第一話
コミックマーケット108・2日目にて頒布予定の、『このボタンをはずしてくれ』の第一話の試し読みです。
興味を持ってくださった方は、是非「西と25b『醍醐屋』」に遊びにいらしてください!
七月は梅雨晴れから始まった。ほとんど一か月の間、暗く重い雨雲に覆い隠されていた太陽は、すっかり夏のそれへと装いを変えていたようだ。
教室の南向きの窓から入り込んで、容赦なく照りつけようとしてくる日差しを、クリーム色のカーテンが、熱を持ちながらも懸命に受け止めている。
教室といっても、一人用机を一〇人分も並べる余裕がないくらいの小さな部屋で、保健室の隣に面していた。今は、六人分の机しか用意されていない。
その六つある机のうち、二つは、控えめな大きさの黒板のある西向きの壁に、残りの四つは掲示ボードのある東向きの壁に、ぴったりくっつけられていた。西向きの壁に二つしか机がくっついていないのは、真ん中を黒板が陣取っているからだった。そのため生徒は、席に着くと全員が壁と向き合うことになる。ここで授業らしい授業が行われることはないので、黒板はほとんどお飾りだったのだ。
小瀬南中学校のこの教室、通称「ハートフルルーム」には、なんらかの事情があって、本来自分が属するクラスに通うことのできない生徒が、学年の垣根を越えて集められていた。とはいえ、今この教室に属する生徒は二人で、そのどちらも、二年二組に籍を置いていた。
「『慈悲とは、無理に搾り出すものではない。天から恵みの雨が降るように、地に降りてゆくものだ』」
その一人、鈴木芙呂鷺は、東向きの壁側の席のうち、一番窓側を定位置として座っていた。彼女は、椅子の背もたれを肘かけにして、横向きに座っている。後ろに顔を向けるためだ。体ごと真後ろに向き直って座ろうとすれば、スカートで大股を開くことになってしまうのだ。
彼女は、身振り手振りを交えながら、すっかり役になりきって、朗々と語り続ける。
「『王が手にする笏は、一時の力を示すにすぎぬ。その内実は王への畏怖や恐怖だ』」
そしてもう一人、堀清六は、芙呂鷺の反対側、つまり黒板のある西向きの壁の、窓側の席を定位置としていた。今は彼女と顔を合わせるために後ろ向きになり、背もたれをよけるべく跨るようにして、椅子に座っている。
清六は、軽く口角を上げながら、
「どうした急に」
とツッコんだ。とはいえ、芙呂鷺がまるで舞台役者のようにセリフを語るのは、いつものことだった。
彼女は意に介さず、むしろ得意げになって続ける。
「『しかし、慈悲はそうした笏の力を超え、王の心のなかに鎮座して……慈悲が正義を和らげるとき――』」
ふいに、芙呂鷺の暗唱が止まった。途中から多少なりとも怪しくなったが、ついにど忘れてしまったようだ。
清六は言った。
「『ヴェニスの商人』だね、それ」
芙呂鷺は格好をつけるように小さく笑う。
「君なら知っていてくれると信じていたよ」
「『ヴェニスの商人』だったら、シャイロックのセリフが好きだな、ほら、『ユダヤ人には目がないのか?』で始まるやつ」
ちょうど最近、清六は『ヴェニスの商人』の台本を読んだばかりだった。それは間違いなく、芙呂鷺の影響だった。
清六のその言葉をオファーと受け取った芙呂鷺は、再び演劇モードに入る。
「『同じ食い物を食い、同じ武器で傷つき、同じ病気に罹り、同じ薬で治り、冬も夏も同じように暑がったり寒がったりするじゃないか?』」
これまでは座ったままで語っていた芙呂鷺だったが、とうとう立ち上がった。身振り手振りがより見栄えよく、堂に入ったものになる。それを見て清六は、いわゆる男役とは、きっとこういう感じなのだろうな、と思った。
芙呂鷺の肢体はしなやかだった。夏服の真っ白なブラウスが、身体の線を縁取ってふわふわと浮かび上がらせている。ほとんど黒に近い紺色のスカートによってきゅっと締まった腰の位置は高く、足はすらりと長い。
髪型はショートだが、つむじから生え際に近いところの髪の毛は長めにとってあるので、そこに女子らしさが残っている。
