『水底の約束』
この作品は「夏のホラー2025」応募用に執筆した短編、《水底の約束》です。
幼い頃の体験をもとにした記憶と、「約束を果たせなかった子どもが大人になったとき、どんな代償を払うのか」というテーマを重ね合わせて描きました。
舞台は川、空き家、井戸といった日常にある“身近な場所”。そこに潜む怪異と、家族の絆を軸にした物語です。
少しでも背筋に冷たいものを感じてもらえたら嬉しいです。
それでは、どうぞ――。
幕1:記憶の呼び水
水の音は、遠くからやってくる。
最初はかすかな虫の羽音にまぎれ、やがて鼓膜を叩き、気づけば心臓に響いてくる。
――その音をはっきりと聞いたのは、僕がまだ幼稚園の年中の頃だった。
川沿いの細道。
夏の日差しに照らされて、鉄の柵はじっとりと熱を帯びていた。
僕はふざけ半分でその柵の裏側を伝い歩きしていた。背中には濁った川の流れ。
足場は狭く、子どもの足には心もとない石段。
川は昨日の雨で増水していた。茶色に濁った水は轟音を立て、今にも溢れそうにうねっていた。
柵は頼りなく揺れ、汗で手のひらはすべりやすくなっていた。
「ここまで来たら、もう少し行ってみたい」
幼い好奇心が、僕を危険に追いやった。
その瞬間だった。
握っていた柵がぐらりと揺れた。ボルトが抜けかけていたのだろう。
次の瞬間、僕の体は宙に浮き、そのまま濁流へと叩きつけられていた。
水は容赦なく全身を包み込み、冷たい泥が鼻と口を塞いだ。
呼吸ができない。胸が焼けるように苦しい。
必死に叫ぼうとしても声は泡に変わり、視界は白く弾ける。
耳の奥でドンドンと心臓が暴れる。
肺は破れそうに膨らみ、頭の奥がじんじんと痛んだ。
手足は空を切り、体は回転し、上も下も分からなくなる。
暗闇の中、光はなく、あるのは轟音だけ。
水の重さが体を押し潰し、冷たさが骨まで染み込む。
「もう終わりだ」――そう思った。
その時だった。
『大丈夫だ。落ち着いて、泳げばいい。お前ならできる』
低く、しかし不思議なほどよく通る声が耳に響いた。
知らない声。でも懐かしい。祖父の声だ、と直感した。
顔も覚えていないはずなのに、なぜかそう思えた。
その声に従うように、腕をかき、足を蹴った。
泥水の中で必死に必死に、ただ生きたい一心で。
やがて、指先が硬い鉄に触れた。
川岸に降りるための点検用の梯子。そこに必死でしがみつき、泥を吐きながら這い上がった。
「だいじょうぶ!? だいじょうぶ!?」
耳元で女性の声がした。
気がつけば、通りかかった近所のおばさんに抱き抱えられていた。
その温かさに触れた瞬間、張りつめていたものがほどけ、声にならない嗚咽がこぼれた。
駆けつけた警察が柵を調べ、すぐに封鎖した。
その時、おばさんが「ボルトが緩められていたのかもね」と呟いた。
誰かのいたずらだったのか――それは結局わからなかった。
その後、あの声を聞くことは二度となかった。
だが、僕は確かに命を拾った。
それが、僕と「声」との最初の邂逅だった。
幕2:六年生の夏と忘れられた約束
山里の神社
小学校三年生の夏、母が突然、立てなくなった。
前日まで普通に家事をしていたのに、朝目を覚ますと、布団から起き上がることすらできない。
慌てて病院に連れていくと「腰のヘルニア」と診断された。
だが、医師の説明は奇妙だった。
「ここまで立てなくなるほどの重度ではない。痛み止めで数日すれば改善するはずです」
だが、母は一向に歩けるようにならなかった。
退院して自宅療養になっても、布団から起き上がると涙を浮かべ、動くことを拒んだ。
その様子を聞いた母のいとこが、ある日父にこう告げた。
「うちの近くにね、不思議なことをみてくれる神主さんがいるの。医者が首をかしげるような時は、一度みてもらった方がいい」
母もこの状態から抜け出したいと願っていたのだろう。
迷った末に「行ってみたい」と言った。
