悪役令嬢って何ですの?林檎を掲げて王子と公爵の間に立ったら、毒舌公爵様が婚約の撤回を認めてくださいませんの
本作は『悪役令嬢が何かを知らないまま全力で悪役令嬢をやったら、微笑みの公爵様に貰い受けられました』を、キャラクターも結末も大きく作り変えた別バージョンです。
微笑みの公爵様は毒舌に、敵役だった王子は公爵の元親友に。同じ始まりから、まったく別の物語になりました。ぜひお楽しみください。
※前作をご存じない方も、単体でお読みいただけます。
「フラン。お前の婚約者が決まった」
夕食のスープを口に運んだところで、父は唐突にそう言った。
「お相手は、クライス・ヴァルト公爵閣下だ」
ヴァルト公爵。
この国で知らない者はいない大貴族であり、我が家にとっては、山ひとつ隔てたお隣さんでもある。
領地は広く、兵は多く、そして噂では、顔もすこぶるいい。ただし、口はすこぶる悪いらしい。
対して我がモリス男爵家は、下級貴族の中でも下のほう。
庭の畑で採れたカブが食卓に上がる程度に、慎ましい家だ。
普通なら、スープを吹くか、椅子ごとひっくり返るところだろう。
「……まあ。さようでございますの」
私は静かにパンをちぎった。
(いや「さようでございますの」って何?私、いつからこんな喋り方になったの!?)
異世界に転生して十六年。
この世界に馴染もうと、私がお手本にしたのは、前世で読んだ漫画やアニメの「お嬢様キャラ」だった。
もちろん、この喋り方が正しくないとは分かっているけれど、素の口調より正解に近いのは間違いない……たぶん。
優雅に、上品に、語尾は柔らかく。
そう心がけているうちに、気づけば口から出るすべての言葉が、すっかりそれっぽくなっていた。
心の中は、前世の私のままなのだけれど。
「驚かないのか?」
「驚いておりますわ」
「そうは見えんぞ」
「驚きすぎて、一周回っておりますの」
(一周回ってるのは私の口調のほうな気もするなあ……)
父は「そうか」とだけ言った。
眉間のしわは、深いままだった。
「……正直に言おう。この婚約は、王子殿下のお計らいだ。陛下が病に伏せがちな今、政務はほとんど殿下が担っておられる。公爵閣下とは学院以来の親友だったそうだが、先代が亡くなって閣下が家を継がれてからは、御前会議で対立が続いている。北に兵を集めている、という不穏な噂まである」
父は声を落とした。
「殿下は、まっすぐなお方と聞く。だが近頃は、側近の進言ばかりお容れになるそうだ。遥かに格の落ちる我が家から嫁を取れと命じ、閣下が従えば屈服。拒めば叛意あり。……我が家は、その試金石に選ばれたのだ」
(試金石。つまり私は、ただの道具ってこと?)
カブのスープが、急にしょっぱく感じた。
「お前には、すまないと思っている」
「お父様が謝ることではございませんわ」
これは本心だった。ちゃんと口調まで本心っぽかった。
ただ、本当のことを言うと、婚約より大きな問題が、私の頭を占めていたのだ。
三日前に降ってきた、あの啓示のことである。
◆
ある夜、寝台の上で、私は光に包まれた。
『――汝、フラン・モリスよ』
荘厳な声に思わず背筋が伸びた。
『我は、この世界の理を司る者なり。汝に使命を授ける。悪役令嬢となり、王国の危機を回避せよ』
(神様だ……!本物の神様だ!)
そこまでは、よかった。
『さて、ここで言う王国の危機とは、端的に言えば王権と封建諸侯の力の均衡が崩れる臨界点の話であってな。そもそも封建制の安定条件というものは、王権の徴税能力と諸侯の動員可能兵力の比で――ああ、比といっても単純な線形ではない。地形による補給線の制約を加味すると、実効兵力は距離の二乗に反比例して――いや、正確には街道の整備状況によって指数が変わるのだが、この王国の場合は北部山地の――』
(…………)
『――であるからして、悪役令嬢という存在は、物語構造上の触媒として極めて合理的なのだ。ゆえに汝は悪役令嬢となるのである。以上だ。励め』
光が消えた。
私は、暗闇の中で天井を見つめた。
(ぜんっぜん分からなかった)
この神様は、どうやら自分の好きな話になると止まらないタイプらしい。しかも細かいところばかり語って、肝心の全体像をまったく説明してくれない。
おまけに、プライバシーというものにも関心がないらしい。
それから三日、食事中だろうが睡眠中だろうが、果てはお風呂の最中だろうが、律儀に荘厳な名乗りから入って、思いついたことを語り出す。
『――汝、フランよ。先日教示した説を最新の学説に基づき補足すると――』
湯船で聞かされた。
『――汝、フランよ。先日熱心に耳を傾けていた、都市の発展と街道の関係についてだが――』
夢の中で聞かされた。
(せめて、ノックをしてくださいまし!!)
