに微笑まれちゃうともう、毒気を抜かれたあたしはストンと座り直してしまったのだ。

 横目に苦虫を噛み潰したような係長を認めつつ、ね。


「……ありがとう」


 いつの間にか用意されていたグラスからジントニックを一口と、小さなお礼をひとつ。


「これ、おいしいですよ」


 その笑顔、気付かないフリ?それとも、ホントに分かってない?

 彼はそんなあたしの疑問には構うことなく、仕事の話にちょこちょこプライベートを織り交ぜるって上手な興味の引き方で、夢中にさせて。

 いつの間にか、係長のことをあたしの視界からも思考からも消してしまった。

 年下のくせに、うんと若いくせに。10も年上の頼れる男に見えるこの子は、謎だわ…。




 何でもそつなくこなす新人なんて嫌みにしかならないはずなのに、佐久間宝は持ち前のユーモアとキュートな容姿を使って課の中にうまくとけ込んでいる。

 それは前にいたとこでも同じようで。


「うちの課でも万人にかわいがられていたな」 


 ニヤニヤと人の悪さのにじみ出た笑みが似合いすぎる、今最も嫌いな男がそう請け合った。


「ええ、そりゃあもう、あたしの指導なんていりませんてほどうまくやってるわよ」

「なんだ、手取り足取り教えたいのか?」

「はぁ?そんなわけないでしょ?!」


 激高するこちらのことなどお構いなしに、就業中故おそろしく空いたカフェのわざわざ隣に腰を下ろしてしまった星野はなおもじりじり人の神経を逆撫でるのよ。


「最近、加納の馬鹿がまとわりついてるんだって?」

「…情報源はどこ」

「機密事項だ。一瞬凍り付いた場を佐久間が和ませたと聞いている。事実だろ」

「だったら?」

「うっかり奴に惚れてやしないかと思ってな。ピンチを救う男は輝いて見えるようだから」

「自分がそれで欲しいものを手に入れたからって、あたしまで同じ物差しで見るんじゃいわよ」

「…どういう意味だ?」

「美月ちゃん、可愛くなったわね~」

「どこから聞きつけた」

「それこそ機密事項よ」


 ギンッと睨み合う様は、小さい子なら泣いちゃうんじゃなかろうかという凶悪さ。あたし達にとっちゃ日常茶飯事だけれどね。

 美月ちゃんと仲良くなった切っ掛けは、アホほど性格の悪いあんたと対等に、時にはそれ以上に渡り合う彼女に、打倒星野のコツをマジ顔で尋ねに行てから、なの。

 切羽詰まったあたしに同情してくれたのか、娘さん同伴で(これにはさすがに驚いた)食事に行って以来、星野の悪口や他愛ない世間話、果ては人生論まで熱く語った結果、年の差を越えた友情でも結ばれちゃったわけよ。

 もちろん、彼女の楽しい恋愛話も進行形で聞いてるから、こいつの弱みはイヤと言うほど握ってる。でも、それを使って美月ちゃんの恋に水を差しちゃいけないもの、黙ってるわよ。

 さっき程度の揺さぶりで、十分効果的だしね。


 ま、その辺はともかく。


 突然声をかけてきた星野の意図もわからないし、係長の件も知っている、佐久間宝に惚れたかと尋ねる等怪しい言動が多い奴には、警戒を怠らないに越したことはないだろう。

 そんなわけで、こちらからは一言一句心情を漏らすまいと黙りを決め込んで、不気味な同期の出方を観察に入る。


「…加納の方は、大丈夫なのか?」


 予想というのは、裏切られるためにあるのねぇ。

 平坦な声にきちんと気遣う響きを乗せて、星野はコーヒーをすする何気ない仕草の中、聞いてきた。


「今の所はね。絡まれそうになると佐久間宝がタイミング良く横やりを入れてくれるものだから、平穏無事に過ごしてるわ。直接対決を避けてる分、あちらの考えてることがわからないけど、取りあえず目立って害はないし」

