90話 『無茶』 (1999年3月25日 7日目)
「それで、サインしたの?」
プレハブ小屋から出ると、そこにはナズナが居た。
藪から棒な言葉ではあるが、既にショウゾウ先生と話をしていたナズナにとってみれば、中で契約書の話をしていた事は十分予測できる事だろう。
「あぁ。悪い条件でもないと思ったしな。暴食スライムの件がどうなるか判らないけど先の事を考えるのも必要だろ」
「そうね。条件は破格だけれど、貴方は少し渋るかと思ったのだけれど……。さて、それよりもそっちの話ね。ヒルデとの話で色々判ったわ」
契約書に対するナズナの言葉が気にはなったが、それは後で確認すれば良いだろう。
ショウゾウ先生は形式的なものと言っていたが、正しく控えも用意してくれたので後で読み返す事はできる。
それよりも、クリンコフセヌと呼ばれた神の方舟に行く方法の方が今重要な事だろう。
「行き方が判ったのか?」
「えぇ。それは、少し散歩しながら話しましょ」
そう言ってナズナは体育館の入口に向かい始める。
どうやら日付を跨いだこんな深夜に、外を歩く提案らしい。
◇ ◇ ◇
「とりあえず返すわね。アル、何か補足事項でもあればお願いね」
『ふむ。まぁ、良いだろう』
歩きながらナズナは右手だけで首からアミュレットを外そうとするが、長い髪に引っ掛かって苦労しているので、代わりにナズナの首に手を回し、外すのを手伝ってやる。
「まだ動かせないのか?」
「そうね。でも、感覚は戻ってきているから直に動かせるようになるとは思うわね。ただ完全に元通りになるには1、2日ってところかしら」
不便だとは思うが、骨折が2日程度で治るのであればそれそれで凄い事でもある。
「さて、あそこへの行き方の前に、とりあえず向こうの世界の話からね」
ナズナが向けた視線の先には、ここから浮上した方舟がうっすらと赤く光っている。
その光り方は『修正パッチ』や魔核、ステータスボードと酷似しており、恐らく魔法絡みのエネルギーなのだろう。
魔法なんてものはこの世界には無かったが、反転世界ではありふれているのかもしれない。
「こちらの世界にあれらが召喚されたように、向こうに世界にこちらの世界の人が紛れ込む事があるみたいね」
『稀ではあるがな。我も長く生きて来たが遭遇したのは数回だけだ』
稀と言う事は、自然発生的なものだろう。
少なくとも、魔法が存在する世界であっても、よくある勇者召喚等の魔法ではないらしい。
「その中で、カグラ達に協力していた日本人が居たみたいね。クリンコフセヌって文字はそれが理由。案外、単純だったわ」
つまり、反転世界の言語を聞いてカタカナで表記し、それを反転世界の人が真似でもしてロゴの様なものにしたのだろう。
外国でシュールな漢字のタトゥーが入ったり、日本側でも意味不明な内容の英語のTシャツがある様なものだ。
未知の文字はなにかと格好良く見えるのは世界が違っても同じらしい。
「そして、その名前。元々は敵対戦力に対する戦力として『殺戮』とでも呼ばれていた方舟なのだけれど、何かの目的があってクリンコフセヌ――『祝福』と改名したみたい」
「その目的については判らないのか?」
そこが重要だと思う。
何せ、現にそいつはこの世界に召喚され、この世界に破滅的な害を及ぼしている。
それなら、まだ『殺戮』のままだった方が納得できる。
「ヒルデはそこまで詳しくないらしいわ。もっとも、今の状態は事故だったらしいのだけれど」
「事故? どれだけの事故があればこんな状況になるんだ?」
事故と聞くと、召喚魔法の様なものが暴走して予期せぬ被害が出るなんてありがちであるが、さっきの話だと、意識的に世界と繋げる様な魔法はないものと思われる。
そんな背景であれば、何がどうすればこうなるのだろうか。
『ふん。あんなもの事故などではないわ。あんな無茶をすれば失敗して当然。むしろ、この程度で済んで良かったとすら言える』
どうやら、ヒルデよりアルの方が事故についての事情に詳しそうだ。
ヒルデはカグラの従者の様な立場だろうから、恐らくその辺りの事情は知らなかったのだろう。
『コアを共鳴させておった。それで生み出した莫大なエネルギーを何に使うつもりだったかなぞはいざ知らんが、共鳴させるコアの数が違えば弾けるのは道理だろうて』
「その弾けた状態が、世界の移動と巨大隕石、そして世界のバグというわけか。コアとは何物だよ」
今まではあまり深く聞いていなかったが、反転世界の住人においても、地からを持て余している様に聞こえる。
この世界においては核燃料の様な物だろうか。
『さてな。そもコアとは古の時代より存在していた物だ。確認出来ている内では7種あるとされておる』
「7個集めれば願いを叶えてくれるって?」
つい数年前まで放送していたそれでは、神様が球を作り、ドラゴンが願いを叶えていた。
しかし、神様であるカグラも翻弄され、ドラゴンであるアルもコアの所持者側だ。
扱いとしては別物だろう。
『得てして遠からずと言ったところだな。7個あれば世界を造れるという言い伝えがある。そこまで出来るのであれば、何でも思いのままだろう』




