娘と老婆が通りがかる
「お、ようやっと雨が上がったんじゃねえか、秋親?」
「助かった。風がびゅうびゅう吹くたびに、地味に寒かったのだ」
「それにしても暇だなあ」
「たしかに暇だな」
「読み物の一つでも持ってくりゃあよかったぜ」
「春兵ヱ、文字山ばかり眺めてちゃ、ゴトウ先生を見逃しちまうぜ。ようやく人の通りが増えてきたところじゃねえか」
「そいつはいけねえや! しかし、うむむ、どいつもこいつも目立つ顔はないなあ。平々凡々、おいらたちと変わらんボンクラばかり」
「失礼な奴め。なあに、目立つばかりがゴトウ先生じゃなかろうさ」
「聞いた話じゃ、えらく綺麗な顔だって話だからな――お?」
「どうした、春兵ヱ」
「見ろよ、秋親。あれは結構な美人じゃねえか、ええ? あの柳のそばの娘さんだよ」
「ううむ、たしかにありゃあ別嬪だな。どこぞ、でかい商家の娘さんといったところだろうな。側のばあやを見てみろよ、油断なく周りを見ていやがる。あの眼光の鋭さときたら! ただ者じゃねえな」
「娘さんの方は、やたらときょろきょろうろちょろ、落ち着きがねえなあ」
「人でも捜しているのかね」
「そう見えるなア。恋人かね」
「さァてな、しかし江戸の町じゃあ珍しいことでもない……それで、春兵ヱ、どう思う」
「お、お前、本気かよ! あのお嬢さんがゴトウ先生だって言うのかい! あんな艶々のきらきらの若々しくて利口そうな……や、待てよ、意外にありえるかも知れねえな?」
「おう。なんと言っても相手はゴトウ先生ぞ。何が正解かは、一目見たくらいでなわからぬものだ。人は見かけによらぬもの、思い込みは捨て置くという心でな、よく見ようぜ」
「流石は秋親、その通りだとも。どれどれ……見た目は別嬪、高貴な身分の可能性もなくはない。琴は上手そうだし、商売も上手いのかもな。歌も書もいけるだろうが……でもよう、あんな細腕で那須与一だの一刀斎だの宝蔵院だのは無茶じゃあねえかい」
「ううむ、韋駄天の動きでもなさそうだ」
「そんじゃ、あの子はゴトウ先生ではないか」
「まだ決めつけるのにゃ早いぜ」
「と、言うと?」
「あの娘とばあやと、二人でゴトウ先生を名乗っている――そうだとしたら、春兵ヱよ、どうする?」
「なんだってぇ!」
「ばか、声が大きい! いやなに、オレも色々とな、考えたのよ。考えてみりゃあ怪しいじゃねえか。文武両道才色兼備、あらゆる分野で八面六臂の大活躍の御仁が一人いると言うよりも、複数人で『ゴトウ先生』を名乗っている方が自然じゃねえかってさ。どうだい?」
「複数人でって、それじゃあ『ゴトウ塾』とかでいいじゃねえのよ。なんで個人を装う必要があるんでい」
「知らん知らん、オレに崇高な先生のお考えなど分かるものか。偉いお人の考えることはいつだって不可解なものだ」
「お前なあ……まあ、確かに? お前の言い分もわかるかもしれねえよ、秋親。それじゃあ、あの娘さんが文武の文を、あの婆さんが文武の武を担っていると言うことだ」
「その通り。よく見ろよ、あの身のこなし。一介の女中にしちゃあちと身軽で素早すぎやしないか? なんという健脚、きっと走れば韋駄天かもわからんぞ」
「腕に抱えるでっかい風呂敷包、ありゃあ何が入ってるんだろうね。そんな大荷物を軽々と片腕で持っているし、あの腕っぷしなら弓を引けても驚かねえや。太刀だってきっと軽々振り回すに違いないぜ」
「ううむ、なんともあり得そうな話だ」
「うーん、コリャありえるかもなあ」