結局、まともに理解できたのは、最初の夜の、最初の一文だけだった。
『悪役令嬢となり、王国の危機を回避せよ』
王国の危機のほうは、さっぱり分からない。
それより何より、問題は……。
(「悪役令嬢」って、なに!?)
神様は、まるで常識のように言っていた。
物語構造上の触媒、とかなんとか……。
ということは、誰でも知っているものなのだろうか。私だけ知らない感じ?
前世の記憶を探ると、確かに流行っていた気はする。
けれど私はライトノベルを読まなかったし、アニメもメジャーなものしか見なかった。
残念ながら、知識はゼロである。
(……いや、嘆いていても始まらない)
小さい頃の私は、幼稚園でも学校でも、劇のたびに木の役ばかりだった。
落ち込んでいた私に、お母さんは言ってくれた。
「どんな役でも、一生懸命やればきっと誰かが見ていてくれるよ。楽しみにしてるね」
その言葉を道標に、私はこの世界でも努力してきた。……努力しすぎて、口調までお嬢様になってしまったけれど。
(悪役令嬢が私の役なら、全力でやりきってみせる!)
「やりきってみせますわ!」
声に出ていた。
廊下で、侍女のマリーが燭台を落とす音がした。
◆
悪役というのは、きっとまず相手を調べるものだ。
特撮の悪の幹部も、だいたいそうしていた気がする。
(噂のことなら、社交的で世間話好きなマリーがいちばん詳しいはず)
「マリー、クライス公爵様について、知っていることを教えてくださる?」
「お、お嬢様が殿方に興味を……!ええと、とにかくお強い方だと聞きます。お酒はいくら飲んでも顔色ひとつ変わらず、弓を取れば百発百中。勝負を挑まれたら、絶対に断らないとか」
「まあ、殿方の鑑ですわね」
「ただ……お口が、ものすごくお悪いそうで。先日も、縁談を持ち込んだ伯爵様が、三言で泣いて帰られたとか」
(三言!?)
私はメモを取った。
『酒豪。弓の名手。挑まれたら断らない。口が悪い(三言)』
(殿下とのことは、噂だけじゃ足りない。……そういえば、トマスじいさんは、昔ヴァルト家で庭師をしていたんだっけ)
庭で薔薇の枝を整えていたトマスじいさんに尋ねると、彼は鋏を止めて目を細めた。
「わしがヴァルトのお屋敷におった頃、学院がお休みになるたびに、坊ちゃま……いや、公爵閣下が、殿下をお連れになって帰ってこられましてな。お二人とも、まだ十六、七の頃です。庭に的を立てて、日が暮れるまで弓の競争ですよ」
「まあ」
「殿下は豪快で、からっとしたお方でね。負けると本気で悔しがって、勝つと大笑いして。坊ちゃまのほうは、口では憎まれ口ばかり叩いて、そのくせ、殿下が王都へお帰りになる日には、いつまでも門のところに立っておられた」
「仲がよろしかったのですわね」
「ええ。殿下は坊ちゃまを『クライス』と、坊ちゃまは殿下を『ジーク』と呼んで。……それが、先代様が亡くなられてからは、とんと。わしのような庭師の耳には、悪い噂ばかり届きますがね」
トマスじいさんは、寂しそうに鋏を動かした。
『王子。豪快な武人。弓の名手。昔は公爵様の親友』
メモを眺めて、私は考え込んだ。
親友だった二人が、今は敵同士。そして、その間に、道具として放り込まれた私。
(……なんだか、悲しいお話ですわね)
心の中まで口調が移ってきている。
かなりまずい傾向だ。
◆
婚約者との顔合わせは、一度きりだった。
公爵邸の応接間。
クライス様は、窓辺に立ったまま、こちらを振り向きもしなかった。
すらりとした均整の取れた長身に、獅子のたてがみのような金の髪、陶磁器のように白い整った横顔。
名工の彫像だと言われたら、信じてしまいそうな完璧なまでの造形。
(……いや、これは無理では!?)