「ほう、それはそれは…気味が悪くないのか?佐久間に監視されているようで」

「…ないわね、不思議と」


 だから、おもしろい子なのよ、彼。

 周囲をうろつく元彼はうざいし気色悪いんだけど、佐久間宝が見かけに似合わない少し低めの声で出してくれる助け船は、むしろホッとさせる安心感をもたらすのだ。

 考えようによったら常にあたしを見てるってことだし、背筋が寒くなってもおかしくないんだけどね。そこは癒し系小動物の特権ていうのか、可愛らしく微笑まれちゃうと毒気も抜けるっていうか。


「やはり、惚れたんだろう?」


 人が心理の妙に浸ってるってのに、毒と邪気で構築された有害人間代表は、好奇心丸出しに探りを入れてくるからイヤらしい。


「セクハラオヤジめ」


 唾棄したあたしに、どっから出すのかその余裕。口角上げて、ついでに片眉上げて、


「俺がオヤジなら、お前もおばさんだろう」


 って。いちいちむかつく男ねっ。


「自覚してるわよ、そんなもん。でも、あたしはセクハラおばさんじゃないわよ?」

「惚れたのかと問うことの、どこがセクハラだ」

「ふん、最近じゃ女がセクハラと言えば男に反論する余地なんてないの。常識」

「…いやな常識だな」

「覚えておいて損はない常識よ」


 しばし言い合い、しばし沈黙。

 互いに冷え切った珈琲を啜りつつ、実のない会話に砂を噛むと取りあえず本題に戻るわけで。


「加納はバカだが、悪人じゃない。かといって、自分よりできる女と付き合える器もない。つまるところお前達はどこまで行っても平行線で、死ぬほど好きだった男だからと復縁なんぞしようもんなら、明日はない。わかってるな」

「わかってるわよ。あたしだって何度も同じ男に泣かされるほど、バカじゃない」


 こいつに心配されるようじゃあたしも終わりね、と思いつつも他人に気にかけて貰うのはやっぱり心地いいなと、妙にしんみりしてしまうのは1人の時間が長くなってきた証拠なんだろう。

 どっかの歌の文句みたいだけど、横のいけ好かない男ですら一生一緒にいたい大切な誰かを見つけたのよね…焦るなぁ。

 日本企業のご多分に漏れず、我が社もそれなりの年齢になった女性には結婚やら寿退社やらのお勧めが始まるわけで、その後の進退はともかくあたしだって遠回しにちくちくやられてるわけ。

 だけどそんなものより痛いのは、こうして同僚や友人が次々結婚していくこと。全世界の幸せを独り占めしたって顔してね、


慧子けいこも早く相手見つけなさいね』


 って…何度聞いても哀しくなるのよ、このセリフ。


「…どっかにいい男、余ってないかしら」


 カチリとライターが吹いた火をタバコに移して、吐息混じりの愚痴を星野は笑い飛ばす。


「いるだろ、佐久間が」


 どこまでも自分の意見に固執する男なんだから。

 だけど睨み付けた奴は少しも笑ってなくて、驚くくらい真面目な表情をしてあたしを見下ろしていた。

 立ち上がり、空のカップを持って半身を振り返らせながら。


「自分の恋のスタートがわからないって人間は、案外多いぞ。じっくり向き合ってみろ、心と」


 …なによね、自分の恋愛はうまくいってるもんだから偉そうにしちゃって。

いつか足下掬ってやるわ。



 なにもかも、星野のせいよ。

 余計な一言は尾を引いて、ろくろく仕事が手につかなくなったあたしは、今日もムダに残業中である。

花でも咲いてたら思わず原始的な占いをしたくなる程度に混乱していて、突然停電になった自宅であちこち躓く程度には迷っている。

 はたして、恋なんてしてるの…?