「あの娘が見立て通りに商売人の娘なら商売の心得も知っておろう。蘭学は……そいつばかりは、見た目じゃあわからんな」
「おいおい、お前が言ったんだろうよ。もう何人かいるのかも知れねえよ。いっそ商売担当やら、歌担当やら、蘭学担当やらって奴らが。おいらたちは金儲けをしたいんだから、商売担当のゴトウ先生を探せばいいわけだ」
「確かに。――おや?」
「あの婆さん、おいらたちを見たぜ」
「お、こっちに来るぞ」
「おや、もう来たぞ」
「流石は韋駄天婆さん――。……おう、婆さん、いい日和だな。オレらに用事かい」
「それはこちらの言葉にございますよ。失礼ですが、お嬢様に何か御用ですか。先からずうっと物言いたげなご様子でこちらを不躾にじろじろじろじろ、そりゃあ穴の開くほどご覧になるものですから、お優しいお嬢様が是非にも話を聞いてこいとの話でございまして。……見たところ、随分とご立派な様子でいらっしゃいますが、朝も早うからこんな何もない場所で、揃いも揃って一体何をなさっておられるのですか」
「いやあ、立派かい? それほどでもねえよう」
「ばか、嫌味だ嫌味! 浪人者と貧乏人が連れ立って暇を潰して、どこをどう見たって立派なわけねえだろがい! ……ふん、それにしても、婆さんよ、喧嘩は容易く売るもんじゃねえぜ。話をしに来たのか、さては本当に喧嘩しに来たのかよ?」
「いやだいやだ、喧嘩など滅相もない。これは失礼いたしました。なにせ、お嬢様をあまりに不躾にご覧になるものですし、斯様な事態の折に……それで、御用件はなんでございましょう」
「別にこれと言って用事はないのだが……まあ、じろじろと見たのは、確かに気分は良くなかったろう」
「おいらも悪かったよ。おいらたち、朝も早よから人を捜して……うんにゃ、人を待っていたもんでさ」
「謝っていただけるのならようございます。それにしても、人捜しとはまた奇遇なことで」
「ずばり聞くんだけどね、婆さん」
「はあ、なんでございましょう」
「婆さんと娘さんは、ゴトウ先生かい」
「はあ?」
「おい、こら、春兵ヱ! 直接聞くばかがあるか!」
「アイテッ」
「まったく……どなたかと勘違いされて、ジロジロとこちらをご覧になっていたというのはわかりました。お美しいお嬢様は五頭屋惣兵衛様のご長女であられますよ」
「ゴ、ゴトウだって!」
「お、おい、婆さん、そりゃ確かか」
「確かも何も、あなた方、ご存知ないのですか。五穀問屋の五頭屋、五つの頭で五頭屋です」
「なんてことだ!」
「本気の本気でゴトウ先生かよ!」
「いえいえ、本当に先ほどからなんなのですか。しかしですね、お二方。残念ながら、あなた方のことなど存じ上げませんし、うちのもので胡乱な方と外で待ち合わせなどしている者などおりませんし、先生だなんだと言われる筋合いもございませんよ。ゴトウはゴトウでも、きっとゴトウ違いでございましょう」
「……ああ、なんでい」
「……へ、そうかい」
「ものはついでにお聞きいたしますが、私どもも人を捜しておりまして。不審な人か、小さな子どもを連れた男などご覧になっておりませんか。無論、あなた方の他に、という意味ですよ」
「婆さん、さては先からオレらに喧嘩を売っているな?」
「なんのことやら、滅相もないことにございますよ」
「ふん、そういうことにしておいてやろう。それで、不審な奴は特に通らなかったんじゃないか、春兵ヱ」
「そうだよなァ、秋親。この通りに人通りが出てきたのもさっきのことだし……あいや、今朝の爆走舟漕ぎ男は怪しくねえかい?」
「あいつらか。うむ、確かに怪しかったな」