片や、王国屈指の名門の若き当主にして、この美貌。
片や、山向こうの貧乏男爵家の、どこから見ても脇役側の娘。
二人が並んで描かれれば、肖像画の主役と、額縁の隅に添えられた野の花である。
(殿下、さすがに無理がありません!?政略だって丸わかりですけど!!)
だから、つい、まじまじと見てしまった。
「モリス男爵が娘、フランにございますわ」
「知っている」
ようやく振り向いた瞳は、凍てついた湖のようなアイスブルーだった。
「先に言っておく。俺はこの婚約を、ジーク……殿下の嫌がらせとしか思っていない。お前に罪はないが、興味もない」
(一言目)
「お前は駒だ。殿下が俺に投げつけた、ただの石ころにすぎん。舞踏会の夜、俺が殿下に話をつける。それまで、黙って壁の花でも演じているのだな」
(二言目)
「……言い忘れた。その口調に態度、この俺をからかっているのか。上流貴族の娘に擬態しようなどと、浅慮もはなはだしい。数日とはいえ、この俺の婚約者となるのだ。最低限の礼法と教養を学び、その身で示せ」
(三言目!!)
伯爵様が泣いて帰った理由が、よく分かった。
「……ご忠告、痛み入りますわ」
私は、優雅に一礼した。
泣かなかった。
泣かなかったけれど、帰りの馬車の中で、クッションを三回殴った。
(何あれ、何あれ、何あれ!石ころって!擬態って!私は虫ですか!?)
ただ、二つだけ、引っかかっていた。
「殿下」と言い直す前に、あの人が確かに「ジーク」と呼んだこと。
そして、「数日とはいえ」という言葉。
まるで、この婚約がすぐに終わると、最初から分かっているみたいだった。
◆
舞踏会を明日に控えた夜。
悪役令嬢といえば、やっぱり見た目も大事だ。
悪役というからには、怖い感じのはず。
高飛車で、傲慢で、ヒーローものの悪の女幹部みたいな。服は原色のド派手なやつで、メイクはキツめ。
鏡の前で、高笑いの練習をした。
「おーっほっほっほっ……ごほっ!」
むせた。
何度かやるうちにコツをつかんで、最後のところで噛まなくなった。
それどころか、だんだん気分が乗ってきた。
「おーっほっほっほ!頭が高くってよ!ひれ伏しなさいな!」
(……ちょっと待って、楽しくなってきてない?)
私は、役に入り込みやすい。
分かってはいる、分かってはいるのだけれど。
その夜も、湯船に浸かったところで、光が降ってきた。
『――汝、フランよ。明日の舞踏会について、啓示を授ける』
(だから、お風呂はやめてくださいまし!)
私は慌てて肩まで沈んだ。
……今度こそ、聞き逃さない。
『明日、王子と公爵は決裂する。決裂すれば内乱だ。内乱の発生確率は、両者の兵站と諸侯の去就から逆算すると――いや、そこはよい。重要なのは弓だ。この世界の長弓の初速は概算で毎秒五十メートル前後、三十歩の距離ならば落下量は――ああ、矢羽根の素材が鷲か鵞鳥かで回転が変わるのだが――』
(弓の話、いります!?)
『――ゆえに、汝は二人の間に立て。以上だ。励め』
光が消えた。お湯は、すっかりぬるくなっていた。
聞き取れたのは、最初と最後だけだった。
明日、二人は決裂する。
だから、二人の間に立て。
でも、それで十分な気がした。
悪役は、主役たちの前に立ちはだかるもの。
特撮の女幹部も、だいたいヒーローの前に立ちはだかっていた。
真っ赤で金ぴかのドレス。
目元を覆う、きらきらした仮面。
顔を隠せるのはありがたい。恥ずかしいので。
鏡の中に、見知らぬ人がいた。
(私は悪役令嬢。私は悪役令嬢。私は悪役令嬢……)
「わたくしは、悪役令嬢ですわ」
口に出すと、本当にそんな気がしてきた。
「楽しみにしてるね」
お母さんの声を思い出して、私は鏡の中の誰かに、にっと笑ってみせた。
◆
会場は、まばゆい光に満ちていた。
シャンデリアの灯りが磨き抜かれた床に映り込み、楽団の弦の音に、着飾った人々のざわめきが溶けている。
(あれ?)