えらの張っていないシャープな顔の輪郭、一直線に伸びた鼻梁は、彼女の持つボーイッシュな雰囲気に一役も二役も買っているが、睫毛と瞼の奥に潜む目だけは、つぶらできらきらしているので、優しい柔らかさも兼ね備えていた。
「『毒針でついたら血が出よう? くすぐられたら笑いもしよう? 毒を盛られたら、死んじまう。ひどい目に遭わされたら、復讐する――』
芙呂鷺の表情作りは完璧だった。彼女の体に目がいくばかりだった清六も、次第にその演技自体に魅入られてしまった。
「『ほかが同じなら、やっぱりそこんとこも同じだ』」
芙呂鷺は、ちゃんと余韻を噛みしめる時間をとった後、椅子に座った。ぱちぱちと拍手する清六。
「俺、劇で見たことないんだけど、きっとこんな感じなんだろうな」
「そうなのか」
芙呂鷺が、大げさになり過ぎない程度に、目を見開いてみせた。
清六は、まだ中学生とはいえ、ここまで言い回しや振る舞いに、そつのない演出性を持つ人間を知らなかった。わざとらしいといえばわざとらしいが、まさにそのわざとらしさこそが、鈴木芙呂鷺にとっての自然体なのだと、彼は思っていた。
芙呂鷺が清六に質問する。
「じゃあ、本や、映画とかで?」
「うん、本で読んだ」
続けて、
「シャイロックがかわいそうでさ」
と清六。
彼女が「ああ!」と大きく頷く。
「それは私も思ったよ、シャイロックは何も悪いことなんてしていないのに、って」
「そうそう、そーなんだよね」
今、清六は目を輝かせているつもりだったが、本当にそういう表情が作れているか、不安だった。こうして、芙呂鷺を近くで見ていると、彼女の完璧な表情作りと、自分のそれを比べてしまうのだ。
果たして、心で思っていることと、口で言っていることが一致しているとき、目や口の位置や開き方も、それに応じたものになっているのか、清六にはわからなかった。
芙呂鷺は、ふいに表情を崩したときや、面食らったときでさえ、そのリアクションから離れすぎない立ち振る舞いをする。己の全身に通う神経を、完全に制御できているように見えるのだ。
清六は、芙呂鷺の非の打ちどころのなさにあてられて、どうしても、自分の不器用さを意識してしまうのだった。
とはいえ、彼はなるべくそれを表に出さないようにしていた。これ以上、格好悪くなりたくなかったからである。
「当時のキリスト教的な価値観として、ユダヤ人はイエスを磔にした民族だし、しかもシャイロックの仕事は金貸しで、卑しいものだったらしいから、必然的に悪者になっちゃうってこと自体は、まあ、わかるんだけど」
「でも、現代に生きる私たちからすると、やはり、不条理だと思ってしまうよね」
芙呂鷺が椅子の背もたれではなく、机に頬杖をついた。すると、清六からは、完全に彼女の横顔を見せられている形となった。
彼女は、何か特別はっきりと喜怒哀楽を明示する必要のない場面では、若干口角を上げた、柔和な表情をデフォルトとして浮かべていた。不敵な笑み、というほど勝気な感じはなく、かといって輝くばかりの天真爛漫さとも違う、それは落ち着きのある優しげな微笑だった。
「だいたいの登場人物から悪しざまに言われたり、借金が返せないなら肉を一ポンド切り取る、という契約を頓智でひっくり返されたり、娘にすら逃げられたりしたことも含めて」
「ほんと、それな」
清六は少し軽薄になってみた。彼は、自分の中に違う空気を呼び込むために、あえて諧謔を交えたり、逆に堅苦しくなってみたりするのが好きだったのだ。
「シェイクスピアはほんと、頓智っていうか、言葉遊びが好きだよね、女に産み落とされた者には殺されない、とか」
芙呂鷺が頬杖を解除して、上半身を清六のほうにねじって向ける。
「『マクベス』だね、帝王切開で生まれたから、産み落とされた、とは言えないっていう」
清六は、彼女がうまく乗ってきてくれたのを見て、にやりとした。自然な流れでうんちくをひけらかすチャンスを逃すまい、と彼は思ったのだ。
「実はそれさ、納得いってない人が、結構いるらしいんだよ」
「え、そうなのか」
芙呂鷺が清六のほうに身を乗り出してきた。つぶらな瞳に宿る光の輝きが増している。
清六は嬉しかった。彼女が持ってくれた純粋な興味に、努めて応えようとした。