 答えを見つける必要は、ないのよね。人肌が恋しいわけでも、寂しいわけでもない。

 仕事が恋人なワケじゃなく、結婚もしたいけど、良く知らない新人がその候補に上るなんて奇跡は論外、あり得ない。

 だけど、佐久間宝の笑顔は嫌いじゃない。いえ、むしろ好き…?違う、好ましいとか、良い感じとかそんな。

 言動も、いいわね。卑屈でなく、高飛車でなく、探りもせず、奔放。

 異性と意識するより先に対等な人間なんだと思わせた、彼。神出鬼没にレスキュー魂を爆発させても気味悪くないのは、いい人カテゴリーに属しているからなのか、恋しちゃうかもゾーンに踏み込んでいるからなのか。


「わっかんないわねぇ…」


 呟いてくるりとボールペンを滑らせた書類の隅には、ここ最近お馴染みとなったコイル状の落書きが白を埋め尽くす勢いで舞っていた。

 気づけば人っ子1人いなくなった暗い室内で、またもや答えの出ない思考に嵌り込んでたあたし。

 増えてゆくのは落書きと書類ばかり、各方面、少しの進歩もないと来ればいやになっちゃうわよね。


「仕事しよ」


 没頭してしまうのが一番いいと、知っているから書類を覗く。

 今週中に新しい企画を上げなくちゃいけない。それは、佐久間宝を鍛えるための手段であり、次のチーフ候補を絞るための大事なお仕事なのだ。

 ますます接触時間が増えるのは、吉か凶か。やってみなくちゃわからないんだから、思い描く時間がムダというもの。、ねえ?でもでも、やっぱり考えちゃうのよね~バカ星野のせいで!


「う~っ」


 どうしたら通常の思考が取り戻せるのかしら?

 脱線しては引き戻すを繰り返すことに飽きて、ひっつめ頭を掻き回した後ぱたりとデスクに突っ伏す。

 はかどらない、はかどらせなきゃ。間に合わない、間に合わせなきゃ。なのに…


「あの、大丈夫、ですか?」

「うわぁぁっ!!」


 きゅ、急に何?!後ろから声かけないでよ、驚くじゃない、心臓バクバクするじゃないっ!

 大げさに過ぎるリアクションで、椅子から転げ落ちそうになりながら振り返ると、そこにいたのは子犬顔も眩しい佐久間宝。企画課のアイドル男。

 呼んでないのにいるとは、読心?!エスパー?!恐いんだか、嬉しいんだか…。


…はぁ?嬉しい…?


 我が呟きながら妙に引っかかるそれに、首を傾げて意味を追うんだけど、とてつもなく強い力であたしを呼ぶ物があるからさあ大変。


「良い匂い」

「あ、差し入れです。コーヒーとホットサンドなんですけど、好きですか?」


 右手に提げられた紙袋に首を突っ込まんばかりの人間に対して、それは愚問ね。


「好き、大好き。飢えてるから袋ごと食べられそうなくらい、好きよ」


 差し出されたそれを遠慮なく受け取って、温かいコップと包みを二つ確認すると笑う。


「奢りの上に、一緒に食べてくれるの?」


 手近なデスクから椅子を引き摺って来た彼は微笑むと、並べられたそれらに申し訳なさそうに頭を掻きつつ、すぐ隣りにストンと腰を下ろした。


「貧乏な新人なので、そんなものしか買えなかったんですけど、よろしければご一緒させて下さい」

「え?充分豪華じゃない。あたし自炊しないから、普段カップラーメンとお茶漬けのヘビーローテーションで生きてるわよ。ジャンクフード大好きだし、コンビニ弁当は友達だし」


 おかしな恐縮の仕方をする佐久間宝を、励まそうと言ったはずなのに内容にうっかり呆然とするあたしって、バカ…。

 まかり間違って星野の言う通り彼に恋をし始めているのだとしたら、今の女捨ててます発言はどれほどのマイナスだろう。

 ヒットポイント半分、かな?それともレッドゾーン?どっちにしろ死に体?