見回して、気づいた。
仮面をつけているのは、私だけである。
悪目立ちしているのか、ジロジロ見られている。
正直、かなり恥ずかしい。
(……まあ、悪役は目立つものですし)
広間の中央に、ぽっかりと空いた場所があった。
誰も近づけないその空間に、二人の男性が向かい合っている。
一人は、クライス様。
黄金の髪を獅子のたてがみのように流し、黒の礼装に、陶磁のような白い頬。
もう一人は、黒髪の、見上げるほど背の高い青年。王子だ。
礼装の上からでも分かる厚い胸板に、場を圧するような覇気。
トマスじいさんの話どおり、絵に描いたような武人である。
その背後には、痩せた男が一人、影のように控えていた。
陰気な顔つきで、目が合うと、にこりともせずに深く会釈をした。
(……なんだか、笑わない人だなあ)
二人の間の空気が、ぴんと張りつめていた。周りの貴族たちは、遠巻きに息をひそめている。
「――ジークハルト殿下」
クライス様の声が、広間に響いた。
「今宵、この場で申し上げたいことがございます。我がヴァルト家は――」
(あ、これ、まずいやつだ)
なぜだか、分かった。
神様の「決裂」という言葉が、頭をよぎる。
言わせてはいけない。
(二人の間に、立つ!)
私は赤いドレスの裾をひるがえし、二人の真ん中に飛び込んだ。
「おーっほっほっほっほ!」
噛まなかった。
広間が、しんと静まり返った。
「ごきげんよう、お二方。わたくし、フラン・モリスと申しますわ!」
クライス様が、心底うんざりした顔で私を見た。
「……壁の花でいろ、と言ったはずだが」
「あいにく、わたくし、壁の花というものが性に合いませんの」
(合います。本当はめちゃくちゃ合います。木の役で鍛えてますから)
王子が、眉をひそめた。
「モリス男爵の娘か。……何用だ」
「わたくし、この婚約に納得しておりませんの。殿下が勝手にお決めになったことでしょう?女を駒のように扱って、わたくしの意思はどこにございますの?」
王子の顔が、わずかにこわばった。
(あれ、効いてる?)
勢いに乗った。
乗ってはいけない気もしたけれど、乗ってしまった。
「わたくしを納得させたいのであれば、ひとつ勝負をしていただきますわ!クライス公爵様と、殿下。お二人で勝負をなさい。勝った方に、わたくしを差し上げますわ!」
(……私、今なんて言った!?)
沈黙。
遠くで、父が崩れ落ちる音がした気がする。
「――ほう」
最初に口を開いたのは、クライス様だった。
氷色の瞳が、珍しい虫でも見つけたように細められている。
「下級貴族の小娘が、俺と殿下を天秤にかけるか。……それで、勝負の方法は?」
(あれ、食いついた?)
私は、調査結果を総動員した。
お酒に強いクライス様。弓の名手のお二人。
そして、挑まれたら断らない。
「お酒を一杯ずつ飲み干して、弓を一射ずつ。あわせて三射放って、的に当てた数の多い方の勝ちですわ!」
(結果が分かりやすくて、当たった瞬間、観客も遠慮なく盛り上がれる。しかも、お酒が入れば、場の空気もきっと和らいで、二人の関係もよくなるはず。……たぶん)
「ふざけるな!」
王子の怒声に、思わず背筋が伸びる。
「婦人を賭けの品にする勝負など、余は受けぬ。……公爵、卿もだ。戯れが過ぎよう」
(あ、この人、まっすぐな人だ)
クライス様が、口の端を吊り上げた。
「ほう、負けるのがよほどお嫌いと見える。……しかし、賢明なご判断です、殿下。勝敗の明らかな勝負からは、逃げ出すのが得策でしょう」
広間の空気が、凍りついた。
同時に、王子の目に、火がついた。
「……誰が逃げるといった」
「では、お受けになると?」
「受けて立とう。学院でどちらが上であったか、思い出させてやる」
「記憶違いでしょう。三十七勝三十六敗一分けで、勝ち越しているのは私です」
「……その一分けは、卿が酔い潰れたせいだ」
「酔い潰れたのは殿下の方では?」
(待って、学院って十六から十八ですよね!?この世界じゃ大丈夫なのは知ってるけど……元現代人の感覚が「未成年飲酒はダメです」って言ってる!)
当惑する私をよそに、二人は、冷ややかに睨み合っていた。
言葉づかいだけは、どこまでも丁寧に。
けれど、さっきまでの触れたら切れそうな空気とは、ほんの少しだけ何かが違う気がした。
クライス様が、優雅に一礼した。
「よろしい。どうせ今宵が最後です。最後にもう一度殿下を負かしておくのも、悪くありません」
(最後……?)
