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チラリとアドリアンに視線を向けると、うずくまったまま芋虫のように手足を動かしている。自業自得とはいえ、あまりのみっともなさに思わず同情してしまう。
「伯爵家まで馬車を出して差しあげて」
最後の温情で護衛に指示を出すと、アドリアンから呻き声が聞こえてきた。鼻水をすする音までしていることに、ぎょっと目を見開く。
「なんで……なんでだよぉ……」
涙でぐしゃぐしゃに濡れた顔が、イヴェットを見上げた。
「……イヴェットぉ……俺こと支えるって、言ってたじゃないかぁ」
アドリアンの言葉で、初顔合わせの時のことが脳裏に蘇る。
タウンハウスでの、あの日。イヴェットは前日に、緊張して一睡もできなかった。
「……初めてお会いしたとき。アドリアン卿に礼の美しさを褒めると、とても誇らしげな顔をなさっていました」
挨拶の言葉を間違えて親に怒られたアドリアンの手を、イヴェットがキュッと掴んだのだ。遠い、遠い過去のこと。
「一緒に勉学に励んだとき。アドリアン卿に、分からないところはゆっくり理解することを提案したら、『怒らないでくれたのは貴女だけだ』と嬉しそうにしていらしました」
姉の教えに倣ったイヴェットだったけれど、アドリアンの反応を見て、彼は褒めた方が伸びるのだと思えたのだ。「頑張る」と涙を拭いた顔に、嬉しさが心を満たした日も、もう遠い過去のこと。
「アドリアン卿。婚約が決まったとき、わたくしは『末長く支え合っていきましょう』と申したはずです」
ハッと涙を止めて、アドリアンはイヴェットを見つめてきた。その瞳に、微かな揺らぎが浮かぶ。
あの日のことを、もう一度しっかり思い出してくれているだろうか。
「アドリアン卿なりの努力が日に日に失われて、適当にあしらわれることが増していきました。そのことに、わたくしは……」
執務や社交から逃げる彼を、時には縋って諌めて涙も流して、引き止めようとした日々。
それでもこちらを顧みない態度に失望したし、諦めも感じた。でも一番大きな感情は──。
「わたくしは、悲しかったのです」
ぽつりとつぶやいた言葉が足元に落ちた。グッとイヴェットの腰を持つ手に力が入る。自分を気遣ってくれる人が隣にいてくれることは、こんなに心強い。
「縁が消えたのは、貴方が寄り添ってくださらなかった結果です。いい加減ご理解くださいませ」
アドリアンは後悔に顔を歪ませると、だらしなく伸ばしていた足を折り曲げながら頭を地面に擦り付けた。平民が許しを請う時に使う、最上級の謝罪の体勢だ。
「もう一度、機会をくれ。今度こそ……今度こそ、努力して支え合うと誓うから」
五年一緒にいたなかで、一番気持ちのこもった懇願だった。
けれど、もう遅い。
「申し訳ございません。わたくしはエリアス様のことを……お慕いしているのです」
自分には一度も発しなかった言葉を、新しい婚約者に向けている──そのことを今度はちゃんと汲み取ったアドリアンが、再び嗚咽を漏らした。
「さよなら。もう二度とお会いすることはないでしょうが、お元気で」
「イ、イヴェット……イヴェットォォ」
「お客様がお帰りよ」
泣きながら抗うアドリアンを、騎士たちが引きずるように連れていく。彼が馬車の中に押し込まれるまで、イヴェットは目を逸らさず見つめた。
労わるように手を重ねてくれるエリアスは、何も言わない。最後まで、イヴェットの気持ちを優先してくれる彼に、胸の奥がじんわりと温かくなる。彼と出会えて、婚約者になれて、本当に嬉しい。
「……さあ、夜会へ参りましょうか」
「そうだね」
馬車が見えなくなったところで、イヴェットは屋敷へと歩みを進めた。屋敷に近づき周囲が明るくなるにつれ、隣を歩くエリアスの姿が鮮明になっていく。
部屋で髪飾りを直してくれた時と何も変わらない出立ち。なのに、心の蓋が開いたせいか、見ているだけで胸が高鳴る。
「ん? どうかした?」
「いえ……少し身なりを整えなくてはなりませんね」
「ああ、乱れてしまっているか」
うまく誤魔化せてホッとしている最中、手ぐしで髪を整えるエリアスの横から、執事が走ってくるのが見えた。
「トマスだわ」
「本当だ。さっき広間がずいぶんと盛り上がっていた理由、彼なら知ってるかな?」
「そうね……聞いてみましょう」
互いに笑い合い、弾むように足を早める。
灯りに満ちた屋敷へと向かう足取りは、先ほどよりもずっと軽かった。