 ところが、軽蔑と冷笑を覚悟して恐る恐る伺った佐久間宝の整い顔は、一瞬固まった直後に弾ける。

 お腹を抱える大笑いで人相変えて、膝まで叩いてゲラゲラやるのだ。


「チ、チーフっ…それ、女捨て過ぎ…っひどい、生活」


 失敬な。苦しい息の間からわざわざ言われるまでもなく、知ってるっての。

 こちらこそ冷たい視線を彼に送って、少し唇を尖らせると弁明にもならない弁明を試みる。だって、悔しいんだもの。


「いいでしょ、別に。できないんじゃなく、やらないだけなんだから。自分のためにごちそう作れるほど1人に満足してないのよ。彼氏でもできれば懐石くらい作ってみせます」


 できないけどね、そんなもん。

 少々収まってきたバカ笑いの男は、この一言に目尻の涙を拭きながらうんうん頷いて、怒ってそっぽを向いたあたしにホットサンドの包みを押しつける。


「じゃ、それは今度僕が食べに伺いますから、今日はこれで我慢しましょうね」


 蓋を外され湯気を上げるコーヒー、まだほんのり温かいパン、白々とした蛍光灯に照らされる部屋。

 どれもいかにも現実で、疑いようのない日常。

 なのに、幻聴が…。

 にこにこと邪気のない笑みには、言外に質問を封じる力があると知っちゃった。

 …で、ホントのとこ佐久間宝はあたしの心の、何を否定して何を肯定したの?




「ここがうまいんだってさ」

「それはようございました。ところで係長、この件ですが」

「今晩7時でいいか?」


 盛大なため息を一つ。

 誰か、この終末バカをどっかに葬ってくれないかしら?

 あんたの印がなきゃ仕事が先に進まないんだって、にやけた間抜け面に書類を叩き付けてやれたらどんなに爽快か。

 引きつった笑顔に気づいているだろうに知らぬふりで、上司の特権を乱用した無理を通そうとする加納に募る怒りを押さえていた頃、助けは来る。

 毎度お馴染み絶妙のタイミングで。


「チーフ。お電話が入っているんですが」


 揺るぎない声、邪気の無い微笑みにこれまで加納が勝ったのを見たことがなく、当然本日も佐久間宝の一人勝ちに違いない、予定。

 なにしろ割って入る理由は正当だから、やましいことをしたり言ったりしている奴が適うわけがないのよ。

 クライアントおよび上司からの電話は何にも優先するってルールがある企画課では、佐久間宝が話し中あたしを呼んでも咎めたりできないんだから。


「ありがとう、すぐ行きます」


 取り敢えず不毛な現状からは抜け出せたわね。

 諸事情により、目が合うと少々照れくさい佐久間宝から微妙に視線を逸らして頷いて、安堵とともに踵を返した後ろ姿に今日はめげなかった奴の勝ち誇った声が飛んできたのは、だから、予想外。