その言葉に、王子の肩が、ほんの少しだけ揺れたのを、私は見た。
◆
場所は、中庭に移された。
篝火が焚かれ、貴族たちが円を描いて並ぶ。
夜風に炎が揺れるたび、石畳の上で人々の影が伸び縮みした。
王子の背後には、あの笑わない男が、やはり影のように控えていた。
射手の立つ線から三十歩離れた場所に、的の台が置かれた。
テーブルには、酒の杯が二つ。
公平を期して、お互いが相手の杯に注ぐことになった。
王子が、クライス様の杯に酒を注ぐ。
「卿の杯に注ぐのは、久しいな」
「光栄に存じます、殿下」
それきりだった。
注ぎ返す手つきは驚くほど自然なのに、交わす言葉は、冬の井戸水のように冷たかった。
トマスじいさんの話の中の二人とは、まるで別人のようだった。
それから、クライス様は私を見た。
「さて、女……フランと言ったか?一つ、言っておくことがある」
「なんですの」
「この勝負、お前はどちらに転んでも損をしない。俺に嫁ぐか、殿下のものになるか。男爵家の娘にすれば、ともに望外な結末といえよう。それでは賭けとは呼ばぬ。……人を勝負の場に引きずり出しておいて、ひとり高みの見物は許されん。もし勝負が引き分けに終わった場合、大人しく身分の釣り合った下級貴族の男とでも、結婚するというのはどうだ。それが嫌だと言うのなら、何を賭けるかは選ばせてやろう。お前は自らの未来を掴むために、何を賭ける」
……来た。
(引き分けなら、平凡な結婚。それって、まるで逃げ道みたいな――)
悪役令嬢の演技は、ここまで。
ここからは、私の本当の言葉で言わなきゃいけない。
二人の間に立て、と神様は言った。
なら、立つ場所は一つしかない。
「お気遣いは無用ですわ。逃げ道を背負って勝負に臨めるほど、わたくし、器用ではございませんの」
クライス様の眉が、わずかに動いた。
「……ならば、何を賭ける」
私は、的の台に置かれていた林檎を一つ手に取って、射手の線と向かい合う位置に立った。
そして、腕をまっすぐに伸ばした。
「的は、わたくしが持ちます。わたくしが賭けるのは、この命ですわ」
どよめきが、波のように広がった。
「正気か!」と誰かが叫び、父がまた崩れ落ちる音がした。
そのとき、頭の中で声がした。
『……な、汝、待て。「間に立て」とは、そういう物理的な意味では――仲裁という比喩であって――』
(神様、今いいところですので!)
ひとまず無視した。
「馬鹿な真似はよせ!」
叫んだのは、王子だった。
「酒の入った矢の前に、婦人を立たせられるか!勝負は取りやめだ!」
この人は、いい人だ。一瞬、そう思った。
けれど、ここでやめるわけにはいかない。
やめたら、さっきの「最後」の続きが始まってしまう気がした。
「お、おーっほっほ……あら、殿下」
私は、震える声を、悪役の高笑いでごまかした。
「わたくしに当てるのが怖いほどの腕前ですの?学院で三十六勝もなさったというのは、何かの間違いでしたのかしら?」
王子が、言葉に詰まった。
クライス様は、何も言わなかった。
ただ、私をじっと見ていた。
あの氷色の瞳で。
顔合わせのときとは、少しだけ違う目で。
「……好きにしろ」
やがて、短く言った。
「俺は外さん。それだけだ」
◆
一巡目。
先攻は、王子。
杯を一息に干して、弓を構える。
大きな体が、すっと静まった。
ヒュッ。
林檎が、私の手の中で砕け散った。
果汁が頬に飛ぶ。
……当たった。生きている。私、まだ生きている。
膝が笑いそうになるのを、悪役の気合いで押さえつけた。
新しい林檎を取りにテーブルへ戻ると、王子とすれ違った。
「……すまぬ」
小さな声だった。
「謝るくらいなら、最初から外さないと仰ってくださいまし」
「外しはせぬ」
王子は、少しだけ笑った。
続いて、クライス様。迷いのない、静かな構え。
ヒュッ。
林檎が、粉々に砕けた。
「見事だ、公爵」
「殿下こそ。お忙しい政務の合間にも、腕を鈍らせずにおられるとは。……御前会議よりも弓を引いているほうが、数段活き活きとしておられる」
王子のこめかみが、ぴくりと動いた。
(今、さらっと、すごい嫌味を言いませんでした!?)
