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外はすでに夜の帳が落ち、日中の熱気も風に攫われていた。前庭の馬車道はいつものランタンに加え、屋敷の騎士たちの掲げる灯りでゆらりと照らされていた。
屋敷からは楽団の奏でる優雅な旋律が漏れ聞こえてくる。それを台無しにするような大声が庭に響いた。
辻馬車はすでに帰したらしい。騎士に囲まれている彼に、貴族としての紳士な振る舞いは欠片も見当たらなかった。彼の隣にいた時はお馴染みだった溜め息が零れる。
「アドリアン卿、ここは貴方のいらっしゃる場所ではありませんわ」
「っ、イヴェット! やっときたか! なんだその呼び方は」
相変わらず偉そうなアドリアンが、パンパンと自らの服をはたく。しかし、そんなことで薄汚れた衣服はどうにもならない。
その有り様だけで、伯爵家での扱いは察しがついた。辻馬車で現れたのも、抜け出してきたからだろう。
「まったく。誕生日だから来てやったっていうのに。騎士たちをちゃんと躾けておいてくれよ」
わざとらしい溜め息とともに、やれやれと首を振る尊大な仕草も、自分に起きた不都合の責任を私に丸投げしてくる図々しさも、全く変わっていない。彼の辞書に、反省という言葉はないのだろうか。
「卿。招かれてもいない貴方がいらっしゃっても、迷惑だと申しております」
非はアドリアンにあるとはっきり伝えれば、驚いた目を向けてくる。イヴェットが彼を突き放したのは、初めてのことだ。
一瞬たじろいだものの、アドリアンは引きつった口元に薄ら笑いを浮かべる。
「ど、どうした、イヴェット。まだ怒ってるのか? リナは……そう、リナはひどいんだ! 俺が目をかけてやったっていうのに、急にいなくなってさ」
「わたくしにはもう関係ないことでございます」
ぐだぐだと続く文句をピシャリと遮れば、流石に彼も顔色を変えた。ふるふると震えるアドリアンの手が、矜持を傷つけられたと雄弁に語っている。
「父上が婚約破棄だのなんだの言ってたけど、そうまでして俺の気を引きたいのか! やめてくれ、そんなみっともないこと!」
アドリアンが大げさな身振り付きで叫ぶと、後ろに控えているエリアスの足元で、砂利が強く踏みしめられる音がした。エリアスが前に出ないよう、イヴェットがアドリアンに一歩近づく。
本当に救えない男だと、ここにきて更にアドリアンへの失望が募った。
「いい加減になさいませ」
自分でも驚くほど冷たい声が口をついて出た。
「家同士の契約を、そのように軽々しく口にしてはいけないと……ともに学んだはずですわ」
契約とは、互いの信頼の上に成り立つもの。
それを持ち出すことが、どれほど重い意味を持つのか。そして、それを己の解釈で捻じ曲げることが、両家へのどれほどの侮辱になるのか。残念ながら、彼は理解していなかったらしい。
「私情で婚約破棄は覆りません」
「そ、そんな……」
やっと冗談ではないと気付いたのか、今さら顔色を悪くするアドリアンに冷たい視線を送る。
普通に分かるでしょう、という言葉は飲み込んだ。普通が分からないから家に乗り込んでくる頭の持ち主だ。だから引き際が分からないのだろう。
「俺たちの仲は、こんな事で──」
「こんな事とは、どの事を指してらっしゃる?」
続けようとした弁明にかぶせるように問いただせば、彼は視線をうろうろと彷徨わせた。自分から非を口にするつもりはないらしい。
「もしかして、招かざる客を屋敷に入れなかった素晴らしい騎士たちを、躾けろとおっしゃった事ですか?」
「は?」
先ほどの愚行を挙げれば、思いもしなかったのか間の抜けた声が漏れている。ようやく周囲の視線に気付いたアドリアンは、決まりが悪そうに俯いた。
「いや……その、もう少し前の──」
「前というと……整理の仕方が分からないと、重要書類を床に投げ放った事ですか? それとも、毎度ダンスでこちらの足を踏んでおきながら、一向に練習なさらなかった事とか?」
これまでの不始末を次々と挙げていくと、比例して後ろからの圧が増す。それが自分を大事に思ってくれている証のようで、嬉しかった。
「──あとは……自分の責務を放り出して、平民と不貞をされた事でしょうか?」
全ての不始末の最後に決定打を出すと、アドリアンは地面に膝をついた。今までの愚行の積み重ねが婚約破棄へと繋がったということに、やっと思い至ったのだろう。あまりにも遅すぎるけれど。
「そ、それでも、イヴェット。俺を愛しているから許してくれていたじゃないか」
急に猫撫で声を出してきたアドリアンに、大きめの溜め息が漏れる。その現実を理解しない様に、言いようのない嫌悪が胸に広がった。
「アドリアン卿」
「そんな他人行儀な呼び方はやめてくれ。な?」
「義務でしてよ」
「ああ、俺を愛しているだろ……ん?」
「愛などございません」
甘ったれた態度を改めないアドリアンに、しっかりと現実を突きつける。ここでキッチリ誤解を解いておかなければ、この男はどこまでも同じことを繰り返す。
「いや、でも……俺のこと、ずっと……ほめて、くれてただろ」