――次の休日、僕は父と母と一緒に、いとこの家へ向かった。
電車を乗り継ぎ、さらにいとこの迎えの車に揺られて山道を登っていく。
窓の外には棚田が広がり、やがて民家も途切れ、鬱蒼とした杉林に囲まれた細い道が続いた。
「人けがない……」と幼い僕は不安になった。
車を降りると、そこにはひっそりとした神社があった。
苔むした石段、誰も歩いていない参道、風に鳴る木々の音。
境内は広いのに人影はなく、蝉の声さえ遠く感じられた。
「ここが……」
母がつぶやく。だがその顔には、なぜか痛みの色がなかった。
驚いたことに、さっきまで立てなかった母が、自分の足で歩いていたのだ。
「……痛くない」
母自身が驚いたように言った。
僕は手をぎゅっと握ったまま、石段を上った。
神社の玄関先に立ったとき――耳に異様なものが飛び込んできた。
呻き声。
老人のように苦しげにうめく声が、すぐ傍から聞こえる。
それに混じって、子どもが笑いさざめく声。男女二人、楽しそうに駆け回る声。
だが、周りには誰もいなかった。
「……!」
僕は怖くなり、母の腰にしがみついた。
その時、玄関がギィと開いた。
現れたのは中年の神主だった。白衣をまとい、落ち着いた目をしていた。
彼は僕を見るなり、低く言った。
「何か、聞こえているんじゃないか?」
僕は慌てて首を横に振った。
「……聞こえない」
本当は聞こえていた。だが怖すぎて、認めることができなかった。
中へ入ると、声はますます大きくなった。
床下から、壁の裏から、あちこちで呻きと笑いが湧き上がる。
僕は母から一歩も離れられなかった。
神主は母に向き直り、落ち着いた声で言った。
「あなたには心当たりがあるでしょう。……山里に、もう一人暮らしているお婆さんがいる」
母は驚いたように目を見開いた。
「……はい。私の祖母です」
「そのお婆さんが嘆いている。最近お墓参りに来てくれていないと」
母は顔を覆い、泣き出した。
神主は淡々と続けた。
「帰ったらすぐに墓参りをしなさい。そうすれば、すぐ良くなる」
その言葉の通り、母はその後回復へ向かった。
だが、その場で神主の目は再び僕に向いた。
鋭く、見透かすような目だった。
「君は、おじいちゃんに守られているね」
僕は息をのんだ。
「本当は、一度死んでいる。……助けてもらった記憶があるだろう?」
川で溺れかけたあの日のことを思い出した。
祖父の声を聞いた記憶。
ズバリ言い当てられ、体が震えた。
「やんちゃだから、これからも死にかけることはあるだろう。だが、おじいちゃんが“ストップ”と言ったら必ずやめなさい」
神主はさらに言った。
「そして君は、人が言葉にしていなくても、心の中を感じてしまうだろう」
僕は返事ができなかった。図星だった。
最後に神主はこう告げた。
「君の家は霊道になっている。良いものも悪いものも通る。……このお札を玄関と勝手口に貼りなさい。君自身の手で」
僕は震える手で御札を受け取った。
その日の夕方、父に脚立を支えてもらいながら、僕はお札を貼った。
貼った瞬間、耳の奥に、あの神社と同じ呻き声が押し寄せた。
いや、それ以上の数。呻き、叫び、笑う声が四方から聞こえてきた。
僕は恐怖で震えた。
それから十三歳になるまで、毎晩のように誰かの声に悩まされる日々が続いた。
幕2(続き):六年生の夏と忘れられた約束
空き家での出来事
夏休みになると、僕は毎年、田舎のおじさんの家に預けられていた。
同じ歳の子はおらず、過疎化の進んだ村で遊ぶのはもっぱら虫取りや川遊び、畑の手伝いだった。
それでも、僕にとっては街にはない自由と冒険に満ちていた。
だが六年生の夏――僕は一日、姿を消した。
翌朝、村人たちが心配して探し回り、空き家の前でぐっすり眠っている僕を見つけた。
「なんでこんなところで……」と誰もが首をかしげた。
けれど、僕自身はおかしなことに、怖さも不安もまったくなかった。
まるで、楽しい遊びのあとで満足して眠ってしまった子どものように。
