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婚約解消の書類は、すでに提出済みです

作者: 百鬼清風

 王太子アレクシス・レイヴェンは、露骨に態度を変えたわけではなかった。

 挨拶はあった。表情も硬くはない。言葉も礼節の範囲に収まっていた。

 ただし、会う機会だけが、確実に減っていった。


 エリシア・フォルンベルクは、その変化を感情ではなく記録として捉えていた。

 舞踏会の同席が見送られ、私的な会談は日程未定のまま据え置かれる。

 文書での連絡は要点のみとなり、理由の説明は添えられなくなった。


 不機嫌でも拒絶でもない。だが、前提が共有されていない状態だった。

 エリシアは、その違和感を「冷遇」と呼ぶことを自制していた。

 言葉を選ぶ段階で、感情が判断を歪めると知っていたからだ。


 ある日、王太子の侍従から伝えられた言葉があった。


「いずれ、きちんとお話しします」


 その一文に、期限は含まれていなかった。

 話す内容も、誰が主導するのかも、何一つ明らかではない。


 エリシアは返答を求めなかった。

 代わりに、自室の机に座り、過去半年の予定変更を書き出した。

 日付、理由、代替案の有無。そこに並んだのは事実だけだった。


 婚約とは、感情ではなく契約で成立する。

 それは王家も貴族も例外ではなく、書面が効力を持つ制度だった。

 ならば、判断基準もまた、制度に沿うべきだと彼女は考えた。


 彼が約束を守っていないのか。

 それとも、約束自体がすでに存在しないのか。


 その問いに答えるため、エリシアは王宮法規集を開いた。

 婚約解消に関する条項は、思ったよりも簡潔だった。

 一方的な不履行が続いた場合、当事者の申し立てで手続きは開始できる。


 必要なのは、感情ではなく証明だった。

 彼女は私的な手紙を数通抜き出し、日付順に並べた。

 約束が先延ばしにされた記録は、そこに明確に残っていた。


 エリシアは深く息を吸い、紙に向かった。

 怒りも悲しみも、その場では役に立たない。

 必要なのは、判断を実行に移す静かな集中だった。


 翌日、彼女は王宮事務局を訪れた。

 応対に出たのは、事務局長グラハム・セルディだった。


「ご用件を」


 簡潔な問いに、エリシアは書類を差し出した。


「婚約解消の申請です」


 グラハムは眉を動かさず、内容を確認し始めた。

 署名、証人、提出理由。形式に不備はなかった。


「期限内です。受理できます」


 その言葉は、淡々としていた。

 感想も評価も添えられない。だからこそ、確定の意味を持つ。


 手続きが進む間、エリシアは一度も王太子の名を口にしなかった。

 必要なのは人物評ではなく、事実の整理だったからだ。


 事務局を出たとき、彼女の足取りは変わらなかった。

 解放感も高揚もない。ただ、停滞が終わったという実感だけが残る。


 その夜、王太子からの連絡はなかった。

 それ自体が、彼女の判断を裏付けているように思えた。


 エリシアは机の上を片付け、次に進む準備を始めた。

 待つ立場に戻る選択肢は、すでに消えていた。



 婚約解消の申請が受理された翌日、エリシア・フォルンベルクは通常通りの朝を迎えた。

 屋敷の回廊には冬の名残が薄く漂い、磨かれた床が靴音を静かに返す。

 変わったのは空気ではなく、彼女の予定表だった。


 午前は王宮事務局への追加提出、午後は証人確認の最終照合。

 それらは特別な行事ではなく、事務処理の延長として記されていた。

 感情の記入欄は、最初から存在しない。


 執事は、いつもより一拍遅れて口を開いた。


「本当に、よろしいのですね」


 問いは慎重だったが、引き留めではなかった。

 エリシアは頷き、机上の封筒を指で整える。


「必要なものは、すでに揃っています」


 王宮事務局の執務室は、昼前になると最も静かだった。

 文書の擦れる音だけが、一定の速度で空間を満たす。

 グラハム・セルディは、差し出された追加資料に目を通した。


「証人二名、期日内。理由は不履行の継続」


 読み上げは、評価ではなく確認だった。

 エリシアは補足を求められなかったため、言葉を足さない。


「一点だけ確認します」


 グラハムが視線を上げる。


「王太子殿下への事前通達は」


「義務ではありません」


 答えは即座だった。