しかし、前のめりになったことで椅子の背もたれにのしかかった彼女の身体の輪郭を、ちらちらとでも見ずにはいられなかった。
「『指環物語』って、海外ファンタジー作品の金字塔があるじゃん、その登場人物に、アングマールの魔王っていうのがいるんだけど」
「人間の男に余は殺せぬ、と言っていた、冥王サウロンの配下、ナズグールの首領だろう?」
「それそれ、もしかして好き?」
「原作小説は読んでいないけど、『ロード・オブ・ザ・リング』シリーズなら、何度も見たからね、一通りは覚えているとも」
清六は、
「俺も『ロード・オブ・ザ・リング』好き」
と、芙呂鷺にぱっと明るい笑みを投げかけた。
「そんでさ、その、人間の男、ってやつ、元の英語だとmanなんだけど――」
言いながら、清六は、自分の机の引き出しからタブレット端末を取り出す。今年から、全生徒に貸与されることになった、他の誰の手垢も付いていない新品だ。
清六はタブレット端末の画面をぽちぽち弄り、英和辞典アプリを開いて、manの意味を引こうとした。すると、芙呂鷺が椅子ごと引きずって、体を彼に近づけてきた。タブレット端末の画面を、一緒に覗き込もうとしたのだ。清六は、彼女の髪からふわっと香るリンスの匂いが鼻腔を掠めると、思わず目を泳がせたが、すぐに画面に視線を着地させた。
努めて冷静に、
「ほら、『成人の男性、男の人』っていう名詞的用法の他に、『人間、人類一般』って意味もある」
と清六。
「ふむ」
芙呂鷺が彼を見て、言った。
「つまり、アングマールの魔王についての予言は、人間の男には殺せない、という意味もありながら、同時に、人間には殺せない、という意味も含んでいた、と」
「うん、そして結果的に、アングマールの魔王は、人間ではないホビットのメリアドク・ブランディバックに不意打ちで足を刺され、そして男ではない人間、つまり女のエオウィンによって倒された、っていうわけ」
芙呂鷺が両腕を胸の前で組んだ。
「言葉のあやさえ逆手に取った予言は、一部の隙もなく、二重の意味によって打ち破られたのか、なかなかうまいな」
反応がいい。清六はちょっと得意げになって、ここからが本題、と言わんばかりに、声に張りを持たせた。
「これ、実は原作者のJ・R・R・トールキン教授が、『マクベス』の頓智に不満だったから、考えたらしいよ」
「なるほど、そうか、そう繋がってくるのか!」
芙呂鷺の期待通りの反応。清六は、「そうなんよ」と応じながら、満足げに笑った。
しかし、彼女は、清六に近づけていた椅子を、座ったまま元の位置まで戻すと、
「そういえば私も、『マクベス』の予言の部分について、こんな話を聞いたことがあるよ」
と切り返してきた。
「シェイクスピアが生きた時代の帝王切開は、母体の死亡率が、それこそ一〇〇パーセントに近かったらしい、だから帝王切開とはそれすなわち、お腹を開くことで、死んでしまった母親から胎児を救い出すことと、変わらなかったようだ」
ここまで言うと、芙呂鷺も自分の机から、適当なプリントを一枚取り出して、その裏にシャーペンで走り書きをする。
それをおもむろに清六へと差し出し、
「『ハムレット』、第五幕第一場さ、私はハムレット、君は道化の役を頼む」
と芙呂鷺。彼が、プリントに書きつけられた内容を見ると、それは台本だった。
芙呂鷺が立ち上がる。清六もつられて立ち上がる。そうすると、彼女よりも何センチか背の高い清六は、芙呂鷺のことを若干見下ろす形となった。
普段であれば、清六は常に観客だった。しかし今回は、舞台に立つ演者としての役目を、芙呂鷺から求められている。とはいえ、これまでにも何度か似たようなことはあった。清六の演技が微妙だったとしても、それは今に始まったことではないし、彼女も承知の上で、求めてきたのだろう。
ハムレットのセリフから始まる。
『どんな奴のために墓を掘っているんだ?』
『野郎じゃねぇよ』
『では、女か?』
清六の演技は、芙呂鷺のそれに比べると、紛れもなく大根だった。
『女でもねぇよ』
おまけに、芙呂鷺の流暢な身のこなしに比べて、清六の身振り手振りは、なんとなくぱさついている。