記憶をたどろうとすると、断片的にしか思い出せない。
――暗い部屋の中、古びた畳の匂い。
――見知らぬ子どもたちの笑い声。
――誰かに手を引かれ、走り回る感覚。
そして最後に、誰かが耳元で囁いた。
「来年も、また遊ぼうね」
その声だけははっきり覚えている。
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水の子との遊び
後になって思い出すと、それは不思議な一日だった。
僕は確かに空き家の中で、見知らぬ“子どもたち”と遊んでいた。
古びた畳の部屋で、かくれんぼや鬼ごっこをした。
障子の影から忍び笑う声、板間を走る足音。
なのに、村人たちは「誰も住んでいない家だ」と言った。
彼らは時に外に連れ出し、川辺でも遊んだ。
石を投げて水切りをし、僕が五回も跳ねさせると歓声が上がった。
「すごい! もっとやって!」と笑う顔が、夕日に照らされて揺れていた。
縁側では紙芝居ごっこもした。
誰かが絵を描いた紙を持ち寄り、声色を変えて読み聞かせる。
僕は聞き手になり、腹を抱えて笑った。
時に「こっちにおいで」と呼ばれ、廃屋の裏庭で虫を捕まえたこともあった。
黒光りするカブトムシを見せ合い、勝手に“相撲大会”を始めて遊んだ。
その楽しさは、まるで夢のようだった。
いや、今思えば、本当に夢の中の出来事だったのかもしれない。
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約束
夕暮れ、遊び疲れた僕に、彼らは言った。
「もう帰る時間だね」
「でもまた、来年も遊べるよね?」
僕はうなずいた。
「うん。また来る」
その瞬間、子どもたちの顔がほころび、声を揃えて笑った。
「約束だよ」
――それが、あの日の最後の記憶だった。
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忘却
だが、中学に進学すると、部活や友達付き合いに忙しくなり、その約束はすっかり忘れてしまった。
空き家で過ごした一日も、ただの夢だったのだと思い込むようになった。
不思議な声も、遊んだ記憶も、日常に流されて薄れていった。
けれど、その約束は確かに残っていた。
僕の知らぬところで、あの“水の子”たちは、待ち続けていたのだ。
その夏、子どもたち三人を田舎に預けてから、僕は少し安心していた。
だが数日後、村の人から一本の電話が入る。
「子どもたちが夕方から戻っていない」
胸が凍りつき、急いで駆けつけた。
探し回るうちに見つかったのは、古い井戸のそばに散らばった三人の靴だった。
呼んでも返事はなく、井戸の中からは冷たい風と、水音のようなざわめきが響いてくる。
――そこに吸い込まれるようにして、僕自身も闇の底へ落ちていった。
幕3:水底の遊戯
水底の村
井戸に吸い込まれるように落ちていった。
気づけば僕は、暗く青い光に包まれた世界に立っていた。
そこは水底の村だった。
水面の下に沈んだはずなのに、呼吸はできる。
木造の家々が濡れ、瓦屋根には藻が垂れ下がり、青白い火の玉がふわふわ漂っている。
地面はぬかるんだ土。足を踏みしめると、水がじゅくりと滲み出す。
「……ここは……」
息をのむ僕の耳に、子どもたちの声が重なった。
「やっと来たね」
「ずっと待ってたよ」
声の方を振り向くと、そこにいたのは――。
ソラ、カイ、リク。
そして、その前に立ちはだかる“水の子”たちだった。
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再会
水の子たちは、僕より少し幼く見えた。
着ている服は古びて色あせ、肌は青白い。
目は澄んでいるのに、どこか淋しさを湛えていた。
「……お父さん!」
ソラが駆け寄ろうとしたが、水の子が手を広げて阻んだ。
「来年も遊ぼうって言ったのに」