 制度上の要件を、彼女はすでに把握している。


 グラハムは頷き、朱印の位置を示した。

 書類はそこで完結した。


 執務室を出ると、廊下の先で貴族の一団とすれ違った。

 視線が集まるが、誰も声を掛けない。

 事情を知らないからではなく、確認が済んでいないからだ。


 その日の夕刻、王太子の名で回覧文書が出回った。

 内容は抽象的で、関係の整理を示唆するに留まっている。

 期限も手順も示されていない。


 エリシアはその文面を読み、静かに折り畳んだ。

 判断を遅らせるための文書は、判断を覆す力を持たない。


 翌朝、事務局から正式な完了通知が届いた。

 簡潔な文面で、付記もない。

 それが制度の結論だった。


 エリシアは封を解き、内容を確認した後、保管箱に収めた。

 ここまで来れば、振り返る理由はない。


 午後、王太子の侍従が屋敷を訪れた。

 用件は短く、表情は整えられている。


「殿下より、お話の機会を設けたいとのことです」


 エリシアは即答しなかった。

 代わりに、机上の通知書を一度見た。


「内容次第です」


 それ以上の説明は求めない。

 話すべきことがあるのなら、向こうが具体を示すべきだった。


 侍従は一礼し、引き下がった。

 その背に、彼女は何も期待を預けなかった。


 その夜、エリシアは次の予定を書き込んだ。

 空白だった欄に、新しい役務の打診が入る。

 停滞が終わると、席は自然に巡ってくる。


 婚約解消は終点ではない。

 判断を実行した結果に過ぎなかった。



 王宮の小会議室は、午前の光が均等に行き渡るよう設計されていた。

 窓際に立つ者の顔色も、中央に座る者の表情も、同じ明るさで照らされる。

 そこで行われる発言は、曖昧さを許されない。


 エリシア・フォルンベルクが呼び出しを受けたのは、その小会議室だった。

 名目は「関係整理に関する確認」。

 文言は中立だが、招集の主は明らかだった。


 室内に入ると、すでにアレクシス・レイヴェン王太子が席に着いていた。

 正装ではあるが、儀礼用ではない。

 公式と私的の境目を曖昧にした装いだった。


「来てくれてありがとう」


 先に口を開いたのは王太子だった。

 声の調子は穏やかで、衝突を避ける意図が透けて見える。


 エリシアは一礼し、向かいの席に座った。

 返答はしない。挨拶以上の言葉は、まだ必要ではなかった。


「きみも知っていると思うが、いずれ正式に婚約破棄を宣言するつもりだった」


 その言葉は、説明ではなく前置きだった。

 自分が主導権を持っていたという前提が、無意識に含まれている。


 エリシアは王太子の視線を受け止めたまま、口を開いた。


「すでに手続きは完了しています」


 一文で足りた。

 感情も評価も含めない、事実だけの返答だった。


 王太子の表情が、わずかに止まった。

 予想外だったのは、破棄そのものではない。

 自分の知らないところで終わっていたという点だ。


「……どういうことだ」


「王宮事務局に申請し、受理されています」


 エリシアは、あらかじめ用意していた控えを机上に置いた。

 日付、受理印、完了通知。

 確認に必要な要素は、すべて揃っている。


 王太子は書類に目を落とした。

 否定の言葉は出なかった。

 制度の前では、個人の意図は効力を持たない。


「君は……急ぎすぎだ」


 それは非難ではなく、自己弁護に近い言葉だった。

 エリシアは首を振らない。

 訂正する必要も感じなかった。


「期限が示されていませんでした」


 それだけで十分だった。

 待つ理由がなかったことを、淡々と示す。


 その場には、第三者として事務局長グラハム・セルディも同席していた。

 彼は二人の会話に介入せず、必要なときだけ口を開く。


「婚約解消は、規定通り完了しております」


 宣告は短い。

 それ以上でも以下でもない。


 会議は、それで終わった。

 和解も断罪もない。

 あるのは、処理済みという結論だけだった。


 しかし、その日の午後、王太子は別の場所で言葉を発した。

 貴族たちを前に、あくまで体面を保った口調で。


「婚約については、私の判断で整理する予定だった」


 直接の虚偽ではない。

 だが、時系列は意図的にぼかされていた。


 その発言が広まった頃、事務局は静かに通知を回した。

 正式な婚約解消完了の報告。

 日付は、王太子の発言よりも前になっている。