父が時間稼ぎに稀少なワインを振る舞っていたところにイヴェットとエリアスの登場が重なり、夜会は最高の盛り上がりを見せた。
仲睦まじい二人の姿は瞬く間に貴族中で話題になり、祝いの言葉が相次いで届くこととなる。
その中にはアペール伯爵家からの謝罪状も含まれていた。しかし、それで許されるはずもなく──伯爵家には相応の罰が下った。
エリアスとの婚約が決まる前、伯爵家から届いた手紙の件は父に丸投げしていたけれど、父は契約違反に対する処罰として、賠償金ではなく次期当主への代替わりを求めていた。
その当主交代の手続きが進められていた最中、あの夜に侯爵家からの馬車が到着したことで事態は一変する。
長男が両親を監督不行届として強制的に隠居させ、家督を掌握したのだ。末子アドリアンを甘やかし続けてきたことを、かねてより苦々しく思っていたらしい。
賠償として二領を繋ぐ橋の関税は、向こう五年、全てアペール伯爵家が負担することに決定。アドリアンは伯爵家の片隅にある鍵付きの離れにて、外に出ることを許されないまま生涯を過ごすことになった。
父が監視役として潜り込ませた使用人によれば、アドリアンはイヴェットに届くことのない手紙を書き続けているらしい。婚約期間中は字が汚いからというふざけた理由で一通も寄越さなかった男が……皮肉なものだ。
もう二度と、イヴェットとアドリアンが関わることはないだろう。
エリアスは予定より早く侯爵家で働くことが決まった。王宮で彼が、イヴェットの〈忠犬〉として名を馳せてしまったせいだ。相も変わらず休みの日に侯爵家へ足繁く通っていたことも、早期隊退を後押しした。
イヴェットの隣の部屋をあてがわれたエリアスは、「これからはいつでもイヴェットの気配を感じられる」と満面の笑みで言ってのけた。しかし、それを嫌だと思わない自分も、相当重症なようだ。
そんな満ち足りた日々を過ごし──新緑の茂る六の月に、イヴェットはエリアスと祝言を挙げた。
王太子夫妻も列席する式は、雲一つない空に相応しい盛大なもの。多くの人々に祝福され、二人の門出はこれ以上ないほど輝かしいものになった。
披露宴でも、数多の祝辞を受けた。疲れはしたものの、高ぶる気持ちが勝る。
夜も更けてきたころ、侍女がイヴェットを退出させるために耳打ちをしてきた。それからエリアスと過ごすための準備をするのだと思うと、平静を装うだけでも精一杯だ。
エリアスを一目見てから移動しようと視線を巡らせていたら、姉が優雅な笑みを浮かべながら近づいてきた。
先ほど王太子と一緒に挨拶を済ませたのにと、イヴェットは首をかしげる。チラッと侍女に目を遣る姉は、イヴェットがお支度に出ることに気づいているようだ。
「イヴェット、いよいよね」
「……はい?」
予想外に姉の声は硬かった。笑みにも何だか凄みを感じる。
ススス、と近づいてきた姉は、扇子を広げて内緒話をするときのような小声を出した。
「いいこと、イヴェット。閨は……戦よ」
「……いくさ……?」
「弱さを見せては駄目。痛くても耐えて、耐えて、子のためと、全ての感情を飲み込むの」
座学で習わなかったことを力説する姉は、歴戦の猛者を感じさせる迫力があった。姉が侯爵家にいた頃から仕えている侍女が「王太子妃殿下」と嗜めるように名前を呼んだけれど、見向きもせずイヴェットに鋭い眼光を向けている。
「とても痛いけれど……耐えなければ、その後に寵愛をいただけないのよ。子のために、耐えるのよ。とても痛いけれど。いいわね?」
言うだけ言って満足したのか、「ではご機嫌よう」と優雅に去っていった姉を、絶望の眼差しで見送る。
侍女が困ったように「そんなことございませんよ」と声をかけてくれるけれど、その表情はどこが冴えない。
イヴェットは確信した──今夜は、戦なのだと。
侍女に連れられ身を清めている最中も、姉の言葉が頭から離れない。王太子妃教育でも弱音を吐かなかった姉があそこまで言うなんて、相当の覚悟が必要なのだろう。
たくさんの花々が溢れる寝室で一人、イヴェットは戦々恐々とその時を待った──のだけれど。
結局エリアスとの夜が、覚悟していた「戦」になることはなかった。
──お姉さまの嘘つき!
二人の六人目の子が、親の婚約誓約書を見つけた時。白い結婚の項目に大笑いしたのは、ずっと先の、とても幸せな未来の話。
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