「……と、申しますと?」
「いやな、早朝、まだ雨の降っている時に、雨具も無しに川で何かを探していた男衆がいたのだ。おそらくは人足だろうが、薄汚れているわ、頬傷があるわ、一人なんざ大柄の髭達磨だったぜ。他も似たり寄ったりの風貌だった」
「あ、その目、婆さん、疑っちゃあいけねえぜ。こう見えて秋親は目だけはいいんだよ。おいらも遠目には見たし、信頼に足る情報だぜ」
「川で探し物をする人足風の男たちが舟に……頬に傷、それから髭達磨ですね。ええ、ええ! 信頼に足りますとも!」
「婆さんたちが捜している奴らとおんなじかい」
「いえいえ、そういえば、その男衆は子どもを連れてはいませんでしたか? 小さな男の子です。舟の中に、ご覧には?」
「いんや、見てねえな。あの髭男が子どもにも見えねえしな。知り合いかい、あの男らは」
「確証はありませんが、その男たちは、きっとうちのお嬢様に恐れ多くも懸想している輩でございましょう。気を引こうとあれこれやって、無駄なこと……ええ、ええ、怪しいに決まっています。その情報が聞けただけ、あなた方に声を掛けた甲斐もあるというもの。ありがとう存じます。しかし、雨具もなしに相手もわからず、ただただ健気にゴトウ様を待っておられるお二人も、中々に怪しゅうございますよ」
「む」
「しかし、怪しいお二人がいてくださったおかげでよいことを耳にしました。舟はどちらへ行ったのでしょうか」
「あっちだよ」
「はい、はい、とても助かりました。よろしければ、じきに茶屋も開くでしょうし、二人で団子でも召し上がりなさいませ。なあに、団子代くらい、五頭屋にとっては屁でもないことでございます。ささ、ご遠慮なさらずに」
「お、おう。そいつは、どうも」
「へへえ! オイラたちゃ、貰えるもんは遠慮をしない主義なんでい! 嬉しいねえ」
「見たところ、お二人に悪事は向いてございませんから、悪い方ではないのでしょう。良いとも限りませぬが……いえいえ、それはこちらの話。突然にお邪魔いたしました。私どもは急ぎますのでこれにて……ゴトウ様が早くいらっしゃいますといいですね」
「おう、婆さんたちも、人捜し頑張れよ!」
「じろじろ見て悪かったと、一言伝えてくれよう! ……って、ううむ、韋駄天! もう行っちまった」
「……いや、確かに韋駄天と呼ぶに相応しい婆さんだったな。嵐のように来て去って行ったが、しかし僥倖僥倖、団子代をくれるたあ、ゴトウ先生であろうがなかろうが、いい人じゃねえか。鬼婆かと思ったが、人は見かけによらないものだ」
「しかし、あの人たちはゴトウ先生ではないのかあ」
「ふん、そこがバカなところだ、春兵ヱよ」
「ひでえな、秋親。つまり、どういうことだい?」
「あの二人が違いますだどうのと言ったところで、無関係であると決めつける理由にはなるまいよ。例えばあの娘に許嫁がいて、そいつがゴトウ先生であるやも知れんし、或いはしらばっくれただけやもしれん。無論、違う可能性もあるがね」
「むむう、そいつもそうだな。そいじゃ、あの二人、もとい五頭屋は候補にするか。ゴトウ先生選手権の」
「まだ日も高い。なあに、待っていれば人はいやと言うほど湧いてくる。他の候補はゆっくり待てば良いだろうよ」
「全くもってその通り。しかし、そろそろケツが痛えなあ、どこか椅子に座りてえよ」
「そら、丁度茶屋が開いたところだ。朝飯もまだなことだし、韋駄天婆さんに有り難く世話んなって、麦湯に団子と決めようじゃねえか」
「よしきた、そいじゃあそちらに行こう」