 事実は、修飾を必要としない。

 並べられたとき、どちらが先かは一目で分かる。


 エリシアは、その知らせを自室で受け取った。

 執事が差し出した文書に、余計な言葉は添えられていない。


「以上です」


 それで足りた。

 説明されるまでもなく、状況は理解できる。


 彼女は窓辺に立ち、庭を見下ろした。

 季節は変わりつつある。

 人の関係も、それに似ている。


 終わったものを、引き延ばす理由はない。

 終わったことを認めない態度が、評価されることもない。


 エリシアは机に戻り、次の予定を確認した。

 呼び止められることはなかった。

 それが、すべてを物語っている。



 王宮の執務棟は、午前と午後で空気が変わる。

 午前は処理の場であり、午後は配分の場になる。

 誰に、どの役目を渡すかが静かに決まる時間帯だった。


 エリシア・フォルンベルクに届いた招集状は、その午後のものだった。

 形式は簡素で、用件も短い。

 「面談」。それ以上は書かれていない。


 彼女は指定された時刻より、わずかに早く到着した。

 待たされる可能性を計算に入れての行動だったが、

 結果として、彼女が最後ではなかった。


 室内には、すでに一人の男がいた。

 年齢は三十代半ば。派手さはないが、姿勢が崩れていない。

 書類に目を落とす指先に、迷いがなかった。


「フォルンベルク伯爵令嬢ですね」


 声は低く、確認のためだけに発せられている。


「はい」


「私はローレンス・アルヴィン侯爵です」


 名乗りの後、余計な肩書きは続かなかった。

 王宮監査に関わる立場だと、エリシアは事前に把握している。


 二人の間に置かれた机には、数枚の書類が並んでいた。

 その中に、見覚えのある書式が含まれている。

 自分が提出した婚約解消申請の写しだった。


「一つ、確認したいことがあります」


 ローレンスは、紙から目を離さずに言った。


「なぜ、直接話し合わなかったのですか」


 問いは率直だった。

 試す意図も、誘導も感じられない。


「必要がなかったからです」


 エリシアは即答した。

 言葉を飾る理由が見当たらない。


「期限が示されず、判断材料が増えない状況でした。

 その状態での対話は、結論を遅らせるだけです」


 ローレンスは、そこで初めて顔を上げた。

 興味を示すが、驚きはない。


「感情的な衝突を避けた、と?」


「衝突ではなく、停滞を避けました」


 訂正は穏やかだったが、明確だった。

 彼女の基準は一貫している。


 ローレンスは一度頷き、別の書類を差し出した。

 王宮内の契約監査補佐に関する打診書だった。


「判断できる者が、今、足りていません」


 それは勧誘ではなく、現状説明に近い。


「立場は独立。誰かの意向を忖度する必要はない」


 エリシアは、その条件を頭の中で整理した。

 責任、裁量、時間。

 いずれも、彼女が避けてきたものではない。


「検討期間は」


「不要です。今ここで断っても構いません」


 ローレンスはそう言って、視線を逸らさなかった。

 相手の決断速度を測っている。


 エリシアは書類を手に取り、必要な箇所だけを確認した。

 感情が入り込む余地はない。


「お引き受けします」


 その言葉に、重さはない。

 だが、迷いもなかった。


 ローレンスは小さく息を吐き、初めて笑みらしきものを浮かべた。


「では、これからは対等な立場ですね」


 エリシアは頷いた。

 対等という言葉を、条件付きで受け取る必要はない。


 面談が終わり、執務棟を出たとき、日は傾き始めていた。

 振り返る場所は、もう背後にはない。


 待つことで得られるものは、もう計算済みだった。

 選び、動いた結果として、今がある。


 エリシアは歩みを止めず、次の席へ向かった。

 そこが、自分で選び取った場所だと理解していたからだ。



完。

よろしければ何点でも構いませんので評価いただけると嬉しいです。

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― 新着の感想 ―
非常に事務的な婚約手続きですが、ひょっとしたら貴族社会ってこんな感じなのかもしれないですね。ありがとうございました!
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