「どうして来なかったの?」
その声は責めるようで、しかし泣きそうでもあった。
僕は息をのんだ。忘れていた。
六年生の夏、確かに交わした約束を。
「ごめん……」
それしか言えなかった。
けれど、水の子たちは首を振った。
「もう、遊べないの?」
「もう、忘れちゃったの?」
彼らの瞳に宿るのは怒りではなく、孤独だった。
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提案
僕は膝をつき、声を振り絞った。
「遊ぼう。……もう一度、一緒に。
そして、ちゃんと別れよう」
水の子たちは顔を見合わせ、やがて小さくうなずいた。
「じゃあ……あそぼう!」
その瞬間、青白い火がぱちぱちと弾け、水底の村に子どもたちの笑い声が響いた。
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数え歌
最初に始まったのは数え歌遊びだった。
手をつないで輪になり、歌いながら回る。
「ひとつ、ふたつ、みっつ……」
声は水の中に溶け、反響して重なる。
ソラは必死に声を合わせ、カイは途中で間違えて笑われた。
リクは調子をとるように手を叩き、音を響かせた。
輪が回るたびに水面がざわめき、火の玉が揺れた。
笑い声があがり、僕の胸にも懐かしさがこみあげる。
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水切り
次は川辺での遊びだった。
水底にありながら、なぜか川面が広がっている。
石を拾い、水面へ投げる。
「ほら、やってみて」
水の子が促す。
カイが腕を振りぬくと、石は三度跳ねた。
「やった!」と声を上げると、水の子たちも一緒になって拍手した。
ソラは慎重に石を選び、四回跳ねさせた。
リクはうまくいかず、すぐに沈んでしまい、悔しそうに唇をかんだ。
「次は僕が教えてあげる」とカイが胸を張り、兄弟げんかのような笑いが起きた。
そのやりとりに、水の子たちもころころと笑った。
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かくれんぼ
やがて村の中に戻り、かくれんぼが始まった。
濡れた家々の影、崩れかけた蔵、藻に覆われた神社の裏。
どこも隠れる場所だらけだ。
ソラは戸口の陰に、カイは屋根の上に、リクは水草の中に身を潜めた。
水の子たちも散っていき、僕は一人で鬼を引き受けることになった。
「もーいいかい?」
「まーだだよ!」
声が響き渡る。
探して歩くうちに、背後から「わっ!」と驚かされ、僕は思わず飛び上がった。
水の子たちがころころ笑う。
ソラもリクも、それにつられて声を上げた。
水音が笑いに混じり、村全体が賑やかになった。
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鬼ごっこ
最後は鬼ごっこだった。
村を駆け回り、泥に足を取られながら走る。
ソラが転びそうになると、リクが手を引いた。
カイは果敢に鬼へ立ち向かい、逃げる時間を稼いだ。
「捕まえた!」
鬼にされた僕はリクの背中を軽く叩き、リクが鬼になる。
「うわー!」と叫びながら逃げる姿に、水の子たちも腹を抱えて笑った。
その光景は、たしかに“遊び”だった。
恐怖も祟りもなく、ただ楽しい時間が流れていた。
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別れ
夜が更けた。
青白い火は弱まり、村に静けさが戻る。
「もう帰る時間だね」
水の子の一人がつぶやいた。
「……うん」
僕はうなずいた。
ソラもカイもリクも、不安そうに僕の手を握っていた。
水の子たちは微笑んだ。
「ありがとう。楽しかった。また、あそべた」
その体が泡のように崩れ、光の粒になって水に溶けていった。