ハムレットのセリフ。
『では、誰が埋められるんだ?』
『かつて女だったもの。だが、可哀相に、死んじまったんだ』
ここまで。
清六は、芙呂鷺の走り書きを改めて見返す。
彼女がシェイクスピアの任意の作品からセリフを一つか二つ抜き出して、名言のようにそらんじることに、清六はすっかり慣れてしまっていた。が、改めてこうしてシーンを丸々一つ、通しで覚えているところを見せられると、彼はかねてより確かにあった、芙呂鷺への純粋な敬意を新たにせずにはいられなかった。
清六にとって芙呂鷺は、気の置けない友であり、互角か、それ以上の力を持ったライバルであり、そして、女、だった。
「……つまり、死んだら女ではなく、女だったものに変わるから、そこから産まれた赤ん坊は、産み落とされたとは言えない、ってこと?」
清六の質問に、芙呂鷺は首肯する。
「帝王切開で生まれたから、産み落とされたとは言えない、という予言のうち、注目すべきは、産み落とされた、のほうではなくて、女、のほうだったんだ」
清六は、彼女が即興で作った台本から目を離さず、そのまま椅子に座る。
芙呂鷺の筆跡は、いかにも女の子といった感じの丸文字だった。
そもそも、清六がシェイクスピアの劇台本をいくつも読了するに至ったのは、なにげない知識欲からだった。いずれ試験に役立つので百人一首を覚えておこうとか、いつか課題で読書感想文を出されたときのために、それっぽい本を読んでおこうとか、そのぐらいの軽い気持ち。彼は、決して必要に迫られたわけではなく、かといってシェイクスピアに魅せられたわけでもなく、ただ興味を満たすこと自体が楽しかっただけだった。
しかし、芙呂鷺と出会った五月下旬から今までの、一か月とちょっとの間に、彼女がシェイクスピア作品を幾度もそらんじるので、清六はそうと気づかず、史上もっとも有名な一人の劇作家で占められた一角を、心の中に作り出すに至った。
芙呂鷺がきっかけで、清六は、シェイクスピア作品について、より深く考えてみるようになったのだった。
「もしかすると、ヨーロッパの頓智っていうか、言葉遊びって、こんなもんなのかもね」
芙呂鷺が立ったまま清六を見下ろして、
「ほう?」
その目つきに、少し力が入っている。
清六が芙呂鷺を見上げた。
「イソップの逸話にあるんだよ」
「イソップって、イソップ童話の?」
「そうそう、そのイソップ」
清六は自分の椅子の背もたれに腕を置いた。
「イソップは奴隷だったんだけど、ご主人様が酒に酔った勢いで、自分は海の水をすべて飲み干せる、って言っちゃったんだよ、しかも全財産を賭けて」
「それはまた……やってしまったね」
彼がちらと芙呂鷺の顔を見ると、彼女はちょっと眉尻を下げて、哀れむような表情をしていた。
「素面に戻ったイソップのご主人様は、当然焦りまくりだよね」
ハートフルルームにチャイムが鳴り響いた。三時間目の終わりを報せるチャイムだった。清六は気に留めず、話し続ける。
「でも、そこでイソップがご主人様に入れ知恵して、賭けをドローに持ち込むことに成功するんだけど、その入れ知恵ってのがさ」
教室棟で沸き起こった休み時間の喧騒の波が、反対側に位置するこの特別棟にも、にわかに忍び寄ってきているのが分かる。授業中に比べて、ハートフルルーム前の廊下を歩く足音も増えてきていた。内心、そういう空気を煩わしく思った清六は、気分を変えたくなって、
「諸君、わしは海の水ば飲み干すとは言ったばってん、海に注ぎよる川の水まで飲み干すとは言っとらんけん、今すぐ世界中の川ば堰き止めてもらわないかん、ってやつだったんだって」
芙呂鷺は、ふふふ、と顔をほころばせた。
「イソップのご主人様、どうして方言なんだい?」
彼女の反応が清涼剤になり、清六はにっこり笑って、
「こんな感じでさ、言葉遊びはあくまで言葉遊びなんだし、意味を聞いて、へーなるほど、って思ったんなら、それでいいんじゃない?」
と結んだ。
「それなら、私はその通りになったよ、君がこんなに楽しい話をしてくれたからね」
「いやはや、それほどでも」
清六は変に謙遜しすぎたりせず、照れ笑い。