◆
二巡目。
杯に酒を注ぎながら、王子が、低く言った。
「公爵。北の砦に兵を集めているそうだな」
「奏上は済ませております。北方の蛮族は、毎年、雪が積もる前に山を越えてまいります。殿下が御前会議で北の守りを削られた以上、誰かがその穴を埋めねばなりません」
「余の策が、誤りだと申すか」
「誤りです。そして、その策を殿下に献じたのは、近臣のザイド殿と聞き及んでおります」
王子の顔色が、変わった。
「ザイドは、余が幼き頃より仕えてきた男だ。卿の言葉は、讒言に等しい」
ヒュッ。
林檎が、砕けた。命中。
けれど、さっきより少しだけ私の手に近かった。
指先が、少ししびれた。
観衆の輪のどこかで、父が三度目に崩れ落ちる音がした。
「讒言、と」
クライス様が、弓を構えた。
「では、伺いましょう。北の守りを削り、有力な諸侯に叛逆の疑いをかけて、一人ずつ潰していく。……それで得をするのは、誰です?少なくとも、この王国でないことだけは確かですが」
王子は、答えなかった。
代わりに、その目が一瞬、観衆の輪をさまよった。誰かを探すように。
つられて見ると、さっきまで王子の背後に控えていた、あの笑わない男の姿が、どこにもなかった。
弓を握る王子の指が、白くなるほどに強ばった。
ヒュッ。
林檎が砕けた。
クライス様の矢は、私の手から、きっちり指二本分離れた場所を通っていた。
中庭が、静まり返った。
二人とも、正しいことを言っている。たぶん。
でも、さっきから二人とも、相手の顔を一度も見ていない。
丁寧な言葉と正しい理屈を鎧みたいに着込んで、その奥にあるものを、どちらも口にしようとしない。
(……なんだか、腹が立ってきましたわ)
「お二人とも!」
自分でもびっくりするくらい、大きな声が出た。
「理屈はもう結構ですわ!政治的な駆け引きなど、御前会議でなさいな!人を駒にして、石ころにして、挙句の果てに、わたくしの頭越しに難しいお話ばかり!的の身にもなってくださいまし!」
言ってしまった。でも、止まらなかった。
「本当に言いたいのは、そんなことじゃございませんでしょう!わたくし、こんなところに命まで賭けて立っておりますのよ!それに比べたら、お二人の勝敗だの、こそこそと繰り返してる腹の探り合いだの、よっぽど安うございますわ!わたくしの心を射止めたいのであれば、誠心誠意向き合ってくださいまし!!わたくしにも、競い合ってきた友人にも!!!」
息が切れた。手が震えていた。
仮面の下で、顔が真っ赤になっているのが分かった。
言い過ぎた。
でも、不思議なくらい後悔はなかった。
中庭が、しんとした。
「……っ、はは」
王子が、笑い出した。腹の底から出たような、豪快な笑い声だった。
「ははははは!聞いたか、クライス。安いそうだぞ、俺たちの意地も、しがらみもな」
「……的に値踏みされるとはな。反論の材料が見当たらんのが癪だ」
あれ、と思った。
今、二人とも、口調が変わった。
「余」が「俺」に、「公爵」が「クライス」に。クライス様の言葉からも、敬語が消えていた。
それでも、笑いはしなかった。
けれど、口の端が、ほんのわずかに持ち上がっていた。
「的に説教される射手など、聞いたことがない」
「俺もだ」
二人は、少しだけ、同じ顔をしていた。
◆
最後の三巡目。
王子が、杯を干した。弓を構える。けれど今度は、なかなか矢を放たなかった。
「……クライス」
背を向けたまま、王子は言った。
「父上が床に伏してから、毎朝、決めねばならんことが山と積まれる。俺の一言で、どこかの村が飢え、どこかの砦が落ちる。……そんなときに、俺の策をことごとく潰すのが、よりによってお前だ。腹が立った。少しくらい味方をしろ馬鹿と、大声で怒鳴りつけたくなるほどにな。ザイドの言葉が、ひどく甘く聞こえた。……甘すぎると、どこかで分かっていながらな」
「お前が道を誤るならば、俺が止めてやる。学院を出る日に、そう言ったはずだ」
「……覚えている」
「なら、もう一つ覚えておけ。お前が書類の山に埋もれていくのを、俺は御前会議の席から眺めていた。眺めて、正論を投げつけて、それで務めを果たした気でいた」
クライス様は、口の端を歪めた。
「親友とやらが聞いて呆れる。……謝罪なら受けんぞ。俺の分を差し引けば、帳尻はとうに合っている」
「……相変わらず、勘定だけは細かい男だ」