残ったのは、ほんのりとした温もりと、笑い声の余韻。
僕は涙をぬぐい、子どもたちを抱き寄せた。
「……帰ろう」
その瞬間、足元がふわりと浮き、視界が反転した。
幕4:帰還とエピローグ
帰還
ふっと、体が軽くなる。
足元がふわりと浮き、青白い光が薄膜のように剥がれていく。水の匂いが遠のき、代わりに湿った土と雨上がりの草の匂いが鼻先をくすぐった。
瞼を開けると、僕は古井戸の前に膝をついていた。
夜明け前の空は灰色で、低く垂れこめた雲の裂け目から、薄い光が地面を撫でている。遠くで鶏が短く鳴き、水滴の落ちる音が、もう怪異ではなく現実の音として耳に返ってきた。
「……ソラ! カイ! リク!」
名前を呼ぶ声は、自分でも驚くほど掠れていた。井戸の縁から少し離れた土の上に、三つの小さな体が横たわっている。
駆け寄り、頬に触れる。冷たいが、柔らかい。脈を探す。――ある。呼吸もある。胸の上下がかすかに見える。
安堵が一気に膝から力を奪い、僕はその場にしゃがみ込んだ。震える指先で、泥に汚れた頬を拭う。ソラの睫毛に水滴が残り、リクの掌には小石が握られていた。カイのポケットからは、平たい跳ね石が半分顔を出している。
「……帰ろう。大丈夫だ。もう大丈夫だ」
その時だ。
耳の奥で、懐かしい気配がひらりと揺れた。
――よくやったな。
言葉というより、骨の内側に触れる温度だった。あの日の川で、濁流の底から掬い上げてくれた声。顔を知らない、けれど僕の中でいつも「祖父」と名づけられていた声。
僕は無意識に井戸へ向き直り、深く頭を下げた。礼を言葉にすると、喉の奥が熱くなり、涙が溢れそうになった。
子どもたちを一人ずつ抱き起こし、背中に背負い、両脇に抱き、空き家の軒先まで運ぶ。泥の斜面は滑りやすく、何度も足を取られた。昔、崖で落ちかけたときに指に残った岩肌の感触が、ふいによみがえる。あのときも、きっと僕は見えない何かに支えられていたのだろう。
軒先に古い毛布が一本だけ残っており、埃っぽい匂いがしたが、ためらわず子どもたちの上にかけた。リクがうっすらと目を開けて、「……パパ?」と口の形だけを動かした。
「パパだ。ここにいる」
小さく頷いたリクは、また眠りに落ちた。
やがて、遠くの道からエンジン音が近づいてくる。村の人だ。昨夜からの騒ぎで、空き家の周囲を見に来てくれたのだろう。
懐中電灯の白い輪がこちらを捉えた瞬間、何人もの安堵の声が重なり合った。
「いたぞ!」
「無事か! 救急車を――」
僕は両手を挙げて制した。「大丈夫です。脈も呼吸もあります。少し休ませてやってください」
村の古老が僕の肩に手を置き、「よう戻ってきた」と低く言った。その掌は温かく、土の匂いがした。
子どもたちは軽トラの座席と荷台に分かれて運ばれ、いとこの家に戻った。熱い味噌汁と生姜湯、湯たんぽ。土間の匂い、畳の匂い、台所で沸く湯の音。
ソラが最初に目を覚まし、「……夢、見てた」と呟いた。
「どんな?」と訊くと、少し考えてから、かすかに笑った。
「水の中に、町があった。火がふわふわしてて、歌ったり、走ったり……。あの子たち、もう、寂しくなさそうだった」
僕は頷いた。「そうだな」
カイとリクも順に目を覚まし、それぞれに短い夢の切れ端を話した。リクは「石、五回跳ねた」と胸を張り、カイは「途中でソラに抜かれた」と悔しそうに顔をしかめた。三人のやり取りを聞きながら、胸の奥の硬く凍った塊が、ゆっくり溶けていくのを感じた。
「もう大丈夫だ。――帰ろう」
僕はそう言って、子どもたちの頭を順番に撫でた。
⸻
河原
雨は正午前には完全に上がった。山の稜線の上に新しい雲が湧き、葉の上の水滴が光る。
僕は三人を連れて、川へ向かった。幼いころ、そして六年生の夏に通った川だ。増水は引き、流れはいつもの速度に戻っている。
河原の石は湿り、日が射すたびに斑に輝いた。水面には小さな波が立ち、そのひとつひとつが、どこかで聞いた笑い声の残響のようにも思えた。