「予約入れておいたからな、遅れるなよ」

「はぁ?!何勝手言ってるわけ!」

「騒ぐな。さっさと電話に出ろ」

「冗談じゃないっ!」

「まあまあ、落ち着いて下さい、チーフ」


 憤懣やるかたなく、下手したら掴みかかったんじゃないかって鬼の形相のあたしを止めたのは、やけに冷静でにこやかな佐久間宝だった。

 そっと二の腕を掴んでデスクまで誘導すると、口実に過ぎないはずの受話器を持たせて囁く。


「係長は僕に任せて。大丈夫ですから、ね?」


 …なにが、大丈夫よ。

 新入社員ごときが、研修中のぺーぺーが、仮にも係長をどうこうできるわけがない。プライベートだって然り、口出しできる道理もないのに、どこから来るかね、その自信。


「………本当にちゃんと、どうにかしてよ?期待はしてないけど、当てにはしてるわ」


 だけど、信じちゃうんだから。そう、思わせちゃうんだから、子犬の皮をかぶったオオカミは、なかなかどうして強かだ。


「誘ったのは、お前一人だぞ」

「あらそうでした?明言なされたわけではないので、連れがいてもかまわないんだと思いましたわ」


 ロビーで待ち伏せた(待ち合わせではなくて、あくまで待ち伏せね)加納の元に、佐久間宝と連れだって到着したあたしは彼を同行することを告げて、冒頭の台詞を頂いたわけ。


「あ、お邪魔ですか?ご一緒したら」

「もちろん邪魔だ」

「全然かまわないわよ」


 控えめな問いに真逆な返答をされても佐久間宝が困ったりしないのは確認済みで、だからあたしから余裕が消えることはない。

 気の重い退社間際、彼に『さあ、行きましょう』って言われて至極簡単でひどく子供っぽい屁理屈にくすりと笑ったことを思い出した。

 そうよね、加納は一言も『二人で食事を』とは言っていないんだもの、佐久間宝を連れて行こうと、


「係長、チーフ~、お待たせしました~~」

「フレンチ楽しみ~」

「こんな大人数でいいんですか~」


 課の女子3人のを同行しようと、問題は無いはず。


「な、おいっ」

「あら、かまわないに決まってるじゃない。社内でも人気の高い加納係長を落とすチャンスよ。みんな頑張って」

「「「は~い」」」


 うろたえる奴を遮るように送ったエールは、さりげにあたしが『優良物件争奪レース』からはずれているアピールでもあるって、加納はわかったかしら?

 部内でも選りすぐりの玉の輿志願者は、仕事より身だしなみや気配りに磨きをかけた精鋭で、本人は認めないだろうけど、奴が好むタイプの女の子なのよ。

 性格は不一致、仕事面でも衝突の多いあたしなんかと時間を潰すより彼にとって有意義な食事会になることは間違いなし、てことで。


「では係長、良い週末を」


 微笑んで佐久間宝を従えると、颯爽とロビーを後にした。

 華やいだお嬢さん方の声も、加納の低いうなり声も聞こえないふりで、すがすがしくね。


「あはは、すっきりしたわね~」


 今宵ばかりは光化学スモックに覆われた夜空も、美しく見えるわ。

 グンと大きく伸びをして、本日の功労者を振り返ると暗がりに邪気のない笑顔がぽっかり浮いている。


「案外うまくいきましたね。皆さん張り切っていたし、月曜日には誰かとうまくいってるなんてこともありそうだ」


 後光が差していそうな雰囲気だったから、言ってしまったのかも知れない。


「…予定がないなら、飲みに行かない?おごるわ」


 下心が、ないとは断言できない誘いを。


「喜んで。いいお店、知ってるんですか?」


 佐久間宝と2人、どうにかなってしまいたい夜は、更ける。



 しゃれた店に連れて行かなかったのは、最後の防衛線てところかしら。

 それとも、あたしの趣味につきあえないような男はいらないって、つもり?