「でも、俺も鈴木さんとこんな話ができて楽しいよ、シェイクスピア読んでる人なんて、今までいたことなかったから」
芙呂鷺は清六を真っ直ぐ見て、そして、
「私は好きだよ、堀くんのそういうところ」
と、まるで最近話題の男性アイドルがヒロインに告白するシーンのようなキメ顔で、そう言った。
その瞬間、がらっと音を立てて、ハートフルルームのドアが開いた。芙呂鷺が真っ先にドアのほうを見た。
「おや、北里先生」
清六も彼女に続いて、ドアのほうに顔を向けた。そこには、顔が赤くなっているかもしれないのを、芙呂鷺に見られたくないという魂胆もあった。
二年二組を受け持つ北里先生は、去年、本教員になったばかりの、若い女の先生だった。常に、ラフなTシャツの上にスーツジャケットを羽織っていて、それが先生のトレードマークになっている。
北里先生が、清六と芙呂鷺の間に立って、交互に微笑みかけた。
「二人とも、どんな話しよったと? 先生も興味ある」
清六は芙呂鷺のほうをちらっと見た。彼女は、あの柔和なデフォルトの微笑を浮かべながら、清六のほうを一瞥もせず、先生と話を進めた。
「シェイクスピアの作品について少々、堀くんが、なかなか興味深い話を聞かせてくれましたよ」
「マジか、それは先生も是非聞きたかった」
清六は、人当たりのよさそうな、よそ行きの表情を浮かべるばかりで、唇をきゅっと結んでいた。
先生はあくまで優しかった。
「ね、やっぱり二人とも、まだ上には行けんと?」
上、というのは教室のことだった。とりわけ、二人が所属する二年二組の教室のことだった。
「ほら、一応ここに来るだけでも、出席にはなっとるけど、授業受けんと成績にはならんし、今のうちから、高校に向けて、ちょっとずつ慣らしていったほうが、いいと思うけん」
清六は、表情こそそのままだったものの、どんどん目線が落ちていった。
そもそも、一日まるまる休むとじゃなくて、保健室とか、ハートフルルーム登校でもいいけん、学校に来て欲しいって言ったつは、北里先生だったじゃにゃーや。
清六は心の中で毒を吐いた。
この場を流すことはできても、起きてしまった苛立ちは、もやもやしてずっと残り続ける。先生はいつも、この三時間目と四時間目の間の休み時間に会いに来る。しかし、毎回のように同じことを言ってくるわけではなかった。二、三週間に一度ぐらいの頻度か。でも、だからこそ、慣れようとしても慣れなかった。
一方、芙呂鷺は決まって、いつも同じように返していた。
「先生、心配してくださるのは嬉しいですが、やはりまだ、皆と同じようにやるのは、つらいものがあります」
そしてその後、彼女は必ずといっていいほど、清六のほうを振り向いて、付け足すのだった。
「堀くんも、そうだよね?」
この場面の清六は、お膳立てしてくれる芙呂鷺に、おんぶにだっこだった。そして彼は、せめてこれだけは自分で言わなくちゃ、と顔を上げて、北里先生を見るのだった。
「はい、俺もまだ、上には行きたくないです」
北里先生のいいところは、ここで食い下がらないことだった。
先生は特に不服そうな顔も、残念そうな顔もせず、あくまでにこやかに、
「うん、わかった、それじゃ、また様子見に来るけん、またね」
と言い残して、足早に教室を出ていった。
クーラーから出る風の音と、時計の秒針の進む音が、ハートフルルームの中を満たす。
その中で、芙呂鷺がぽつりとつぶやいた。
「『年とるのは、知恵がついてからにしてほしかったというまでさ』」
二人だけになった空間に誰に向けたものでなく放たれ、溶け込んでいったそれを、清六はちゃんと受け取った。
「『リア王』だ」
芙呂鷺が彼に微笑みかける。
「やはり、君ならわかってくれると思ったよ」
チャイムが鳴った。四時間目が始まる。外部の喧騒はぴたりと止んだ。
《引用文献》
・ウィリアム・シェイクスピア(河合祥一郎)、『新訳 ヴェニスの商人』、KADOKAWA、2005年
・ウィリアム・シェイクスピア(河合祥一郎)、『新訳 ハムレット 増補改訂版』、KADOKAWA、2024年
・ウィリアム・シェイクスピア(野島秀勝)、『リア王』、岩波書店、2000年