「石、選ぼうか」
僕が言うと、三人は散ってそれぞれに平たい石を探し始めた。
ソラは形の良い薄い石を見つけるのが上手い。掌の上で裏返し、角を確かめ、川面の角度を測るように目を細める。
カイは量より質だといわんばかりに、一度に二、三個だけ選んでは真剣に投げ、結果に一喜一憂する。
リクは「これは跳ねそう」「これは顔みたい」と、石に勝手な名前をつけては駆け回る。
僕は掌に冷たい石の重さを感じながら、静かに息を吐いた。肩の力を抜き、腕を後ろに引き、滑るように石を放る。
石は水面を弧を描いて走り、「トン、トン、トン」と軽い音で跳ねた。四回。五回。
ソラが拍手をし、カイが「次は俺が六回やる」とまっすぐな目で言う。リクは「七回! ななかい!」と無邪気に跳ねた。
「なぁ、パパ」
ソラが石を投げる前に、少しだけ目線を下げる。「来年も、ここに来られる?」
胸の奥で、長く錆びていた言葉が、ゆっくり音を立てて動き出す。
――約束。
あの夏、僕が背を向けてしまった言葉。長い長い時間を経て、もう一度、口にできる。
「来よう。来年も、その次の年も。何度でも」
ソラは大人びた微笑みを浮かべて頷いた。
カイが「じゃあ来年は十回跳ねさせる」と宣言し、リクが「ぼくは八回!」と負けじと拳を突き上げた。
川風が吹いた。
どこからともなく、柔らかい声が混じった気がした。
――よく、言えたな。
祖父の声かもしれないし、川そのものの音かもしれない。どちらでもよかった。僕はただ、胸が少し軽くなったのを感じた。
⸻
墓
その足で、僕らは山の墓地へ向かった。
山道の両脇には薄紫の花が咲き、石段の隙間から小さな草が伸びている。蝉の声はにぎやかだが、風が吹くと不思議に遠くへ押しやられ、木々の葉擦れがそれに代わって耳に届く。
苔むした石塔の前に立ち、深く頭を垂れる。
刻まれた文字は年季が入って薄れかけており、読み取れないところもある。けれど、ここに眠る誰かが、僕と僕の子どもたちを見守ってくれたと、今は素直に信じられた。
「約束を守れなくて、ごめんなさい」
僕は石塔に向かって声に出した。「でも、やっと果たせました。……ありがとうございました」
線香に火をつけると、白い煙がゆっくりと上に伸びた。ソラが小さな花束を供え、カイが水桶で柄杓を満たし、墓の周りに静かに水をかけた。リクは両手を合わせたまま、「またくるね」と真っ直ぐに言った。
風が頬を撫で、木陰がわずかに震える。
――大丈夫だ。お前ならできる。
あの日の言葉が、今は励ましとして、祝福として、胸の底に沈んだ。
⸻
家
いとこの家に戻ると、台所からは煮物と味噌の匂いがした。
ちゃぶ台の上には、湯気を立てるお椀が四つ並べられている。いとこのおばさんは「食べなさい」とだけ言い、僕の肩を一度だけ軽く叩いた。
僕は礼を言い、三人と向かい合って座った。
「パパ」
リクが箸を持ったまま顔を上げた。「こわいの、もう来ない?」
「怖いのは、もう“ひとりぼっち”じゃない。だから大丈夫だ」
言いながら、僕は自分に言い聞かせていることにも気づく。かつて、家に貼った札の向こう側から押し寄せてきた無数の声。十代の僕を眠らせなかった呻き。
あの頃と違うのは、僕が父になり、隣にソラとカイとリクが座っていることだ。聞こえるものがあってもいい。耳を塞ぐのではなく、必要なときだけ静かに背を向ける術を、もう僕は知っている。
食事が終わる頃、ソラがゆっくり口を開いた。
「来年も、ここに来ようね。……それと、おばあちゃん家のお墓にも」
「もちろん」
カイは箸を置いて、まっすぐ僕を見る。
「パパ、僕……怖くても逃げないで、ちゃんと誰かを守れるようになりたい」
「守るって、まずは自分の体を大切にすることからだ」
言葉にすると、胸のどこかが静かに疼いた。僕自身、何度も越えてはいけない境界へ足を踏み出し、誰かの手を借りて戻ってきた。神主の静かな目、いとこやおばさんたちの手、そして見えない祖父の声。