 自分でもわからなくなりながら、おいしいおでんをつまみに日本酒を過ぎるほど空けて。


「赤提灯って、うまいでしょ?」


 キンと冷えた外気に火照った肌を洗わせながら、全く酔っていないように見える佐久間宝を振り返った。


「ええ、すごく…あ、前気をつけて」

「平気、平気」


 気遣う腕からするりと逃げて、ふらりふらりとアスファルトを踊る。

 恋してるって、全身が騒いでた。

 ぐずぐずの出会いから、探り合うような日常、決定打は他愛のない会話と少しのお酒。

 浸透するまでに時間のかからない、男。

 子供の無邪気さで人の中に入り込んで、しっかり根を張ってしまったじゃない。

 今日がなければまだ、自覚症状はなかっただろうに、こうなってはもう後の祭りね。認めるわ。


「ねえ…?」


 スポットライトのような街灯が、佐久間宝をより輝かせる。

 惚れた弱みも手伝って、ピカピカとこれ以上ないってくらい格好いいじゃないのさ、とろけるほど優しく微笑むなんて、卑怯よ。

 そこかしこに闇があってよかった。紛れて、情けないあたしの笑みを隠せるもの。不安に歪んだ、顔を。


「なんですか」


 態度も表情も、なにもかも常と変わらない彼と、一歩踏み出せば壊れるかも知れない恐怖は、酒の勢いでごまかしてしまおう。

 何事にも、タイミングが命だから。ここは、逃さず掴まなきゃ。


「あたし、あなたが好き、みたい」


 噛みしめるように言って、くるり半回転すると星も見えない夜空を仰いだ。

 沈黙は、恐い。返事をされるって想像するだけで、逃げ出したくなるほどの恐怖に苛まれるなんて、学生時代ぶり。


「聞き流してくれていい、酔っぱらいの戯言よ」


 だから、早々に逃げを打つと醒めてしまった頭で白々しい酔っぱらいを演出して2歩3歩、佐久間宝から、距離を取る。

 追いかけてはダメよ。女のプライドはね、実は男より余程高いんだから、駆け引き無く簡単に動揺したりしない、怯えて見せたりしないものなの。

 心の機微に聡い彼のこと、そんな心情も察してくれるだろうと高をくくって、あたしは回ることで今あった事を消してしまおうと、バカなこと、考えてた。

 やっぱり、酔いは簡単に醒めたりしないって、間抜けた行動が証明してるとも気づかず。


「…危ないって、言ったのに」


 とうに手放した平衡感覚が、知らぬ間に電柱を近づけて、故に佐久間宝をも近づけていた。

 背後からあたしを抱きしめ低く掠れた声で、彼は忠告をくれる。


「いい逃げなんて、しようとするからいけない」


 それは、危険行為に対するものでなく。


「貴女が全てを酒のせいにしようとするなら」


 勢いよく振り向かされて、背を電柱に押しつけられて、表情を隠すようあたしの肩口に額を押しつけた佐久間宝が、唸るように続けた。


「僕だって、酔っている」


 キスは。

 これが、なんでも器用にこなす男かと疑いたくなるほどに、乱暴で。

 カチリと当たった歯が、どこかを突き破り血を流させても、なお終わることなく。

 鉄錆味の口づけなんて、もっとあたしを熱くする。


「…挑発、するから…」

「…してないわ、少しも…」


 繰り返して、繰り返して、場所も時間も痛みも忘れて、やがて…溶ける?