王子は、苦笑した。
「なら、これは俺の勝手だ。……すまなかった」
ヒュッ。
矢は、私から大きく逸れて、夜の空へと消えていった。
外れた――と、思った。
違う。
あれほどの腕前を持つ人が、あんなに大きく外すはずがない。
「手が震えた。……どうやら、酒に弱くなったらしい」
弓を下ろした王子に、クライス様の目が、すっと細くなった。
「勝ちを譲られるのは何より嫌いだと、知っているだろう。……それとも、今の一射で帳尻を合わせ直したつもりか」
「何の話だ。手が震えたと言っている」
「見え透いた嘘を。お前の嘘は、学院の頃から一向に上達せんな」
「お前のひねくれた口ほどではない」
クライス様は、しばらく黙って王子を見ていた。
それから、ふん、と鼻を鳴らした。
「……酒に弱くなったな、ジーク」
昔の名前だった。
トマスじいさんが教えてくれた、あの名前だった。
クライス様は杯を空け、弓を引き絞った。
矢を放つ前に、氷色の瞳が、一瞬だけ私に向いた。
「震えているぞ、フラン」
「武者震いですわ」
「そうか。なら、すぐに終わらせてやる」
ヒュッ。
最後の林檎が、砕けた。クライス様は弓を下ろし、こともなげに言った。
「三射、命中。……勝負ありだ」
拍手と歓声が、爆発した。
私は林檎のかけらを握ったまま、ようやく息を吐いた。
(生きてる。……よかった)
◆
歓声が落ち着いたころ、王子がクライス様の前に立った。
「さっき、何か言いかけていたな。『我がヴァルト家は』と」
「……忘れた。酒が入ったのでな」
「お前ほどの酒豪が、一杯で忘れるのか」
「三杯だ」
「同じことだろう」
「酒に弱くなったということだ、俺も、お前もな」
友の悪態に、王子は、からりと笑った。
「ザイドの件は、俺がこの目で確かめる。北の砦にも、一度足を運ぼう。……案内しろ」
「命令するな」
「頼んでいる」
「……気が向いたらな」
許したわけではない。
たぶん、許されたわけでもない。
それでも、二人の間に、言葉にならない何かが通い合ったのだと思った。
(よかった。これで王国の危機は……回避、できたのかな)
ほっとしたら、急に膝から力が抜けた。
そのまま、こっそり退散しようとして。
「どこへ行く」
襟首を、つかまれた。
「勝負は、俺が勝った。勝った方が、お前を得る。お前がそう言ったのだ。ここにいる全員が聞いている」
(…………え?)
「あ、あれは、その、勢いと申しますか、悪役の、なんと申しますか」
「撤回は認めん」
クライス様は、私の仮面を指先でつまみ、するりと外した。
素顔をさらした私を、氷色の瞳がじっと見下ろす。
「……ふん。思ったより、間の抜けた顔だな」
(四言目!!)
「よく聞け、フラン。俺の妻となりたいならば、学院に入れ」
「なりたいなどと、一言も申しておりませんわ!?」
「今のお前の礼法では、公爵夫人は務まらん。高位貴族の子弟が集う王立学院で、三年。一から叩き込んでやる」
「わたくしの意思はどこへ行きましたの!?」
「勝負の賞品に、意思などない」
(賞品にしたの私ですけど!言い出したの私ですけど!)
クライス様は、外した仮面を指先でくるりと回した。
「誤解のないよう言っておくが、俺は情で妻を選ぶほど暇ではない。ただ、林檎を掲げて俺とジークを叱りつけた的など、王国にお前ひとりだ。そんな珍品を、他の男の陳列棚に並べてやる道理はない」
(珍品!?陳列棚!?……でも、それって、ほとんど……)
そう思ったけれど、口には出さなかった。出したら、五言目が飛んでくる気がしたので。
「学院か」
横から、楽しげな声がした。王子だった。
「なら、俺もたまには顔を出すとしよう。卒業生が講義をのぞきに行くのは、別に珍しくもないからな」
(いえ、流石に王子が来るのは、珍しいなんてものじゃないと思います!!)
王子は、私の頬についた林檎の果汁を、親指でぐいと拭った。
それから、クライス様に聞こえないくらいの声で言った。
「壁の花でいろ、と言われなかったか」
「な、なぜそれを」
「あいつの常套句だ。昔から、大事なものほど遠ざけようとする。……まあ、お前は壁どころか、射線の上に立ったわけだが」
王子は、再びからりと笑った。
「お前の説教、効いたぞ。……次は、外さん」
にっと笑って、王子は去っていった。
(外さんって、何をですの!?矢ですの!?林檎ですの!?)