今度は僕が、子どもたちの手を取る番だ。
リクが思い出したように「来年――」と言いかけて、少しだけ言葉を探し、それから笑った。
「来年も、あの子たちと、ちゃんとさよなら言えたみたいに、ぼく、言えるよ」
「うん」
僕は頷く。「言えるさ」
⸻
余韻
夜、障子に映る庭の影が、風に合わせて揺れた。
布団に横になった三人は、静かな寝息を立てている。枕元には、それぞれが今日拾った平たい石を一枚ずつ置いた。
窓を少しだけ開けると、夜気が流れ込んできて、遠い川の音が運ばれてきた。
――水の音は、遠くからやってくる。
最初は虫の羽音にまぎれ、やがて鼓膜を叩き、気づけば心臓に響く。
幼い日の恐怖と、今この瞬間の穏やかさの間に、薄い膜が張られていて、そこを川の音が行き来しているようだった。
思えば、僕は四十二の年を越えた。神主が昔、「四十二歳に気をつけなさい」と言ったその歳を。
身の回りには確かにいくつかの荒波があり、足元がすくむ夜もあった。けれど、僕はひとつだけ守った。
――誰かの声を、必要以上に覗き込まないこと。
そして、目の前の小さな手を離さないこと。
「祖父さん」
声に出さず、心の中で呼んだ。「ありがとう。僕は、ちゃんと約束を覚える人間になります」
耳の奥で、ほんの短い返事がしたような気がした。
――ああ。
それは風の音に紛れ、すぐに夜の闇へ還っていった。
眠りに落ちる直前、僕はもう一度だけ、井戸の底の村を思い描いた。青白い火と、濡れた家々。水切りの音と、数え歌の輪。
そこにいる小さな子どもたちの影が、振り返らずに前へ進んでいく姿を、僕は確かに見た。
“さようなら”ではなく、“またね”でもない。
――“ありがとう”。
それだけを背中に残して、彼らは水の向こう側へ消えた。
胸の中で、長く張りつめていた糸が、静かにほどけていった。
僕は、やっと息を吐いた。
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明くる朝
朝日が障子を透かして、畳に長い四角を描いた。
台所から米の炊ける匂いが漂い、鶏の鳴き声が一度だけ短く響く。
僕は布団から起き上がり、窓を開けた。空は高く、昨夜の雲は跡形もない。
縁側で背伸びをしていると、ソラが起きてきて、肩に顎を乗せた。
「おはよう」
「おはよう」
続いてカイとリクも眠たげな目をこすりながらやってきて、三人並んで空を見上げた。
「ねぇパパ」
ソラが空に向かって言う。「来年、またこの朝、みんなで見ようね」
「約束だ」
言い終えると、三人が同時に笑った。
その笑い声は、もう誰かを呼び寄せるためのものではない。ただ、今この場所に在ることの喜びを、そのまま外へ放っている音だった。
僕は心の中で小さく手を合わせ、川と祖父と、あの村の子どもたちに礼を言った。
水の音は、今日も遠くからやってくる。
でも、もう怖くはない。
それは、約束を思い出させてくれる合図であり、僕たちがここにいることを確かめるための、やさしい拍子だから。
さぁ、帰ろう。
街へ。日常へ。
けれど、忘れない。
水底に灯る小さな火と、交わされた“ありがとう”の重さを。
僕は三人の背中を軽く押し、川沿いの道を歩き出した。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
本作《水底の約束》は、
「幼い頃の小さな約束」「忘れ去られた声」「家族を守る父親」
――それらが交差する物語として書き上げました。
誰にでも、心の片隅に「子どもの頃の忘れ物」があると思います。
それが時を越えて自分や大切な人に影響を及ぼしたら……そんな“もしも”を、夏の怪談として形にしました。
最後まで読んでくださった方に、心から感謝します。
感想やレビューなどでお声をいただけたら、とても励みになります。
また次の物語でお会いしましょう。
――天坂透真