 朝日に晒されたら、よく見える現実が恥ずかしくて逃げたくなるってわかっていたから、逃げようとしたのに。


「…随分、早起きですね」


 細心の注意も総て水の泡。ベッドが軋む僅かな振動で目を覚ました彼は、捕らえた手首を握りしめてあたしを見ている。

 凍るほどに冷たく、焼けつくほど熱く、相反する視線を絡めながら。


「そう?休日はすることがたくさんあるんだもの、時間を有効利用するための手段よ」

「冗談でしょ。この前、休みの日は寝倒すって言ってたじゃないですか」


 自分ですら記憶にない台詞を言質に、目を合わせないあたしを良しとしなかったのかベッドに引き戻し覆い被さってキスを。


「…こんなことしてたんじゃ、眠ることもできないわ」

「貴女を逃がさないためだ。疲れて、動けなくなるくらい責めてあげるから…ここに、いて」


 強引なくせに肝心なことはお願いなのね。

 ずるい。そうされたら断れないって、昨夜さんざん確認したくせに。

 肌を重ねながら思うのは、踏み越えてはいけない一線を易々と消してしまった愚かな自分。

 熱いキスのせいにして導かれるままホテルに来たわ。お酒のせいにして服を脱ぎ、彼に請われたと言い訳て抱き合った。

 全てあたしが望んだくせに。一瞬でも彼が手にはいるのならと、目を瞑ったくせに。


「名前を、呼んで」


 日が昇ったら忘れてしまって構わないから、今だけはあたしのモノでいて。

 夢現に溺れ、柔らかな髪を引き寄せて願う。


「慧子」


 耳朶を噛むよう囁かれた声を、刹那を刻もうと。


「貴女も呼んで、僕を、お願い」

「宝…たから…」


 永遠を欲するのはきっと、こんな一瞬。



 …なんて、あんなに盛り上がったのに。


「甘いんですよ、貴女は基本的に」

「えーえーそうね、そんな気がしてきた。すっごく」


 人の部屋で、人のお気に入りのソファーに陣取って、なぜだか機嫌の悪い佐久間宝はコーヒーをすすっていた。

 どうしてだか、あたしをがっちり抱き込んでね。


「都合のいい女でいてあげようと思ったのに、なんでわざわざ深追いするのかな」

「…何度も言ってるでしょ?貴女が欲しかったからです」


 舌先三寸で彼を説得して、昼前にやっと解放してもらった後よろよろ戻ったアパートに、まさか襲撃を受けるとは思いもしなかった。

 勢いでやっちゃっただけの上司を、こともあろうか佐久間宝はこっそりつけて、まんまと上がり込むとお茶をもらって、この状態。

 厄介ごとを好きこのんで背負い込みたいって性癖があるんでなきゃ、彼の行動には愛がある…ってことになるんだろうけど、俄には信じられないわよね、普通。


「あのね、あたしは君より遙かに年上で、会社でも上司。プライドが命の男にとって、この上なくおもしろくない存在だと思うわけ。前途有望な新入社員ならこんな年増選ばなくても、若くて可愛いお嬢さん方がよりどりみどりよ?」


 かなりイタイけど、客観的に見て正しい考えだと確信はある。勢いと雰囲気を利用してしまったやましいさは、その後彼を正道に導くことでチャラにしてしまいたいって計算もね。

 とにかく、つけ込んだとか言われるのは嫌だし、負い目を感じて付き合ってもらうなんて真っ平って、親切にも遊びで終わらせられるよう、先手を打ってあげたのに。


「わかってますよ、そんなの。だけど、彼女たちより貴女の方が可愛いと思っちゃったんだからしょうがないじゃないですか。格好つけてる癖にホントは子供みたいだとか、実は弱虫で甘ったれなくせに必死で強がってるとか、一度気づいちゃうと貴女がどんなに上手く隠しても僕にだけは見えちゃうんです」


 ぎゅっと腕に力を込めた佐久間宝は、一際強くあたしを抱きしめて、髪にすり寄るの。そっちこそ、子供みたいに。


「好きなんだ。だから、素直に僕のモノになって」


 理屈抜き。それが恋だと知っているくせに、どうしても頭で理解しようとする。

 大人になるって、情熱や本能を隠してしまうこと?だから、こんな風にむき出しの熱をぶつけられると、クラクラしてつい、腕を伸ばしちゃうのかしら。


「後悔するわよ、絶対」

「かもね。でも、しないかもしれない。わかんないよ、先なんて」

「バカね、経験者の忠告くらい、素直に聞いてよ」


 ゆるりと首に腕を絡め、まだ思うままに走れる若さに苦笑した。

 いいわ、いつか置いていかれるのだとしても。隣りに立つことを、あたしは選ぶ。


「あたしのモノになりなさいな」

「そんなの、とっくになってる」


 それもそうだと、微笑んで。

 契約成立には、キスで捺印。




「ちょっと、佐久間君、彼女いるんだって!」

「嘘っ!だってこの前はフリーだって言ってたじゃない」

「最近できたって言うんだもん」

「げーっそれってもしかして社内?」

「だって。聞いたら『内緒にして下さいね』とか、可愛い笑顔で言うのよ~」

「いや~!誰、誰なの、その女!」


 ………あたしで~す。…とか言ったら、殺されそう。

 これ、拷問?すっごい精神攻撃じゃない。針のむしろだわ…。

 陽気で楽しいお嬢さん方は食後の珈琲を啜りながら、神経に障るうわさ話に花を咲かせているわけで、 不本意極まりないながら、正体不明の登場人物としてあたしはそこに一枚噛んじゃっている次第。

 せっかくおいしい昼食を頂いた後だってのに、胃がキリキリと軋むじゃない、ねえ?


「チーフ、ご存じありません?」


 なんとか理由をつけて恐怖の会合を抜け出そうと目論んでいたところに、いきなり質問が飛んでくるから、あたしのか弱い心臓は痛いくらいに跳ねている。動揺しちゃうでしょ!元来小心者なんだから、不意打ちとか止めてよ!


「な、なんであたしが知ってるのよ!つーか、どうしてこっちにふる!」


 激しく騒ぐ胸を押さえつつ3人娘を見渡すと、彼女らは一様にだって~と間延びした口調で大した根拠を述べだした。

 曰く。


「佐久間君て、何かとチーフに構うじゃないですか」

「そうそう、面倒見てるって感じで、最近じゃすっかり保護者と園児?」

「係長の大人げない攻撃からも、上手に救出してますよね」


 なんって、よく見てるのかしら!侮り難し、女子社員!