「婚約者を立てるのは、政略結婚を円滑に進めるための礼儀ですわ。貴方もご両親から、わたくしを大切にするよう言われていたはずですが」
「……素敵だと……輝いていると……」
「わたくしが、お慕いしていると言ったことがありまして?」
呆然とこちらを見上げるアドリアンに、少し苛立ちを感じてしまう。イヴェットが自分を好きだと思いながら不貞していたなんて、最低だ。紳士の風上にも置けない。
「先ほど挙げた愚行の数々。あれだけのことをされたら、愛など芽生えようがありませんわ」
冷ややかな視線を受け、アドリアンはガクリと項垂れた。ここまで言えば、さすがに理解出来ただろう。
「今夜のことは侯爵家から伯爵家へ、正式に抗議させていただきます」
形ばかりのカーテシーを披露して「ではご機嫌よう」と踵を返した。
後ろに控えてくれていたエリアスと視線を交わすと、どちらともなく笑みを浮かべる。
「エリアス様、見守ってくださってありがとうございました」
「うん……一度頭に血が昇ったけどね。でもイヴェットの凛とした姿で冷静になれたよ」
夜闇の中でも灯りに負けないほどの笑みを湛えるエリアスに、ずっと張り詰めていた身体から力が抜けていく。最近ではこの笑顔が、イヴェットの安定剤になっていた。
エスコートを受けて彼の腕に手を添えたとき、ふっとエリアスが楽しげに息を吐く。
「それに……イヴェットと初顔合わせの日を思い出せて、有意義な時間だったよ」
何故か分からず視線で理由を問うと、エリアスは懐かしそうに目を細める。
「生きる彫刻像って言われたなと」
その言葉で先ほどのやり取りが脳裏をよぎり、ピシリとイヴェットの動きが止まった。義務だとか礼儀だとか、散々に言ってしまった自覚がある。
「それは……どうか忘れてくださいませ」
「どうして? 俺とうまくやっていこうとしてくれたってことだろう? あの時……イヴェットが俺に忌避感を持っていないのが分かって、すごく救われたんだ」
心から嬉しいと分かる微笑みで顔を覗き込まれて、少し頬が熱くなる。まだ、この近さに慣れない。
淑女を保つために一歩下がったけれど、逆にエリアスがもっと距離を詰めてきた。近すぎる。
「それに……今は真っ赤になって困ってるイヴェットに、すごく愛を感じているよ」
まろい吐息が耳元を掠める。夏の空気の中でも分かるその熱さに、甘い痺れが背筋を伝った。
その感覚に、口を開いた──その時。
「そ、そいつは、誰だ、イヴェット……そんな、ま、まさか……」
背後から、悲壮に震える声が割り込んできた。すっかり終わったものとして存在を忘れていたアドリアンが、膝の汚れもそのままにこちらを指差してくる。
「そ、揃いの衣装、だと⁉︎」
「これはこれは。やっと気付かれましたか、元婚約者殿」
エリアスが皮肉を引っ提げて、わざとらしく腰を引き寄せた。密着した二人の衣装は、夜目にも鮮やかに対であることを際立たせる。
「お初にお目にかかります。イヴェットの婚約者であるロスタン辺境伯が息子、エリアスと申します。以後お見知りおきを……していただく必要はございませんが」
先ほどまでの鬱憤が、言葉の端々に滲んでいる。エリアスの社交を初めて見たけれど、実に貴族らしい振る舞いだ。
「そ、そんなの、うそだ……そんな、イヴェット……」
フラフラとこちらに近づいてきたアドリアンに、周りの騎士が警戒する。しかしエリアスが目で制した、その刹那──。
「イヴェットは俺のものだっ!」
アドリアンがエリアスに拳を振り上げる。しかしイヴェットは、抱き寄せられた腕の中で一抹の不安も感じていなかった。
拳が届くより早く、エリアスの脚が鋭く跳ね上がる。鈍い音とともに、アドリアンが砂利の上を転がった。それはまるで、最初から決められていた演武のように淀みがない。
「痴れ者め。彼女の所有を主張できる資格など、お前には一片たりともない」
月に照らされた白い肌。蹴りの反動で逆立つ金の髪。凍てつくような視線。
イヴェットが初めて目にした──〈氷の狂犬〉。
イヴェットはその姿に、恐れるどころか最高潮に胸をときめかせていた。
婚約が決まってからは多忙なことも相まって、今日の夜会を成功させることだけを意識して心に蓋をしていたのだ。しかし今、はっきりと、その蓋がこじ開けられたのを感じた。
「イヴェット、平気?」
「……はい。大丈夫です」
厳しい顔つきでアドリアンに目を向けるエリアスに返事をするも、ドコドコと太鼓のように波打つ鼓動のせいでうまく呂律も回っていない。
不審に思ったのか、エリアスがチラリとこちらに視線を向けた。イヴェットの様子に少し目を見張った彼の頬が、じわじわと赤みを増していく。
「そんな愛らしい顔をして、どうしたの?」
顔を覗きこまれる前から、すでに全身が火照ってしまっている。ふわふわした思考のまま、イヴェットは素直な気持ちを口にした。
「その……あまりにも素敵で……」
「っ! そんな声で、そんな事を……言わないでほしい」
二人してりんごのように真っ赤になっていると、屋敷から賑やかな拍手が聞こえてきた。そろそろもう、戻らなくてはいけない。エリアスもそれを感じたのか、名残惜しそうに身体を離した。