振り向くと、クライス様の眉間に、深いしわが刻まれていた。
「……あいつ、何を言った」
「な、なんでもございませんわ」
「ふん。帰るぞ。お前の父親が、さっきから三回も崩れ落ちている。途中までは同じ道だ。退屈はさせんぞ。婚約者として、教えねばならんことは山とあるからな」
(ひぃっ!手加減してくださいまし!)
◆
篝火の届かない回廊を、クライス様は振り返りもせずに歩いていく。
私は慌てて、その後を追った。
貴族たちのざわめきが遠ざかり、聞こえるのは二人分の足音だけになった。
(……あれ。もしかして、二人きり?)
そう気づいた途端、手が震え出した。
林檎を握っていた、右の手だ。
今ごろになって。
「止まれ」
クライス様が足を止め、振り返った。
私の手首をつかみ、上着の隠しから絹の手巾を取り出す。果汁でべたべたの指を、一本ずつ、乱暴なくらい丁寧に拭われた。
「あ、あの、クライス様」
「黙っていろ。この手で馬車に乗られては、座席が台無しになる」
(……さっき、殿下が頬を拭ったの、見てたのかな)
「なぜ、あの場に立った」
手巾を動かしたまま、クライス様が言った。
「下級貴族の娘が、命まで賭ける理由がどこにある。帳尻の合わん賭けだ」
少し考えて、私は答えた。
「役が、回ってきたからですわ」
「役?」
「わたくし、昔から目立たない役ばかりでしたの。それでも、どんな役でも一生懸命やれば、きっと誰かが見ていてくれるって……母が」
言ってしまってから、気づいた。
今のは、前世のお母さんの言葉だ。
この世界の誰も知らない、私だけの道標。
少しだけ胸が詰まって、それから急に恥ずかしくなった。
手を引っ込めようとしたけれど、離してもらえなかった。
クライス様は、しばらく黙っていた。
「……くだらん」
やがて、ぽつりと言った。
「くだらんが、見ていた者は確かにいたな。ジークに、近衛に、物見高い貴族ども。……それから、俺だ」
手巾が、離れた。
氷色の瞳が、まっすぐに私を見下ろす。
「学院でのお前の役も、特等席で見物させてもらう。せいぜい、俺を楽しませろ」
(――あ)
楽しみにしてるね。
ずっと昔に聞いた声が、ほんの一瞬だけ重なった気がした。
ずいぶん、ひねくれた言い方だったけれど。
クライス様は、もう背を向けて歩き出していた。
先を歩く金色の背中を見ながら、私は思い出していた。
数日とはいえ、と、あの人は言った。
壁の花でいろ、と。
石ころなんて言いながら、本当は、最初から。
(……ずるいですわ、そういうの)
◆
その夜。湯船に浸かった私に、また光が降ってきた。
『――汝、フランよ』
(だから、お風呂は!)
荘厳な声だった。少しだけ、震えていた。
『まず言っておく。命まで賭けよとは、一言も申しておらぬ。……我は肝を冷やしたぞ。神に肝があるかはさておき』
(ごめんなさい、神様)
『ともあれ、王子と公爵の決裂は回避された。よくやった。……ただし、悪役令嬢というのは、そもそもそういう意味ではなくてだな。本来は、物語において婚約者を奪われる側の令嬢が――いや、その前に乙女ゲームという媒体の分岐構造を説明せねばならぬか――』
(あ、長くなるやつだ)
『――そして、次なる危機についてだが。帝国、王国、公国の三国から子弟が集う学院という閉鎖空間の社会力学が――姿を消したザイドなる男と、帝国の――ゆえに汝は――』
ぷつり。
聞き取れたのは、「学院」の二文字だけだった。
(……え。今、聞き逃したらまずいことを言わなかった?)
私は聞こえなかったことにして、湯船に顔の半分まで沈んだ。
結局、悪役令嬢が何なのかは、最後まで分からないままだった。
(なんで、あの人、わたくしにそんなにこだわりますの~~~!?)
心の中まで、すっかりお嬢様口調だった。
お母さん。ちゃんと、見ていてくれる人はいたよ。
……ただし、見ていた人が、少し多すぎた気はするけれど。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
前作を書いたあと、「本当はこういう話にしたかった」という気持ちが残っており、今回思い切って作り直してみました。ひねくれた公爵とまっすぐな王子、不器用な二人の友情を書けて満足しています。
学院編の構想もあります。続きが気になると思っていただけたら、評価やブックマーク、感想で教えていただけると励みになります。