 しかし、ここで簡単に真実をこぼせるくらいなら、苦労はないっての。噂好きなこの子達を敵に回す愚行だけは冒してはならないと、ない頭しぼったわよ、本気で。


「…園児って、もちろん佐久間宝のことよね?よもやあたしを捕まえて3歳児扱いしたり、しないわね?」


 必要以上にドスが効いたことも、無闇と低い声が出たことも、全ては本心を隠したいがための副産物で、それが証拠に彼女らに走る怯えと比例してこちらの安心感は募っていくのだ。

 どうかこのまま有耶無耶にできますように。いらん追求だけはされませんように。

 祈りは通じたのか否か。


「はいはい、就労時間外まで部下をいじめちゃダメですよ」


 またしても、またしても。

 計ったタイミングであたしの腕を掴んだ佐久間宝が、緊張していた空気を一掃して爽やかな笑顔を振りまいているではないの。


「こら元凶!気軽に触るんじゃないの。いらぬ誤解を生じたのは、そもそも貴方の軽率な行動が…」

「その件はまた、改めてゆっくりお伺いしますから、取り敢えず書類見てもらえませんか?承認が降りないんで、僕の仕事が終わらないんです」

「ええっ?!今、昼休み中…」

「僕は昼休み返上で働いてたんです。知らなかったでしょ?」


 知りませんでしたよ、全く!

 ぐうの音も出なくなってしまった上司をいとも簡単に立たせると、保護者とお墨付きを頂いた部下は同席者への配慮も忘れぬ有能ぶりを披露するのだ。むかつくことに。


「お休みの所、すみません。悲鳴を上げる胃袋を救うために、チーフをお借りしますね」


 こうして一礼してしまった彼を、咎めるお嬢さん方ではない。

 いくらでもとか、こき使って下さいねとか、好き勝手な送り文句を付けて大切な上司をさっさとレンタルするのよ。小声でも充分聞こえる感想をおみやげにね。


「チーフと佐久間君って、仲がいいけどそういう雰囲気じゃないよね」

「うん。なんか、佐久間君にいいように操られてて、姉弟みたい?」

「そうそう、2人でいると格好いい井上チーフじゃなくて、ちょっと間抜けで可愛い感じ」


 言いたい放題言ってくれるじゃないさ。本当は恋人同士なんですけどね、見えませんか?


「…よかったですね、うまい具合に誤解されてるようで」


 廊下に出てから、それでも警戒して小声とともに微笑んだ顔にむかついたから、ふいっと横を向く。


「どうせね、佐久間宝とあたしじゃ、不釣り合いもいいところよ」


 わかってるし、ばれたら困るんだけど、それでも主張したい女心は複雑なの。

 会社で拗ねるなんてこれまでしたことなかったのに、彼のせいであたしはどんどんダメになるみたい。向こうはいつだって泰然としてるのに、ね。

 これじゃ、どっちが年上だかわかりゃしない。すっかり手玉にとられてるのはこっちじゃない。


「どうして貴女が拗ねるんですか。僕の方がずっと悔しいんですよ?年下だし、キャリアも地位もなくて、隣に並ぶことさえ許されないんじゃないかって思うのに」

「え…?」


 けれど、不安は一緒なんだってしかめっ面に教えられた。

 どうしても追いつけない差に、日々無駄な悩みを募らせているのは自分だけではなく、あたしにはあたしの、宝には宝のジレンマがあり続けるのだ。共にある限り、一生。


「結局、自信満々で恋してる人間なんていないってことよね」


 呟くと怒ったように睨んでいた佐久間宝の瞳が、ふっと緩んで。


「お互い悩みは尽きないけど、でもそれは好きって気持ちの前じゃすごく些細な下らないことなんですよね」


 なのにそんな小さなことに、この先も一喜一憂していくんだろうなぁと考えれば、嬉しいような苦しいような。


「もう、恋なんて…悔しいわ」

「でも、楽しい」


 人気のない長い廊下で、こっそり微笑み合うまだ秘密の、恋。

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